Prologue_B
――恋をすると人は変わるという。
だから、私はその秘密がバレないように、できるだけ変わらないように努めることにした。
最初に出会ったのはグレイが三歳のときで、優秀な人族を購入するために訪れたセレクトセールでのことだった。
彼と面談をする為に通された個室の中で、
「まずは月並みながら、自己紹介から始めたいと思います。調べてもらった限りでは祖父母共に近親に遺伝性の病歴を持った人物はおらず、また体格についても極端な肥満もいません。食生活に関して言うなら必要なカロリーと栄養素を事前に計算して摂取するようにしており、自分の意思で食事内容に干渉できるようになってからこれを継続しているので、一定の体型と健康を長期的なスパンで維持できる見込みになっています。運動は自らの年齢を考慮して自重トレと柔軟運動、加えて心肺機能の向上を目標に取り組んでいて――」
放っておいたら老後までの人生設計すら語り尽くしそうな勢いだった。
第一印象はなんだこいつ、で完結しそうになったが、よくよく見るまでもなく容姿がめちゃくちゃいいので、まあ悪くはないんじゃないかしら、と意図せずしてツンデレ的な評価に最終的に着地してしまった。
他の子供が緊張しながらもなんとか体裁を整えている中で、自然体――というには違和感しかないが、教育を受けた成人ですらしないような対応をしているのは異常そのものでしかなかった。
あと、年齢の割にはやたらと滑舌がいいのでそれを尋ねてみると、
「肺活量向上も兼ねて訓練しました」
で済まされてしまった。話題を転換するつもりでその情熱の出どころについて探っていくと、どうやら詳細は話さないが人生の目標があるようで、それを叶える為には可能な限り高額で買われた方がいい、もといそうした金額を動かせる竜人に飼われた方がいい、と判断したらしい。
なるほど、と私はこの時点でグレイへの評価を明確なプラスへと転じることにした。
まあ容姿を見た時点で正直買う気しかなかったのだが。
もはや公然の秘密となっているが、このセレクトセールは竜人の花婿探しの場でもある。というかそれ以外の目的などほぼない。
建前では優秀な人族を幼い頃から育てて、信頼できる人材を得るため――となってはいる。一応人族にはそうした風に触れ回っているし、プライドの高い竜人なので、よもや下心を露見させるようなことは絶対にないだろうが。
そうしたわけで私や他の竜人たちは伴侶を探すためというか、性処理係を探すためというか、アダルトショップに並ぶジョークグッズを真剣な目で吟味するような心持ちでこの場に訪れたのだった。
――いや、一つ言い訳をさせてもらいたい。
この世界では見かけることのない光景ではないので想像上というか、仮定の話になってしまうのだが、もし仮に男女の立場が平等な社会があったとして、唐突にその前提が破綻したとして紳士的というか、誠実な関係性がが持続できるものなのだろうか? 私はできないと思うし、現実問題この世界では牝しかいない竜人が絶対的な上位にいて、なんというか、見えないところでは割と品性が下劣だし、これは竜人といった種族の問題ではなくて、環境から受ける影響の大きさというものをいかに無視できないものであるかを表していて――。
「……あの、どうかされました? もしかすると体調でも優れないのでしょうか」
気がつくと不安そうな顔をしたグレイが私の顔を覗き込んでいた。衝動的に口内に舌を捩じ込みそうになるがそれをなけなしの理性で抑えて、
「大丈夫よ。事前の予想よりもあなたが高額になりそうだから、資金繰りをお母様に相談しようと思っただけなの」
「そうなんですか。でしたら安心しました」
あ゛あ゛あぁぁぁああぁぁあしゅきしゅきしゅき! だいしゅき!
