幸せを運ぶもの

譜錯-fusaku-

わたしの幸せ

 三連休が終わり、次の日からは学校があった。昨日は家族で暗くなるまで出掛けていて、家に帰った時にはもう辺りは真っ暗だった。

 小学五年生である美代は、眠い中いそいそとお風呂に入り、寝床についた。布団の中でぐっすり眠った。深夜に大雨が降っていたことにも気づかなかったほどだ。


 いつもよりもやや遅くにベッドを出た時、階下ではもう母が朝食の用意が終わって、掃除をしていた。姉はもういなかった。中学三年生の姉は美代が起きる三十分前には、いつも家を出ていた。

 顔を洗って、ご飯を食べて。

 そうこうしているうちに出発の時間になる。ランドセルを背負って長靴に履き替えた。

 勢いよくドアを開ける。

「行ってきまーす」

「行ってらっしゃい」

 後ろで母の声が聞こえた。

 でも、それよりも美代は目の前に映っているものに釘付けになっていた。それはとにかくおかしかった。

 そこには、たくさんの四葉のクローバーが落ちていた。バラバラに。それだけではない。濡れた地面にふれ、ところどころ踏まれているのだ。

 葉には傷がつき、ちぎれ、擦られて地面に色素がこびりついているようなものもあった。地面はひどく汚かった。

 誰よ。こんなことしたの。

 そう心の中で叫んで美代は潰れたクローバーをまじまじと見つめた。

 四葉のクローバーは幸せの象徴。そう呼ばれているのと、葉に入った模様が好きで、クローバーは美代のお気に入りだった。たくさん生えている場所を見つけて秘密基地にもした。

 それが、こんな形で踏まれて。

 美代はこれが自分に対する敵意の表れとしか思えなかった。

「美代ちゃん。行くよ」

 しかし深く考える時間もなく登校班の子が美代を呼んだ。

「わかった。今行く」

 大きなわだかまりを残しながら、美代は集合場所に走っていった。



 登校中ずっと誰がやったのかを考えていて、思い至ったのは学年一のやんちゃ者、宏介だった。雪の降る日以外はいつも半袖短パンの彼は、よくいたずらをして先生に怒られていた。美代ともよく対立し、喧嘩は絶えなかった。

 宏介ならやりかねない。

 そう思い、美代は彼に文句を言いに行こうとした。

 もちろん一人では怖いので、親友の真咲ちゃんと一緒に。

「真咲ちゃん」

 呼びかけながら教室を見回す。

 真咲はいない。いつもなら早くに着いているはずなのに。

 こちらを振り向いたのは談笑している数人だけだった。

「あれ? 真咲ちゃんは?」

「見てないよ。そういえばいないね」

 近くの人に聞いても不思議そうにそういうだけだった。

「風邪なのかな」

 美代は宏介への抗議を真咲が来るまで見送ることにした。



 始業のチャイムがなり、先生が教室に入る。

 朝の会を昨日の疲れもあって、美代はぼうっとしながらそれを聞き流していた。でも、先生からの連絡は美代を叩き起こした。

「久山真咲さんは、引っ越しして、転校することになりました」

 もちろん初耳だった。

「先生も、先週金曜日に初めて聞いたのよ。急だけど、そういうことで彼女、来てないの。机と椅子は、今日の放課後に移動させます。以上、先生の連絡は終わり。みんな、授業の準備して」

