Prologue_A
始まりは、子供の頃の約束だった。
『親父は競馬下手なんだからさ、俺がジョッキーになったら毎回俺が乗ってる馬を買えばいいよ! そんで俺が勝ったら親父も勝てるだろ?』
そんな歪な親子関係から生まれた約束を、俺は未だに覚えていて、そして守ろうとしている。
お袋はそんな親父と俺が物心つく前には離婚した、らしい。
親父の両親が死んだときに遺された財産が結構なモノ――というか、一般人からすると使い途に困るくらいの金額だったらしく、悪い言い方をすればそれを食い潰すような向上心のない生活を送るのが苦痛だったんだろう。
俺と違って真面目な人だったよ、と語る父親の話から推し量れる人物像からが唯一、親父とお袋の夫婦だったときの姿を垣間見ることができた。
じゃあそんな真面目な母親はどうして俺を連れて行かなかったのか、ということを親父に尋ねると、単純に生活に困らないのはこちらの方だろう、ということだった。
遺産自体は結婚前に入ってきたものらしく、離婚時の財産分与でお袋に渡せた金銭はさほど多いものでもなかったようだ。
しかし離婚したとて特段俺の両親が嫌いあってるということもなく、親父はことあるごとにお袋に金を渡そうとするし、お袋は会うたびに俺と親父の暮らしぶりを心配する有り様で、まともではないなりにそう悪い親子関係ではなかったように思う。
そういうわけで俺はなんだかんだすくすくと成長し、子供ながらにやりたいことを見つけ、そうして今ここに至るというわけだった。
競馬界隈は元々人脈がモノをいうところがあって、ジョッキーの大半が2世だったり、家族が競馬関係者だったりする。
口さがない奴なんかは狭い界隈のことを競馬村、だなんて揶揄したりするけれど、何の後ろ盾も持たずにこの世界に飛び込んだ身からすると頷ける部分もあった。
……それも過去形だが。
有り余る金と祖父母由来のコネクションが俺の当時の実力以上に効果を発揮して、俺を押しも押されもしない立場のジョッキーへと押し上げた。
勿論努力をしていないわけではなかったが、そうした自分の能力以外に頼れるものがなければ、ひょっとすると乗鞍にも困るようになっていたかもしれない。
たしかフィギュアスケートで世界一になった人も言っていたけれど、自分がここまでこれたのは自らの才能ではなく、幼いときから研鑽を続けられる環境があったことが殆ど全ての要因だ、と言っていたように一定の競技シーンにおいては本人の能力よりも周りの環境が整っていることの方がしばしば重要であり、そこには始まる前から残酷なまでの選別が用意されている。
そういったわけで、幸いにも環境も能力も与えられて、何度目かのG1でも、それなりの馬に騎乗できることになった。
金曜日の推定オッズは3番人気で、さほどマークされる立場でもなく、また馬質もメンバーの中でそう見劣るわけでもない。
今回はオーナーや調教師、エージェントの各人に感謝するしかなかった。
コースは東京の芝1600メートル。
広いコースなので枠順の不利はそこまでではなく、500メートル以上の長いゴール前の直線が特徴である。
短めの距離ではあるが、展開次第では2000メートルを走れる能力が必要だと言われていて、能力があっても気性の悪い馬で勝つことはなかなか難しい。
前目につけてそのまま押し切りも期待しづらいコースであるし、ポジション争いに勝ちながら足を貯める為に馬との折り合いがより重要視される。
……正直なところ、俺はさほど折り合いをつけるのがさほど得意ではない。と、いうよりはトップクラスのジョッキーが上手すぎる、といった方が正しいのかもしれないが。
逆に俺の強みとは何か、と言われればレース展開の予測に尽きるだろう。
決め撃ち、と言ってもいい。
どこで誰が仕掛けて、誰がミスをして、どの進路を選んで、などの可能な限りの予測を重ねた上で自分の馬が最も可能性の高い勝ち得るパターンを選び、現実が予測に追いつく瞬間まで予測通りの走りをする。
勿論毎回その通りになるわけではないし、仮にその通りになったとしても馬がその時点まで手応えを残していないこともある。
しかし、例えそれが机上の空論と化しても自らの予測を信じてレースに臨むしかなかった。