私が幸せにしてあげるからね、と密かに決意を固めてから、私はグレイをその場において、彼の購入を確定させようと会場内のスタッフの元に向かうことにした。
弾みそうになる足取りを隠そうともせず、足早に会場内を移動する。
もうぶっちゃけてしまうが竜人は全員もれなくムッツリスケベだ。なのでこの場にいる他の竜人は潜在的な敵だと考えてしまっても問題はなかったが、しかし私とその他を比較したときに隔絶しているものがあり、私は周囲の視線を一顧だにすることなくそよ風のように受け流すことができた。
それは果たして何かと言われると、権力というか、コネだった。
竜人は基本的に自分よりも上位の存在を尊重する。
種族全体の本能、もしくは命題として自らの存在を高める、というのがあるが、これは他の竜人を引きずり降ろしてまで優先されることはない。
何故ならば最終的には一人の竜人が到達点まで辿り着けばよい、とされていて、全員がそれを産まれたときから理解しているのだ。
だからと言って忖度が一切許されないのが<ロンド・ドレイク>ではあるのだが。
……話を戻そう。
簡潔に言うと私のお母様が竜人の中で最も強いので、その娘である私にも、お母様がそう望む限りは常識内の範囲ではあるもののある程度の配慮が得られるのだ。
なので、私はこのセレクトセールで一番高額なグレイと一番初めに面談ができたというわけだ。
――お母様。私をお母様の娘に産んでくださって感謝しております。
心の中で崇拝にも似た感謝を捧げながら、スタッフを連れてグレイのいる部屋に戻ってきた。
……戻ってきたのだが。
「グレイはかわいいね! お姉ちゃんって呼んで……?」
グレイと向かいあって座っている女が、机を挟んでグレイの手を握っている。
衝撃だった。
例えるなら大切に冷蔵庫にしまっておいたプリンにスプーンを差し込まれている瞬間を見たような、「も、申し訳ありませんステラ様! 何か手違いがあったようでして……」後ろで何か雑音が聞こえるが、私の脳内を占めていたのはどうすればグレイを私だけのものに、というドロドロとした独占欲だけだった。
これから彼とどんな幸せな日々を送るのだろう、と胸のトキメキと共に抱いていた期待感と断片的なイメージが増幅され、妄想の中の刹那は一瞬になり、そして一瞬は永遠にまで引き伸ばされた。
ドキドキの同棲生活に初夜に結婚式に出産に子育てに老後に至るまでを既に経験したつもりになった私は、
「こっ……、この浮気者ぉー!!」
とあらん限りの声量で叫んだ。
一生を連れ添い、なんなら死後の遺産配分まで決めていたつもりの私の脳はたぶん誰も悪くないのに破壊されていた。
甘いだけではなく、つらく苦しいものを恋だと定義するならばこの感情はきっと恋に違いなかった。
だとするならばグレイの手を握るやたらと肉感的なメスは恋敵に他ならなくて、
「……大丈夫?」
とメスが言った。
それは頭が大丈夫? ってこと?
もしかして私煽られてる???
――お母様にも煽られたことないのに!!