 いつも通り進行していく先生と違って、クラスと美代の心はザワザワしていた。

「久山さん、どこに引っ越したんですか?」

「お別れ会、できないの」

 皆が思い思いにしゃべっている。当分それは落ち着きそうになかった。

 ちらっと真咲の席を振り返る。

 もちろんそこには何もなかった。



 沈んだ気分のまま、家に帰った。

「お母さん、真咲ちゃん、引っ越しちゃったらしいの」

「知ってるわよ。お父さんが転勤になったんだって」

「なんで言ってくれないの」

「ごめんごめん、忘れてたのよ。まさか聞いてないとは思わなくて」

 自分だけ真咲の大事な用事を知らなかったようだ。

 そこでやっと、美代は宏介とクローバーのことを思い出した。玄関はもう母が掃除してくれていたようで緑色は跡形もなく消えていたのだ。

「そうそう、うちの玄関のクローバー、なんであんなのあったの?」

 そう聞くと、母も不思議に思っていたようで、

「誰だろう。知らないわ。あんなにいっぱい集めるだけでも大変なのにね」

 と言った。

 母は美代への嫌がらせの側面には気づいていないようだった。宏介のことは言わなかった。



 次の日こそは忘れなかった。

 いつもより少し早く起きて、いそいそと一番乗りで登校班の集合場所に行った。

 学校に着くと、案の定彼は教室の端で男子数人と話していた。

「宏介くん」

 美代はずこずこと近づいていって声をかける。周りにいた男子がびっくりしたような顔でこちらを振り向いた。

「宏介くんでしょ」

「何?」

 当の本人はとぼけていた。

「何って、私の家の前に四葉のクローバーおいて踏みつけたでしょ」

「は? そんなことしてねえよ。誰かと勘違いしてんじゃないの」

「でも、宏介くんしかいないもん。そんなことするの」

「してねえよ。決めつけで人のせいにすんなよな。決めつけ女じゃん」

 宏介がそう言って笑うと、周りもどっと笑い始めた。クラス中の視線がこちらに集まる。

「嘘。絶対宏介くんだ」

「だから違うって。決めつけ女」

 言えることも尽きてきて、美代が黙っていると、

「はいはい、長谷川くんも松井さんも、席について」

 先生が教室に入ってきた。

 もうチャイムは鳴り終わっていたようだ。

 ムッとした気分で朝学活を聞き流し、授業の準備をした。その一日ずっと、宏介たちのあざけりは私にまとわりついてきた。

 真咲に相談するすべもなく、宏介以外の容疑者も思い至らず、四葉のクローバーの件は有耶無耶になった。





 美代がそれを思い出したのは、中学二年生の時、たまたま見ていたドラマで、四葉のクローバーの特性を知った時だった。

 美代は小説をあまり読まなかったが、その時は「真実は小説より奇なり」を体感したものだ。

 美代が四葉のクローバーの特徴を知って、それと関連して真咲のことを思い起こしていた時、ちょうど休日に一般公開されていた文化祭に真咲が訪れたのだ。

 いきなりの出来事に美代は驚き、浮かれて彼女を案内して回った。

 その日は夢中になりすぎてクラスの出し物のシフトを完全に失念し、クラスメイトと先生にこっぴどく叱られた。

 そんなことは気にならないくらい、美代は嬉しかった。真咲と何を話したかも覚えていない。せっかくだからとメールアドレスを交換して別れてからも、美代は余韻に浸っていた。

 会えないと思っていた真咲との出会いに、夜は全く眠れなかった。



 それから数ヶ月後、美代は真咲を昔遊んでいた秘密基地へ呼び出した。

「お待たせー。ごめん、昔すぎて迷っちゃった」

 肩を上下させながら、真咲が歩いてきた。

「いいよ。今になって考えると、昔すっごい運動してたよね」

「今じゃ考えられないわ」

 そう言いながら、開けたところから空に目をやる。太陽の光がとても眩しい。

 真咲もならってぐるりと見回す。

「あ、あるじゃん。四葉のクローバー。はい。今でも好き?」

 そう言って摘みとったものをこちらに見せた。

「まあまあ、かな」

 前と少しも変わっていない。私たちの他にも誰かここに入ってきたのだろう。

「それにしても、なんで呼んだの?——あ、いや。そういうわけじゃなくて」

「えっと。ちょっと聞きたいことがあって」

「ここで?」

「うん。ちょうどいいから」

 聞きたいことというのは数ヶ月前に思い出した、クローバーのことだった。

「覚えてないかもしれないけど、真咲ちゃん、小学校で転校する前、私の前にクローバー置いたでしょ」

 いきなり話が戻りすぎて混乱したのか「ちょっと待ってね」と首をいくつか捻ったのち真咲は、

「そうそう。置いたよ。確か、急すぎて引越伝えられなかったから。あの時はほんとごめんね。びっくりしたでしょう」

 といった。美代はほっとしたように胸を撫で下ろして続ける。

「それなんだけどね」

 美代は散らばったクローバーのことをかいつまんで話して聞かせた。なるべく真咲の好きなミステリっぽくなるように。

「え、なんで?ひどいな。そんなことするなんて」

「なんでかわかる?」

「分かんない」

「実は、大雨のせい」

 充分間を置いてから、美代は打ち明けた。

「真咲ちゃんが昼間に置いておいてくれたクローバーなんだけど、その日、私は夜遅くに帰ったから気づかなかったの。それで、雨が洗い流しちゃったってわけ」

「へえ、でも、踏まれてたのは?あれは悪意あると思うんだけど」

「それは、お姉ちゃん」

「あんたの?」

「それ以外誰のお姉ちゃんがいるのよ」

 おそらく、急いでいたから雨靴で踏み潰したのだろう。雨のどろもついていたけど、あの頃の美代にはわからなかった。

「で、その惨状を見て」

「うん。宏介にいじめられてると思ったのね」

 沈黙が降りた。

「なんか、ごめんね」

 中学校になって、美代は四葉のクローバーがあまり好きではなくなっていた。なぜなら美代はやっと「クローバーは成長途中に踏まれたら葉が増えやすい」と知ったから。

 美代が今までこの秘密基地で歩き回ってクローバーを傷つけたから、あんなにもたくさんのクローバーがあったんだと思うと、何だか申し訳なくなっていた。

「ううん。雨さえなかったら、私、すっごく喜んだだろうから。むしろ嬉しいよ」

「でも、私のせいでしょ。宏介くんにも迷惑かけてるし」

 それを言われたら返す言葉がない。あの頃は本当に思い込みが強かった。

「宏介くんには謝ったよ。忘れてたって顔されたけど」

「目に浮かぶわ」

 絶妙に重苦しい雰囲気を打開すべく、美代は口を開く。

「で、本当に言いたかったのは」

 すうう。

「真咲に久しぶりに会った時の方が、四葉のクローバーを見つけた時よりずっと嬉しかったってこと」

 真咲はこちらを向いてぽかんとしていた。

 構わず美代は続けた。想いを込めて。



「だからね、今も、四葉のクローバーよりも真咲の方がずっと好き!」

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