Lovely day<ある晴れた日>
グレイは夢を見ていた。
日本でジョッキーとして生活していた頃の夢だ。
朝早くから調教の為に馬に乗り、営業をこなして、コンディションを維持する為のトレーニングを済ませてから自宅に帰る。
家には父親が居て、レースの動画を見ながらああでもないこうでもない、と意見を交わし合う。
馬に乗ったこともないのに、と思うかもしれないが意外と馬券購入者の考えというのも馬鹿にできなくて、根拠のおける情報がレース中のラップタイムだったり上がりタイムだったり種牡馬のコース毎の勝率だとか明確に数字として出てくるものがメインになるので、ジョッキーからすると感覚的に『こういうものなんだな』で流しているところを言語化してくれるのがまあまあ参考になるな、とグレイは思っていた。
だから、馬に乗ったこともないのに、は禁句というほどではないが、少なくともグレイは言わないようにしていた。
言ったところで自尊心が満たされるだけで得るものは大してない、と考えられていたこと、言うなれば互いに尊重し合うことが親父とグレイの仲の良さに繋がっていたと言ってもいいだろう。
今はもういない家族の夢を見ていたからか、目尻に涙が滲んでいたことに気付く。
同時にステラがその涙を舌で舐め取っていることにも気付いた。気付きたくなかった。
「最近知ったんだけど、コースでの訓練だったりレース当日の朝っていっつも泣いてるわよね」
何事もなかったように会話を続けないでほしいし個室で寝起きしてるのにいつもってなんだよ、とグレイは恐怖と羞恥心から身体を震わせるのだった。
「寝る前にイメージトレーニングをするんだが、そうしていると妙な夢を見るみたいなんだ」
「思わず涙が出るような?」
苦しい言い訳であったことを自覚して、グレイはバツの悪そうな顔になる。
その頬をステラが人差し指で突っつくので、拗ねたように顔を背けた。
「夢の話はともかく、今日はレースだからな。きちんと切り替えていくよ」
そう言って洗面所へ向かい、顔と洗ってから部屋に戻ってきて身支度を済ませる。
キッチンでエプロンを着けて朝食の準備を始めるグレイを、ステラはカウンター越しににやにやと眺めている。
「見てて面白いもんでもないだろ。昨日の夜に下準備はあらかた終わってるし」
「調理過程じゃなくてグレイを見てるのよ」
新婚家庭で妻を眺める夫のような立ち回りだった。
しかも割と尊大なタイプの。
フルーツサラダとスクランブルエッグ、それに買い置きしてあったクロワッサンがテーブルに並べられる。今日は紅茶でいいか? と尋ねるグレイにステラはうん、と素直に返し、グレイは応じてからティーポットに茶葉を入れ始めた。
料理自体は時短した簡単なメニューだったが、紅茶だったりコーヒーだったりにはやたらと拘りのある男である。
曰く、嗜好品に拘らないのなら最初から嗜まない方がいい。と、極端な思考の持ち主でもあった。
ちらり、と時計を確認して、エスプレッソマシンから自分のコーヒーを注いだ。
紅茶が抽出するまでの間、ささっとスクランブルエッグを焼いただけのフライパンを洗う。
洗い終えて、そろそろいいだろ、と紅茶を淹れて朝食の横に並べて二人揃って席についた。
ちなみに椅子はテーブルを挟んで、ではなく隣り合って置いてある。
これは二人が暮らし始めた当初に、ステラが「私のお世話をするのにテーブル挟んで座ってたら手間がかかるでしょ」と主張して、この形になってからずっとそのままである。
初めはそんなものか、と思っていたが途中から「あっ、これイチャイチャしたいだけだな」と勘付いたグレイであった。
勘付いたものの、前世で禁欲的な生活をしていた経験から、鉄の理性を持っていると自認をしていたグレイは、自分の認識とは裏腹に単純接触効果と美少女という概念に絆されつつあったのでそれを受け入れることにした。
それから十年ほども同棲していながら一線を越えていないのは、グレイが『日本に帰るのでそういう関係になってはいけない』という意識を保てていたのと、ステラのプライドの高さと度胸のなさから立場を押し付けて無理やりにそういった関係に持ち込もうとしなかったからである。
ただ、一線を越えていないだけで既に二人ともお互いのいない生活など想像もできないし、もし他人が二人の生活を観察できるのなら早くヤれよ、と後押ししたくなるくらいの付き合いの深さにはなっていた。