怒りが限界を越えて、ぷつん、と糸が切れるように感情がフラットな状態へと引き戻される。
同時に唯一まともに稼働している理性だけがこの敵を排除すべきだ、と訴えていて、私は産まれて初めて自分の力を本気で奮うことを決めた。
心臓が強く脈拍してマナを身体全体に過剰なまでに送り始める。どっ、どっ、とうるさいくらいに高鳴る鼓動はこの部屋どころか外にまで聞こえているだろう。
そうして身体から溢れた余剰なマナが可視化するように周囲に漂い、指向性を持たないその力は無差別に影響を与え始める。
足元はひび割れ、空気は熱を持って歪み、引っ掻いたような音が断続的に鳴った。
そんな破滅的な室内の中で、私は全能感に包まれながら歓喜と怒りの感情を撒き散らし、
「――怒ってるより笑ってる方がかわいいですよ」
とグレイが言ってくれたのでそれをすぐに収めた。
少し顔が引き攣っているような気もするけれど、それはきっと私が発した熱波のせいだと思うことにした。
「――と、いうわけで連れて帰るわ。今すぐ。なにも、問題は、ないわよね?」
ございません、とスタッフが言った。
これが私とグレイとの馴れ初めだった。
■
正直に言ってゼロどころか、マイナスの印象からのスタートとなっていそうなグレイとの生活だったが、割り切りが早いというか即物的なところのあるグレイは、さして戸惑うこともなく私との生活に順応した。
ここで私が、というか、竜人が基本的にムッツリなのでこちらから手を出すことがなかったのも大きいかもしれない。そもそも精通もしていないのに手を出すのも不可能ではあるし。私もグレイと同い歳であるからしてそういう行為をするのも早い気がするし。
竜人はそうした生き物である、としか説明がつかないが、乳児期や幼児期の成長が人族よりも非常に早く、それを過ぎると逆にゆっくりになる。具体的には竜人は一歳時点で人族の十五歳ほどまでになり、その後はおよそ十年単位で人族換算で一歳ずつ成長する、といった感じだろうか。
私自身はなんの問題もないが、今はグレイの成長を待たなければならない。
で、そのグレイなのだが自己紹介の折に聞いた通り、暮らしぶりはこちらが感心するほどにストイックなものだった。
<ロンド・ドレイク>で私に騎乗する為の身体作りには特に余念がなく、年齢に合わせたトレーニングは勿論、食事の面でも常に気を配っていて、特に白米とブロッコリーと脂質の少ない鶏肉を好んで食べていた。後は豆類と果物。夜はサラダだったり野菜がメインだったが、同じ食事を摂る私の為だったのか、変わった味付けだったり調理法だったりで飽きさせない工夫までしてくれた。
コンソメジュレで固めたりだとか、どこで覚えたのだろうか。
そんな感じで私の舌を調教して離れられなくされちゃう……! とかやってる合間に家事もまあそつなくこなし、グレイとは別メニューでトレーニングを行う私の身体のケアもして、たまのチートデイには美味しいものを食べてデートして、などとやっている間に月日が経ち、そろそろ<ロンド・ドレイク>の為に本格的に訓練を重ねるか、という年齢にまでなっていた。
私とグレイ、お互いに十四歳の頃であった。
もうおっ始めてもいいんじゃないかと私は思っていたし、常に内心では抱けっ! 抱けっ! 抱けーっ! などとテレパシーを試みていたが無意味だったし、相変わらずグレイはストイックだったし私はヘタレだった。
関係性に具体的な進展のないまま始まった訓練で、グレイが竜に変化した私に跨った瞬間――(冗長すぎる表現の為中略)――、私はひとまずゆっくりと走り始めた。
全力疾走する竜を乗りこなすには相応の慣れが必要だとお母様に聞いていたので、その助言に従ってのことだった。
「少しずつ速くしていっても大丈夫だぞ」
めちゃくちゃえっちな台詞だなあ、と私は思った。
信頼感を育む為、と言って同居し始めてすぐに敬語をやめるように伝えていたのが功を奏している。
恥ずかしい話だが、濡れた。
「ひゃ、ひゃい」
と返してから、私はジョギングぐらいのスピードにまで移行する。
背に乗っているグレイはなるほど、としきりに頷いている。
