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 矢澤久はプロ野球選手だった。基本は投手だが、時には野手として守備をし、打席に入ることもあった。二刀流なんてのは、その時には昔と違ってそんなに珍しくなく、球界には何人もいる状態だった。応援歌もあった。



 心熱く燃やし

 あの遥か空の彼方へ

 二刀流の新時代

 さあゆこうぜ矢澤




 彼は一軍で活躍する、一流選手のひとりだった。小学生の時から野球漬けで、中学の頃も野球漬け、高校は野球の専門学校に通って、野球の練習ばかり。野球のことだけ考えて生きてきたのだ。無事にプロスカウトに指名されて入団し、一年目から投げては中継ぎとして年間ホールド二十八。セーブ二個、三勝一敗。打ってはホームラン六本、打率二割七分一厘。大活躍だった。しかし、一年目が一番良くて、他の年はぱっとしなかった。二軍と一軍をいったり来たり。そして六年目、二十三歳の時、覚醒した。抑えとしてシーズン序盤から投げ始めて前半戦ノーヒットという快挙。年間三十二セーブを数えた。また、打席も好調だった。チーム三位の十九本本塁打を放ち、打率も二割七分。大大活躍だった。そしてそんなシーズンの終わり、それは突然迎えた。とある試合でチームの投手が投げた球がバッターの頭に当たる危険球に。そこで、両ベンチ選手が総員出て来て乱闘騒ぎになった。退場者続出だった。その中でも、暴力を振るったとして、一部の選手が出場停止、登録抹消の処分を受けた。俺もその一人に入っていた。あまりに言ってはいけない罵倒の言葉を受けたのが気に障り、衝動を抑えられなかった。俺は手を出してしまい、事実を認めて処分を受け、今季限りで退団となった。その事件は世間でも大きく取り上げられ、ネットを中心に大きく批難された。罵詈雑言、悪口、住所特定のイタズラ、嫌がらせ。全てを受けた。プロ野球選手だけを目指してきた俺の人生はこうして没落していった。



 普通の生活を捨てて、プロを目指して、特別を目指していたが、道半ばで、中途半端なところで、その道は途絶えた。特別にはなれなかった。プロとして活躍はしたが、知っているのはせいぜいプロ野球ファンの間でだけ。世間的には無名の、元プロ野球選手。多少実績があるくらいで、引退後の仕事には生かせない。暴力事件での退団という、これ以上になく最悪の結末で終わっているのだ。引退後の各イベントや解説みたいなことは一切できなかった。指導者の道もあきらめざるを得ない。野球の道は、完全に無くなってしまった。一般就職も、今更どうやれと言うんだ。そんな状態だった。無理難題だった。



 引っ越しも何回もしなければならなかった。お金もそこまで多くはない。多少は残っていたが、奮起するには少なかった。



 そんなときだった。青空碧天高校、青空高校から招待状が来たのは。皆と同じように、人生の絶望に立った時に、ご多分に漏れず俺もその封筒を受け取った。最初は騙されているのだと思った。誰がこんな俺に、こんな手紙を。『普通の高校で普通の生活をやり直しませんか』なんて。たしかに、俺の学生生活は普通ではなかった。野球が全ての、野球に全ての優先順位を最優先にしての生活だった。学生の頃の友人も居なければ、思い出もあまりない。学校に対する最低限の知識というか常識みたいなものはあるが、しかしその程度のものしか無い。



 自堕落な生活をしていた。酒も飲み飽きていた。見たいテレビも映画もなくなった。ただ、ぼうっと生きていた。青空高校からの手紙は毎週のように来ていた。俺は世間体を気にして、郵便受けだけは綺麗にしていた。だから手紙の存在自体だけは、知っていた。だからふとした時だったんだろう。俺は書かれていた電話番号に電話をしてみた。軽い気持ちだった。



「もしもし」


「もしもし青空碧天高校です」


「あの、手紙を受け取ったんですが」


「転入生ですね。手続きは現地でやりますので、荷物をまとめて記載のところに来てください」


「え、あの。書類とかは」


「来てくれたら渡します」


「……」


「もういいですか」


「あの、その」


「はい」


「こんな俺でも、受け入れてもらえますか。年齢もあれですし」


「青空高校は誰でも受け入れています。手紙を受け取ったなら、資格はあります。大歓迎ですよ」


「そうですか」


「はい」


「ありがとうございます」




 電話を切ると、俺はすぐに荷物をまとめ始めた。髭も剃った。身だしなみをきちんとした。シャツにズボン、一番清潔感のあるやつにした。元々荷物は多い方ではなかった。着替えと、一応野球ボールとユニフォームを詰め込んで。ボールは記念ボールだ。プロ初セーブ、勝利、初ヒットの記念球。俺は思わず苦笑いした。これでは荷物の中でボールが一番かさばってしまうではないか。そう思った。でも、これだけは捨てられなかった。これを捨てたら、これまで生きてきた全てを捨てるような、否定するような、そんな気持ちになった。ボールを持つと、いろいろなことが思えてきて、なにしてるんだろうってなって、俺はもう、俺はもう泣きそうで、いや、泣いていた。男一人かっこ悪く泣いた。あれ以来、初めて泣いた。ひとしきり泣いてから、リュックにボールを突っ込み、俺は荷物を綺麗にまとめあげると、スーツケースをローラーで引きずりながら、リュックサック一つ背負って小さな部屋を出た。



 これが俺の過去。これまでの人生。あまり面白くなく、つまらない人生。劇的でもなければ、悲劇的でもない。特別でもなければ、普通でもない。そんな人生に意味はあるのかわからないが、しかし、俺は新天地での生活を気に入っている。青空高校での生活をそこそこ気に入っている。だからちゃんと新しく始めようとは、思っている。普通の生活を、イチから始めようと。



 以上だ。


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