逆に言うとその後一押しが今の二人に足りないものでもあるといえる。
なので、常々ステラは<ロンド・ドレイク>がそのキッカケになればいいな、とワンチャンを狙っているが、グレイと自分自身も生真面目な性格であるのが幸いなのか災いなのかはわからないが、訓練でもレースでも限界近くまで身体も精神も追い込む為、日々の性欲は昇華され充実感だけが残る結果となっている。
朝食を摂り終えた後はグレイが二人分の外出の準備をする。
着替えやタオルなどを鞄に詰めている間、ステラはそのまま椅子に座って脚をぷらぷらさせている。
準備が終わると、待ってました、という風にグレイに視線を向けた。
かわいくしなさいよ、わかってるよ、などと言い合いながらグレイはステラの後ろに回って髪の毛をまとめ始めた。
長めの髪の毛を真ん中と左右に分けてお団子を作り、きっちりしすぎないように毛束を調整しながら引き出して見た目のバランスを取る。もっさりしている部分はヘアピンを挿して押さえた。
「終わったぞ」
グレイが言うと、ステラは立ち上がって洗面所の鏡を見に行った。すぐに帰ってきて、満足げな表情で、
「悪くないわね」
とだけ短く言った。
はいはい、とグレイは流して片付けを始める。
そうして二人は大した気負いもなく、今日のレース会場に向かう。
■
<未勝利戦>は基本的に起伏のない平坦なコースで開催されるが、<一勝クラス>からはゴール前での急坂や、向正面から3〜4角にかけてアップダウンが激しく、スピードだけではなくパワーやスタミナも求められるコースになる。
<未勝利戦>がひたすらにハイペースで飛ばして、前残りを狙う展開になりがちなのはコース形態にも一因があると言っていいだろう。
<一勝クラス>からは距離にもよるが、バランスのいい能力とレース運びの巧さが重要にもなってくる。
例えば登り坂や下り坂で無理にペースを上げるとすぐに脚がなくなってしまうし、ましてやゴール前に急坂があるコースなんかでは十分に余力を残しておかないと、坂で脚色が悪くなったところを後続の竜に差されてしまう。
それを承知で敢えて序盤から大幅なリードを作る、という作戦もなしではないが、もしすぐ後ろについてくる竜がいれば簡単にはペースを調整できなくなってしまうので、リスキーといえばリスキーだ。
そもそも『逃げ』というのは身体的にも精神的にも相当な強さを持った竜でないと厳しい。
活力を絞り切るように前へ行き、後続からのプレッシャーに耐えながら粘り込むというのは、後ろから先頭という目標めがけて走る竜よりも負担が大きいのだ。
外を回したりする距離損がなく、また不利を受けづらいとはいっても崩れるときはあっさりと崩れるのが『逃げ』という作戦だった。
ルクスの姉――エクスも逃げを基本戦術とする竜だ。
スピード能力の高い竜で、現代競馬でいうと米国系の血統を持つ馬に近いものがある。
スタート直後からトップスピードに乗る加速力、それを長持ちさせる持続力に優れていて、ハイペースに対する耐性も高い。
だとすると主戦場は短距離にすべきではないか、とも思えるが、過去のレースから抽出した数値を鑑みると、純粋な米国系というよりは、中距離を得意とする瞬発力と最高速度に長けたサンデーサイレンスを主流とする日本系の血統に、スピード能力を補う為に米国系の血統を配合した結果そちらの影響が強めに出たタイプであることが伺える。
総括すると、加速力があり道中のスピードにも優れているが、ハイペース耐性はそこまででもなく、末脚のキレ味はそれなりか、あまりない、といったところだろうか。
このタイプが勝つ為に最もベターな戦術と言われれば、恐らく『溜め逃げ』になるだろう。
スピードに優れている自分は楽に、しかし後続には脚を溜めさせないペースで逃げ、後続を引き連れる形で直線を迎え、ポジションの有利を活かして粘り込む。
と、なるとやはり距離は同じようなスピード能力を持つ竜が出てくる短距離よりも中距離に向いているのではないか。
似たタイプの日本の有名どころの馬でいうとキタサンブラック辺りが挙げられるだろう。
そこまで高い能力があるかはまだ誰にもわからないが、しかし短距離に拘っていても恐らく――。
「今日は私たちのレースの後にエクスも走るのね。距離は1800メートル、ってことはひとまず試してみることにしたのかしら」