「この速さならどれくらい保ちそう?」
すぐ達してしまいそうです、とほざきそうになる口を噤んでから、
「これくらいならいつまででも。と、言いたいところだけど意外にヒトを乗せて走るって疲れるのね。四キロくらいが集中して走れる限界じゃないかしら」
「いや、十分だと思うよ。凄いね」
「ま、まあ当然よね。これくらいは」
しゅきしゅきだいしゅきちょーあいしてる。と返事をしなかった私をグレイは重ねて褒めてもいいと思う。
「たぶん大丈夫だと思うから一度トップスピードで走ってみてくれる?」
とのことだったので、徐々にだがギアを上げていき、私が走れる限界の速度を試してみることになった。
<ロンド・ドレイク>の為の練習用のコースを周回し、その直線に差し掛かったところで脚をトップギアにまで入れる。
かなり運動強度が高いのか、私に跨るグレイの息遣いが荒くなっていく。私も全力で走っているので同じく息遣いが荒い。これってもう擬似的交尾か何かなのでは? と逸る興奮を抑えつつ、首だけを動かしてグレイの様子を伺ってみた。
「よそ見してるじゃないの!!」
ちょうどゴール板を過ぎたところでそれに気がついたので、私は速度を落としてからグレイに降りるように促して、変化を解いてから顔を両手で挟むようにして睨みつけた。
「私じゃなくて他の竜を見てたの? ねえ、何か言いなさいよ。おっぱいが大きいだけじゃなくてもっと肉感的な女の子がいいんでしょ?」
「ステラが一番綺麗だよ」
許した。
冷静になって話を聞いてみると、加速し始めてからゴール板までの距離を測りながら秒数も数えていたらしく、よそ見していたのはラチの内側にある残り距離を示す表示を確認していたらしい。
変わったところを気にするのだな、と私は疑問に思った。
お母様が言うには、<ロンド・ドレイク>の本質とは竜がどれだけ背中に乗せているヒトを信頼して全力疾走し続けられるか、といったものであり、最終的には駆け引きよりも信頼関係とスタミナ、そして竜が力尽きそうになっても背中を押してくれるライダーの気持ちが重要である、ということだった。
私はそれを聞いて美しい話だなあ、と感じ入ったものだったが、どうやらグレイには考えていることがあるらしく、それからは色々と確かめるような走り方をするようになった。
まずはトップスピードをどれだけ維持できるか。これは実際のところ五百メートルくらいが限度だった。
一般的にはこれを更に長く維持する為に訓練をするのだが、グレイは何かに納得したのか、わかった、と言ってその日の訓練を終わろう、と伝えてきた。
本当にいいのかな? と考えたりもしたが、ここで無闇に疑って今までの信頼関係を損ねても嫌だったので、私は素直に従うことにした。
それにグレイは頭がいい。自分が疲れたから、というタイプでもないし実際のところ何か明確な理由があってそうしているのだろう。
一日置きで次に行ったのはグレイがこの速さで、と決めたペースでどれだけ走り続けられるか、だった。
最初の日のジョギングよりも少し速い速度で二千メートルを走り切り、そして柔軟体操をして終わり、という運びになった。
グレイは私に乗っている最中は、だいたいラチの内側の標識を見ながら何かを測るようにしているので、これも必要なことなんだろうと素直に思えた。
思えたが、同じコース内で走っている竜人よりも目に見えて練習量が少ないので、怪訝な目を向けられることも多少あった。
他のライダーたちは全力で走る竜に必死にしがみつく訓練ばかりを重ねているので、そうしていない私たちはライダーの身体能力が不足しているか、ともすれば信頼関係が醸成できていない、と見られているのだろう。
私にしてもグレイの人となりを知っていなければ同じように思っていたかもしれない。でも、実際には一度私が全力で走ったときにもグレイはよそ見ができるくらいには余裕があった。
まるで何かに騎乗するのは初めてではない、と言わんばかりに。
その仮定に到達し、理解を始めようと脳がそれを咀嚼し始めた瞬間、
「――おえぇっ」
吐き気を堪えられなかった。
大丈夫か!? とグレイが背中をさすってくれる。
