第2話 過去

 陽子の作る手料理の味がひどく懐かしい。腕前はプロ顔負けで、陽子の手料理を食べると仕事の疲れも一瞬で吹き飛ぶほどだった。


 陽子と出会ったのは10年前の夏だった。俺はスマートフォンアプリの開発・運営を手掛ける会社のソーシャルゲーム事業部に所属していたが、会社の同僚が主催した、同業者が集まるパーティーの場で彼女と出会った。

 

 陽子は決して美人ではないが、女性らしい仕草や言動、終始振りまく笑顔に魅了され、なかば強引に連絡先を交換した。その後、何度か食事に誘ったが、彼女は押しに弱いらしく、一度も断ることなく誘いにのってくれた。元々陽子は、強引にでも引っ張ってくれる人がタイプらしく、自然に交際へと発展していった。

 

 交際から1年後、無事結婚することができた。俺は32歳、陽子は29歳だった。


 新居のマンションは、いずれ生まれてくるであろう子供のために広めの物件を買ったが、なかなか子供はできなかった。不妊治療も考えたが、結婚5年目にしてようやく第一子の娘が生まれた。


 娘の誕生とほぼ同時に俺はチーフに昇進した。勤続8年目にしてようやく手にした役職だった。娘の由奈もすくすくと育ち、仕事、プライベートと共に順調な道を歩んでいる頃だった。


 夏も終わり、秋らしくなってきたある日、突然、俺は人事部長に呼び出された。

 会議室に入り、部長の正面に座る。部長に呼び出されることなどめったにないことなので、俺は緊張した。しばらく沈黙が続いたあと、神妙な面持ちで部長は口を開いた。


「今年いっぱいでソーシャルゲームのプロジェクトは全てクローズする」

「はい?」

 俺は狐につままれたような顔になった。


「うちのゲームがなかなかヒットしないのは君も十分承知しているはずだ。いろんな策を講じてきたが、売り上げは上がるどころか下がる一方だ。成果が出ない事業を続けていくのは株主総会でも批判の的になっていた。これ以上、会社の赤字を膨らますわけにはいかない。プロジェクトは全てクローズし、それに伴い、人員も削減する」


 俺は口を開けたままぽかんとしていた。まだ部長の言っていることが飲み込めていない。


「来年、小規模単位で新規事業を立ち上げる。君は役職者だが、年齢、スキルを鑑みて次の事業には不要と判断した。よって来年からは会社に来なくていい」


 その日帰宅したあと、俺は陽子にこのことを正直に話した。陽子は驚きと困惑をあらわにしたが、俺は自分の経歴ならば、すぐ再就職先が見つかるから心配しなくていいと説明した。


 翌年、俺は退社した。退職金はマンションの返済で全て消えた。来る日も来る日もハローワークへ通ったり、ネットで希望の求人への履歴書送付が続いたが、スキルの低さと40歳という年齢が足かせとなり、なかなか就職先は決まらなかった。

 失業保険の受領期間が終わっても就職先は決まらず、仕方なく短期のアルバイトで生活費を稼いだりもしたが、生活は苦しくなる一方で貯金も底をつきかけていた。

 

 俺は陽子に内緒で消費者金融から借金をした。だが、すぐ返済が困難になり、闇金に手を出してしまったのが運の尽きだった。半年後には、利息だけで元金の10倍以上に膨れ上がり、返済が不可能になってしまった。今住んでいるマンションを売るしか道はなく、陽子に全てを話すと、陽子は泣き崩れた。陽子が泣いている姿を見るのは結婚式以来だった。


 退去の3日前、俺は夜遅く日雇いアルバイトから帰宅すると、いるはずの陽子と由奈の姿がなかった。リビングルームのテーブルの上に紙が置いてあり、そっけない一文が書いてあった。


『お世話になりました。由奈と一緒に出ていきます』


 家や家族を失った俺は、漫画喫茶を宿代わりにしたが、1ヵ月もしないうちに所持金がゼロになってしまい、路上生活を始めた。


 ゴミ捨て場の段ボールで寝床を作り、駅のゴミ箱から雑誌や本を拾い集めては、それらを売って微々たる金を稼ぎ、なんとか命をつないだ。初めは路上で販売していたが、警察官に見つかるとこっぴどく叱られるので、それ以降は古本屋で売るようにしている。

 高級住宅街のゴミ捨て場には、売ればそこそこの値段になるものが捨てられていることを知ったのは2ヵ月ほど前だ。

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