同じ出走表を眺めていたステラの言葉でグレイは思索を打ち切り、ステラに応じる。
「そうみたいだな。俺たちは2000メートルで前回からは距離延長になるわけだが」
距離を延長すると、基本的には全体のペースが前走よりも遅いので、ポジションが取りやすくなったり道中が楽に追走できると考えられている。
その分終いがキレなくなったりするのだが、ステラに関しては距離が伸びて良さが出るタイプだ。
スタミナがあり、追走スピードもそこそこあって、瞬発力もある。その分野のスペシャリストには部分的に劣りはするものの、器用な立ち回りができるので大崩れすることがない。
前世で精度の高い展開読みがストロングポイントだったジョッキーであるグレイとは相性がよかった。
「――というわけで再確認になるが、もしポジションが取れなかった場合には――」
軽く打ち合わせをしているグレイとステラの元に、小走りで駆け寄ってくる姿があった。
エクスの妹のルクスである。
「おはようございます。お二人はもうすぐ出走ですよね?」
二人はおはよう、と返してから、
「まだ少し時間はありますけどね。今日はお姉さんの応援ですか?」
「いえ、アドバイスもいただきましたしお二人のことも応援しにきました」
「いい心がけじゃない」
相応に距離を置いた対応をするグレイと尊大な態度を崩さないステラが対極的だった。
態度が悪いぞ、とステラの頭を撫で繰り回すグレイを見ながらルクスは苦笑いしながら言う。
「やっぱり仲がいいんですね。そこまで仲がいい竜とライダーの人って珍しいと思います」
「――え?」
「お仕事というか、ビジネスライクな付き合いで済ませる方も多いので。私自身もそうですね。あんまり感情移入しすぎると不都合なこととかもありますし」
いや待て待て、とグレイは宇宙猫みたいな顔で固まってしまう。
そのままたっぷり五秒ほど沈黙して、
「ライダーはお世話係だったり、その、色々役割を兼ねるってステラが――」
言いながらステラに視線を向けるグレイ。
その視線を受けているステラは先ほどからの尊大態度と表情を保ったままだったが、心の中では『今まで私以外との接触を最低限に控えて都合のいいように教育してきたのに』『なぜ』『どうやってこの場を切り抜けるか』『たすけて』が駆け巡っている。
数巡ほどそれらがループしたところでステラに天啓が舞い降りた。
「――お母様が、そう言ってたのよ」
起死回生の一手である。
グレイもルクスも「ステラの母親がそう言っていたならばやむなし」と言わんばかりの表情になった。
それを見て上手く切り抜けた、と胸を撫で下ろすステラではあったが、やっていることはただの問題の先送りである。
「ま、まあ、家庭での教育は人それぞれですからね。ステラさんのお母様にしても無意味にそう教えたりすることはないでしょう」
ルクスの精一杯のフォローだったが、顔と口調は若干引き攣ったままだった。
グレイはどういう育ち方をしたんだ、とまるで家族が怪物になったホラー映画のキャラクターみたいな顔をしている。
そんな二人ができるだけ触れないでおこう、という自衛の意味も含んだ生暖かい結論に達するまではそう時間はかからなかった。
「で、ではそろそろ行きますね。頑張ってください」
「あ、ああ。ありがとうございます」
ルクスがそう言い残して離れていく。
少々気まずい雰囲気に覆われた二人に、間を置いてから代わりに近付いてきたのは姉の方のエクスだった。
今までの会話を聞いていたわけでもないのに彼女も気まずそうに、おはよう、と話しかけてきた。
どうやら妹を通して助言をもらったことを気にしているらしく、遠回しに感謝を伝えようと言葉を選びながら二人と会話を続けようとしていて、グレイはちょっとほっこりしつつもそれを受け止め、被害妄想強めなステラはもしやこいつ……!? と戦々恐々としている。
そんなステラに今度は妄想でもなんでもなく憂慮すべき存在が死角から迫ってきていた。
「イケメンだねお兄さん……」
迫ってきていた、は正確ではなかった。
視界に入らないよう地面を這いずってきた少女はグレイの足に纏わりつくように抱きついている。
「かなり鍛えてあるよねお兄さん……ズボンの上から触ってもカチカチだよ……?」