『あっ、優しい、好き』と『でも私が初めてじゃないんだよな……』が交互に私を襲ってくる。激しい高低差に揺さぶられて三半規管が麻痺しそうだった。
「だ、だいじょうぶ」
「つらかったら吐いちゃってもいいぞ。俺がちゃんと片付けるから」
それってプロポーズの一種だと認識しても? とさすられ続ける内に吐き気が収まってきた。
そんな風に冷静になってきたところで、ようやく周囲からいつも以上に注目を集めていることに気がついた。それも、おそらくあまり好意的ではない類の注目だった。
私としては全く意に介することもなかったが、グレイに恥をかかせたかもしれない、と自省しているとグレイはそれを見てどう受け取ったのか、そのまま私の肩に手を回して、
「勝つのは俺たちだよ」
と囁いてくれた。
嬉し過ぎても吐瀉物が出そうになるんだなあ、と私は思った。
■
トレーニングは適切な量で効率的に、が口癖のグレイは、その台詞だけを切り出せばサボりたがりなようにも見える。しかし、決してそうではなくトレーニングだけが勝敗を分ける全てではない、と知っていて、そう実践しているからだ。
形式的には私のお世話係を兼任しているが、自分で言うのもなんだが私は手間がかかるような生き物でもない。
好きなように遊ぼうと思えばそうできる筈なのだが、自由時間の殆どを直近の<ロンド・ドレイク>への対策へと充てている。
私は初めてレースへと参加するので通称<未勝利戦>への出走となる。レースに参加する資格があるのは一度も勝ったことがない竜たちだ。
ここで一度躓くと立て直すのに時間がかかると言われていて、名のある竜たちでも、もしあのとき負けていたら今こうしているかわからない、と言わしめるほどだった。
そして、もう一つ言われているのが勝つのが無理なら五着以内を目指せ、だった。
これは<ロンド・ドレイク>の大前提である、能力に劣る、或いは競争する気をなくした竜は世界にマナとなって還らなければならない、というのがあって、その一つの指標となるのが『三レース連続して五着以下になること』なのだ。グレイにそれを説明すると優先出走権がどうこう言っていたけれど、これはよくわからなかった。
とにかくそうした背景があって、初レースと言えども軽々に負けていいわけではない、というのが<未勝利戦>に対する一般的な捉え方なのだった。
「まあ、私は勝つけどね。グレイ、そうでしょ?」
「レースに絶対はないけど、俺がこうしてやっていることに関して言えば有用性は絶対だと約束するよ」
思っていた返事とは違ったしちょっと冷たいけど、真剣なグレイがカッコいいので許してあげようと思った。
そんなグレイが対策として主に集めているのは過去に行われた<未勝利戦>のデータである。コースと勝ちタイム、枠番と勝ち馬が道中どのポジションにいたか、などなどその他にも細かな情報がグレイの手によってわかりやすくまとめられている。
「このラップタイムっていうのは?」
「2ハロン毎に区切った道中のタイムとそこから割り出される速度を書いてある」
2ハロンってなんだ、とは思ったがなんとなく私はなるほど、知っているフリをした。
「こうして見ると<未勝利戦>って内容にさほど大差ないのね。そりゃあ、一度も勝ってなくて位階を上げていない竜ばかりなのだから、理屈の上ではそうなるのかもしれないけど、ちょっと意外かも」
「俺も意外だった。もっと竜って能力にバラつきがあるものかと思ってたよ」
しかし、だとするとこうして集めたデータにも信憑性がありそうで、私はどこか自覚のないままに抱えていた不安が解消されていくのを感じた。
「でも、データを集めてばっかりもなんだから、ここでシミュレーションする?」
すかさず四つん這いになってお尻を振って誘惑してみる。
グレイは一瞬だけ恥ずかしそうな顔になって、そのあとになんとも名状し難い表情の変化を挟んだあと、すん、と全ての感情を消して言う。
「自分より小さい女の子に馬乗りになる趣味はねえよ」
「なんでよ! 乗っかりなさいよ! 前からでもいいから! むしろ前からがいいから!」
