第3話 一般人とホームレスの境界線

 先ほどバドミントンをしていた女の子が笑いながら俺の前を走り去る。


 由奈は元気だろうか。急に由奈のピアノの音色が恋しくなる。


 3歳の誕生日にミニピアノを買ってやったことをきっかけに、由奈はめきめきとピアノが上達していった。1年も経たずに『カノン』『エリーゼのために』『トルコ行進曲』などを次々にマスターしていき、それらを仕事帰りに聞くのが俺の日課となっていた。


 ピアノ教室の先生の後押しもあって、由奈は子供ピアノコンクールへの出場を決めた。娘のデビューする姿を心待ちにしていたが、その娘はもう俺のそばにはいない。


 はっとしてバックパックのジップを開ける。中から汚れた卓上カレンダーを取り出すと、今日の日付を確認した。


 今日だ。由奈のピアノコンクールの開催日は。


 さらに消えかかっていた記憶が蘇る。確か会場はこの近くだったような気がする。

 間違いない。半年ほど前、陽子や由奈と一緒に会場を見に行ったことがあるのだ。


 湧きあがった興奮もすぐに冷める。開催日や会場を思い出したところで、今さら娘に会うことなどできるわけがない。そもそも、チケットがなければコンクールは観ることができないのだ。


 娘のデビューの日に父親はゴミを漁っている。俺はうなだれながら苦笑した。


 ふと、がさがさという音がする。見ると、男性がベンチのすぐそばにあるゴミ箱に手を突っ込んでいた。


 年齢は60代くらいだろうか。白髪が混じった髪や髭は伸び放題に伸び、無数の針金のようになっていた。コートは汚れている上、ぼろぼろになっており、ファンタジー映画のホビットを思わせる。顔や手は何週間も洗っていないらしく、汚れと垢で真っ黒になっていた。

 

 男性はゴミ箱から弁当の空き箱を取り出すと、なんのためらいもなく、残っていたご飯やレタスの切れ端を食べ始めた。視界に俺が入っているはずだが、意に介する様子は全くない。全て食べ終わると、容器を舐めた上、たれのついた指をもったいなさそうにしゃぶる。


 俺はその男性を侮蔑するような目でじっと見ていた。


 俺はこいつと同類ではない。俺は断じてホームレスなどではない。


 俺は居住まいを正すと、自分の身なりを見てみた。

 上はグレーのカットソーに黒のジャケット、下はベージュのスラックスにレッドブラウンのカジュアルな靴。全てゴミ捨て場から拾ったものだが、定期的にコインランドリーで洗っているので、目立った汚れはない。

 

 それに週に1回は銭湯で体を洗っているし、先週は1000円カットで散髪もした。ぱっと見には、自分を住む家もなく路上生活を送っている人間だとは誰も思わないだろう。


 確かに、ゴミを漁っているという点では同じかもしれないが、食べ残しを食べるという下劣な行為をしたことは一度もなく、食べ物は必ず店で購入したものだ(値引きシールが貼られているものが大部分だが)。


 自分は一時的に社会から逸脱しているだけで、すぐに復帰する人間なのだ。断じて、未来や希望を捨て、恥や人間らしさを失った落伍者などではない。


 俺はバックパックから通帳を取り出した。家は失ったものの、自分名義の口座は残っていた。残金を見ると9万円ほどだった。


 社会復帰するには定職に就かなければならない。定職に就くには住所が必要だ。住所を得るにはまとまった金が必要だった。

 ゴミや雑誌を売ってはその日の食費を確保し、余裕が出れば貯金をする。それをコツコツと積み重ねてやっと貯めた9万円だった。


 しかし、貯金はなかなか増えないことも事実だった。売れるゴミが毎日手に入るとは限らない。そういう日は貯金をおろすしかないのだ。目標の50万円は気の遠くなるような道のりだった。


 金。何をするにも金だ。とにかくまとまった金がいるのだ……。

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