はぁはぁ、と息を荒げながらふくらはぎを撫でている彼女の頭を、唐突にエクスが叩いた。
「何やってるんだ君は。さっさと離れたまえ」
「えーっ……いいじゃんか減るもんじゃないし」
ステラの自尊心は減っていた。むしろ減っていたというより音を立ててガリガリと削られていた。
「エクスさんのお知り合いでしたか?」
と、グレイが聞くと、
「私の<ライダー>だよ。ちなみにこう見えても男だからね」
そう言われてグレイは驚愕に彩られた表情でまじまじと少女の、いや、少年の顔を観察した。
肩にかからない長さの茶髪にはおそらくパーマがかかっていて、ふわふわとした雰囲気はいかにも女性らしい。
ナチュラルなメイクにも違和感はない。多少男性らしい輪郭を隠そうとしている意図は感じられなくもないが、それにしたって女性自身の特徴、ないしは個人差といえばそのまま受け入れられる程度だ。
恐るべし異世界、となっていたグレイではあったが、実際のところかなりの上澄みにはなるが前世にもこうした女性――ではなく、男性は探せばいた。グレイにとっては馴染みのない世界であるし興味もなかったので知る由もなかったが。
「あ、あー……。そうか、体格のお陰で恩恵はありそうですね」
「そうなんだよ。私にはルクスちゃんがいるからそういう目線で<ライダー>を選ぶ必要もないし、体重はできるだけ軽い方がレースには有利だからね」
現代の競馬では厳密に斤量が決められていて、ジョッキーは自分の体重を管理するのも仕事の一部だったが、この世界ではそうでもないようだった。
と、いうのも馬と比べて筋力が違うので多少の重量差は気休め程度でしかなく、それよりはライダーの人柄であったり、能力であったり容姿であったりが概ね重要視されている。
とは言うものの明らかに太っていたりする人物を乗せて走るのはハンデでしかないし、そもそも竜人はあくまでも人間を使う立場であり、そうした背景から総じてだらしのない人間を嫌う傾向にあるので元よりライダーは似通った体型になってくる。
その中でもグレイは長身である方だが、体重は50キロ台をキープしている。
スポーツ選手で例えるならマラソンランナーが恐らく一番近い。一見すると筋肉がついておらずスポーツに不向きな細身の体型に見えるが、脂質は最低限摂取するに留め、良質なタンパク質を中心とした食生活と、体幹トレーニングやストレッチといったインナーマッスルを鍛える、いわゆる筋肉を盛らないトレーニングで体重の管理と自身の運動能力の確保に努めていた。
これは前世から続く習慣でもあった。
そうやって作られたしなやかな身体で馬に負担をかけない騎乗が持ち味のジョッキーではあったが、逆に馬を動かしたり、気性の悪い馬を力で抑えて運ぶのは苦手でもあったので、その辺りは一長一短ともいえる。
で、あるならばこの少年の場合はどうしたライダーであるのか、を考えたとき、可能性を大きく分けると二種類になるだろう。
一つ目は低身長な骨格にできるだけ多く筋肉を積載しているパワータイプ。
二つ目は運動能力を確保しつつ余分な荷物を極力減らず軽斤量タイプ。
見た目の上では後者であるように見えたし、無理やり走らせるということがない<ロンド・ドレイク>においては前者のスタイルを選ぶ理由がほぼない。
グレイはそう判断して、少女らしい外見を思考から排除して、年下の同業者に接するような気持ちで頭を撫でた。
「なるほどなあ……。怪我には気をつけるんだぞ。筋肉量が少ないってことは大きな怪我にも繋がりやすいからな」
「……? ぼく、お兄さんより歳上だよ……?」
グレイは自分の情緒が壊れる音を聞いた気がした。
「じゃあ! お兄さんってなんだったんだよ!」
「別に深い意味はないけど……」
歳上の女装ショタにそう呼ばれるのはまあまあ不快ではあった。
「ファイのペースに付き合ってると疲れるだけだと思うが……」
「まあでも、ぼくとエクス姉は相性がいいんだよね。性的嗜好の面でも」
言って、ちろりと舌を出してグレイを上目遣いで見つめるファイ。
えもいわれぬ怖気に襲われるグレイ。
どういう顔をすればいいかわからないステラ。
三者三様な三人を呆れた目で見ているエクスに最終的には促されながら、四人はレースの準備に向かうのだった。
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