「趣旨変わってるだろやめろ」
「このキス待ち顔が目に入らないの!?」
まあ、そんな風にして日々が過ぎていき、そしてレース当日になった。
この日行われる<ロンド・ドレイク>の舞台は小回りの周回コースとなっていて、距離は1800メートル。コースの形状的にはとにかく前に出た方が有利だと言われている。理由は単純で、インコースを走れるのが前にいった竜たちだからだ。
このコースで出遅れたりすると、どうしても最後は大外を回って先頭を目指さなければならなくなり、その分距離を損してしまう。
それはグレイももちろん理解しているようで、
「行けたら行く。けど、自分のペースを崩してまで先頭には立たなくてもいい。データを見る限りこのクラスの竜には一息で走り切れる距離じゃないから、どこかで息を入れないと最後が甘くなると思う。そう考えると動きづらくなる先行集団の内側にポジションを取るのはあんまり得策じゃないかもしれない」
「じゃあスタート直後は二速でいいの?」
「入る枠次第なところあるけど、とりあえずはそれでいくか」
二速、というのはグレイが決めた走るペースのことだ。
一速が一番遅くて、四速がトップスピードになる。
順番に説明していくと一速はわざと後方に位置取りたいときに。二速は自分のペースで、三速は前の竜についていき、四速に関しては言うまでもないだろう。
暫定的に決めた合図ではあるが、一速は手綱を引き、何もしないときは二速。三速は首を押してもらい、四速はお尻を叩いてもらうことになった。
最後については私の個人的な欲望に基づいた希望だったのだが、特に違和感なく受け入れられてしまったのできっとグレイにはそういう趣味があるのだろう、と私だけの秘密にして胸にしまっておくことにした。
まばらに観客が集まるコースに入った瞬間感じたのは、侮るような視線だった。
私たちの訓練の様子を見ていたのだろう、あの優秀な母親から――とでも言いたげな顔でこちらを伺う竜が少なからず居た。
なるほど。
まともに他の竜と競い合うことになるのは初めてだったが、緊張感というか、全身の血が冷たくなるような雰囲気が私はどうも嫌いではないらしい。
横にいるグレイは特に意に介した様子もなく、粘つくような視線を受けても平然としていた。
その様子が私には少し誇らしく思えて、笑った。
入場後に発表された私の枠順は一番外。
セオリーでいうならこのコースは内枠の方が有利ではある。
「枠なりにやれることをやるだけだし、勝つつもりでいくぞ」
私は頷いて、竜に変化してグレイを背中に乗せる。
「でも、無理はしないでいいからな。ステラの身体が一番大事なんだから、怪我だけはしないようにしよう」
優しい言葉のせいで始まる前から息も絶え絶えだった。
用意されたゲートにそれぞれ入っていき、私たちはラチの内側に立つスターターの合図を待つ。
――スターターが掲げた手旗が翻り、数瞬の後にゲートが開いてレースが始まった。
ゲート内は狭く、棒立ちになった状態から素早くスタートを決めるには後肢の使い方が重要だ。
後ろ足を跳ねさせるようにして身体を運び、ゲート内から出て、事前の打ち合わせ通りひとまずはマイペースで走り始めた。
少し遅れて内枠の竜たちが続々とゲートから出てきて、そのままペースを上げていきなり先頭争いが始まった。
内から見てコースの六分どころを走っていた私たちの内側を通り過ぎていく。それに反応してついていきそうになるが、グレイが首に手をやって宥めてくれる。
行き足のついた竜たちのグループが行ったところで、私たちはすっと内側に入った。
とは言ってもラチ沿いにまでは寄らずに、内を一頭分開けていつでも動き出せるような位置取りではある。
ロスのない立ち回りではないが、囲まれて動けないなどの予期しない不利を受けづらい運び方だ。
グレイ曰く、私の追走スピードとラストスパートの速度は勘案すると、この立ち回りがベターだと思った、らしい。
先行集団を見ながらの追走になった。
向正面に入り、その中ほどで隊列が落ちつき始めたところで首をぐいっと押される。ペースを上げろ、という指示だ。
