第11話 老婆

 一瞬、ほっとするも、危険な状況に変わりはなかった。とりあえず、部屋の隅にある一人用のソファの陰に隠れる。


 耳を澄ませ、家の中の様子を伺うも、南西から物音がするだけで、詳しい状況はわからない。もはや誰がどこにいるか把握しきれなくなってしまった。

 緊張とストレスの連続でめまいがしそうだった。一体、いつまでこの状況が続くのだろう。いっそのこと、住人たちの前に現れ、すべてを白状するか。


「みんな、行くわよー。車に乗って」

 母親の声が聞こえる。続いて玄関のドアが開く音。


 俺は立ち上がると、興奮しながらウォーキングクローゼットの前を通り、南東の和室まで移動した。南側にあるふすまを少し開け、サッシ戸から外を覗く。父親、母親2人、子供3人が外へ出てガレージの方へ歩いていくのが見えた。


 どういうことだろう? 再びアメリカ旅行に行ったのだろうか。しかし、先ほど、旅行に行くのは2時間後と母親が言っていたような気がする。再出発するにはまだ早すぎるのではないだろうか。それに、あとから来た母親と男の子もついていっているのは何故だ。


 だが、いずれにせよ、住人が外に出たのは事実だ。老婆の姿が見えないが、たぶん、もう先に出て、車に乗っているのだろう。


 今度こそ、本当に今度こそ外に出られるのだ。


 このまま目の前のサッシ戸からでも出られるが、住人がいないのに、わざわざ不審な行動を取る必要はないように思える。ここは玄関から堂々と出るべきだろう。


 ふすまを閉め、振り返った瞬間、驚愕で短い悲鳴を上げてしまう。持っていた靴を落としてしまった。


 部屋の隅に老婆がいた。


 高座椅子に座った老婆は、驚いた表情でまばたきもせず俺をじっと見つめていた。真っ白な頭髪と皺だらけの顔は、遠巻きに玄関で見た時以上に年齢を感じさせる。膝の上にブランケットをかけているが、両手はブランケットの下に隠れていた。


 終わった。すべてが終わった。


 俺は脱力のあまり、逃げ出すこともできず、その場に悄然と立ちすくしていた。

 

 老婆の口元を見る。大声をあげるのか。警察に通報するのか。

 しかし、老婆の口から出た言葉は予想だにしないものだった。


「レイジ、何やってるんだい? みんなもう出て行ったよ?」

 俺は思わず目を丸くした。


「みんなでファミリーレストランに行くんだろう? 私は、ああいう所は嫌いだから、家で一人、適当にお昼を摂るんだけど。レイジ。聞こえてるのかい? お前はレイジだろう?」


 この老婆は何を言っているんだろう? 俺の名前は俊彦としひこだ。レイジではない。


 ふと、ショウタと母親――エミ、そしてこの老婆がやって来た時に、エミが叫んでいた父親の名前を思い出す。確かレイジだった。

 もしかしたらこの老婆は、この家の父親――レイジと俺を間違えているのだろうか。

 しかし、父親と自分は似ても似つかない顔だった。服装も全く違う。


 老婆のブランケット越しの手がもぞもぞと動く。同時に老婆の表情に緊張と恐怖の色が浮かんだ。


「今、私は非常に危険な状況にいる。早く来てくれ!」

 急に老婆の声が大きくなり、俺はびくりとした。


「住所は××市××××2丁目……」

 老婆は緊張の混じった大きな声で叫び続けた。どうやら、この家の住所を叫んでいるらしい。


 再び、老婆のブランケット越しの手がもぞもぞと動く。ふいに老婆の顔から緊張や恐怖の色が消えたかと思うと、今度は菩薩のような穏やかな笑みが浮かんだ。


「そうかい。レイジや。お前は優しいな。私を気にかけてくれて、家に残ってくれたんだね。ありがとう。今夜は、お前の好きなゴーヤの佃煮を作ることにするよ」


 俺は2、3度ゆっくりとうなずいた。合点がいった。


 この老婆はぼけている。認知症のせいで意味不明なことを言っているのだ。


「誰だい、そんな所にゴミを捨てたのは。レイジや。そこのゴミを捨ててくれないか」

 老婆はブランケットから左手を出すと、部屋の隅を指差した。俺は老婆が指差した方を見たが、ゴミなどは落ちていなかった。


 俺は、老婆が指差した方へ移動すると、屈んでゴミを拾う真似をした。そして、すぐそばにあるゴミ箱にゴミを捨てる振りをする。


「ばあちゃん。ゴミは捨てたよ。これでいいかい?」

「ありがとう、レイジ」

 老婆はしわくちゃの顔に満面の笑みを浮かべた。


「レイジや。トイレに行きたくなった。ちょっと手伝ってくれないかい?」

 俺は困惑した。いつ、また住人が戻ってくるかわからないのに、こんな茶番にいつまでも付き合っているわけにはいかない。

 

 だが、老婆が自分をレイジ――おそらく息子だろう――と勘違いしているのは神の救いとも言える幸運だった。ここで老婆の言うことを無視して家を出たら、認知症にかかっているとはいえ、不審に思われるかもしれない。ある程度つき合ってあげて、隙を見て逃げ出すしかないだろう。

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