脚を使ってポジションを取りに行った竜たちが一息入れようとしたタイミングで、ペースを緩めることを咎めるように私たちは外側から上がっていく。
先行集団の後ろの竜は前が詰まっていて動きようがないので、すぐにそれらをパスして番手にまで並びかける。
並びかけた竜が反応してくるが、ここは無理に競り合う場面ではないと判断したのか、私の後ろのポジションに収まった。
そのまま先頭の竜にまで並び、敢えて追い抜かさない程度の速度を保って競り合いの形に持っていく。
先頭の竜からすると、せっかくポジション争いに勝ってインコースを最もロスなく回れる位置を確保したのに、私に先頭を譲ると最後の直線で外に振らざるを得なくなるので、追い抜かれまいと速度を対抗して速度を上げ、そのままの勢いで3角に突入した。
結果的にそれに続く集団のペースも上がる。
先行集団には恐らく余力を保って直線に入る竜はもう居ないだろう。
と、なると怖いのは脚を溜めている後方からの竜だが、こいつらはコーナーなり直線なりで固まった先団を外に大きく回って交わさなくてはならない。
私はというと捲って上がってくるために多少脚を使ったが、先行争いが終わった直後、隊列が縦長になった横を通っていったので、距離損もそこまでではなく、追撃を凌ぎ切るくらいには脚が残っている。
並んでいた内側の竜は直線に入ったところでいっぱいいっぱいになったようで、ずるずると後退していった。
私はそれを見ながら、一呼吸置いたところでグレイからスパートの指示が飛んだので全力で駆け出した。お尻を叩かれたはずだけど、竜の姿では鱗のせいでさほど喜びは感じなかった。色々と惜しまれる。
あとはもう後ろや横を振り返る余裕なんてない。
前だけを見て、ゴール板を通り過ぎるまで走り続けるだけだ。
――そうして、私は誰にも抜かされることなく先頭でゴールする。
背中のグレイを見ると、小さくガッツポーズを取っていて、私に見られていることに気づいた瞬間、恥ずかしそうに取り繕った。
ほどなくしてレースに参加した竜が全員完走し、
『――おめでとうございます。貴女は位階を昇華させました。同時に<未勝利戦>への参加資格は抹消されます。次のレースでも貴女と、貴女のパートナーの健闘を願っています』
そんな誰ともしれぬ声が脳内に響き渡り、私は世界中に漂うマナへの親和性が高まったことを自覚した。もとい、自覚させられた。
前々から疑問には思っていたが、なぜ生物として位階を高めるのにレースのような回りくどい手法を取るのか、について私は漠然とながらも答えを得た気がした。
――初めからそう決められているのだ。この世界は。
そのことについての恐怖はなかった。
全ての物理法則は『反証がなされていない仮定』という考え方があるが、だとしてもその物理法則の実存を疑う者はいないだろう。
なぜならば時間の無駄だから。
例えば、全ての物体は等しく重力の影響を受けているがそうではない物質や場所があるかもしれないからそれを探したり、それについて考察してみようと思う人はまあ、いないだろう。
少なくとも私はそうしたタイプではないし、これまでもそうした竜が表立って出てくることはなかったようで、この『声』については神、だったり世界のシステムそのもの、といった風にふんわりした形で解釈されている。
もしかすると行くところまで行き着いた竜ならばその神秘をも理解することができるのかもしれないが、今までいなかったし、今までいなかったということはこれからも現れないのだろう、といった蓋然的な結論に達してしまうわけで、私の人生にさしたる影響を及ぼさないと割り切ってしまえば、それは単なる一物理法則となんら変わることがない。
だから私は考えてもわからないことは気にせずに、日々を真摯に生きるべきなのだ、と思う。あと願わくばグレイとイチャイチャもしたい。
――このときの私はそう思っていて、その姿勢は間違いではなかったが、認識についてはいずれ改めることになるのだと知るのはまだ先の話なのだった。
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