今回のメンバー構成は強い逃げ馬と末脚のキレる差し馬、距離延長組が3頭、残りはマイルも走れる中距離馬といったところだ。
俺の乗る馬は逃げ馬ほどスピードはないがそこそこ長くいい脚が使える馬で、ひとまずは中団辺りのポジションにつけたい。
理想の展開としては前崩れの展開。
なので脚を残しつつ先行勢をある程度追っつけてハイペースに持ち込みたかった。
スローペースからの瞬発力勝負では差し馬に勝てる見込みは薄いし、しかし脚を最低限残しながら好位にもつけなければならない。
決め手がない馬、と言われればその通りなのかもしれないが、俺が大舞台で乗るにはしかし上等すぎる馬でもあった。
勝ちたい、と思う。
幼い日に交わした約束は、既に借り物ではなく自らの情熱そのものになっていた。
――だから。
そんなにも嘆かないでほしい。
棺の中に横たわって目を閉じている俺に縋りついている親父と、そのすぐ後ろで何かを堪えているような痛ましい表情をしているお袋の姿を後ろから見ながら、今ここにいる俺はそう思った。
親不孝ってこういうことを言うんだなあ、と親父の顔を真正面から見ることもできないまま、俺は自分の葬儀の最中に佇んでいた。
涙は出なかった。というよりもそうした機能そのものがないようで、じくじくとした痛みは瞳から流れることはなく、胸の中でただただ澱んでいった。
――結果から話すと、俺はレース中に落馬して死んだ。
判断ミスはなかった、と思いたい。
ハイペースで先行する馬たちの一段後ろにつけて、最後の直線で垂れてきた馬をイン突きで交わして抜け出した。
抜け出したまではよかったものの、俺が乗っている馬も余力が残っていなかったのか右ムチを入れた途端内側にヨレてそのままラチに接触し、ちょうどムチを使ったところだったのが災いして、そのまま前に放り出される形になった。
で、ラチに首から落とされる形になり頚椎を……といった感じだ。
不幸中の幸いといえばこうした事故にあったのは俺だけで、他のジョッキーや馬は上手いこと避けていってくれたし、俺が乗っていた馬に関しても特段大きな怪我はしていないようだった。
しかし久しく起きていない中央競馬での死亡事故ということで、関係者やお世話になった人たちにはかなりの迷惑がかかったことだろう。
だというのにこうして葬式にまで参加してくれる顔ぶれを見て、俺はひょっとしたらそう悪くないジョッキーだったんじゃないか、と思えることが慰めにもなっていた。
ちょっとカッコつけた物言いをするなら、人生と言う名のターフを走り終えた感慨が、両親を残して死んでしまうことに対しての罪悪感を穴埋めしてくれていた。
後悔はない。
そう言い聞かせるようにして、さあ成仏ってどうやるんだ、と思考を切り替えたそのとき、声が聞こえた気がした。
――本当に?
精一杯に取り繕った虚勢を揺さぶられて、俺は苛立ち紛れに、誰とも知れない声に対して返した。
「本当じゃなかったとしたら、一体どうなるっていうんだ?」
その返事がきっかけだったのか、今までいた斎場からコマ送りのように景色が切り替わり、ただただ白一色で染め上げられた空間になる。
しかし病室のように無機質なわけでもなくて、陳腐な例えにはなるがあの世があるとするならこうしたところなのかもしれない、とは思った。
同時に先ほどまで比較的明瞭だった思考が霞みががったようになり、感情を置き去りにして、根拠の知れない恐怖を自覚のないままに得た。
『違う世界であなたのやり遺したことを成し遂げられるとしたら?』
声を聞いた瞬間、俺はようやくといっていいのか、声の持ち主を認識することができた。
目の前の女性はなんといえばいいのか、こう、実際に自分が形容するには気恥ずかしさも伴うのだが、それでもわかりやすく表現するならば女神、が一番相応しいのだろう。
俺はそんな存在を前にして僅かばかりの時間立ち尽くして、それから搾り出すように言った。
「違う世界で叶えたいことなんてないよ。俺はこの世界で努力して、やりたかったことを叶えようとして、勝とうとして、ダメだったんだから。ダメだったから違う場所で似ていることを頑張ろう、なんて思えないね。それは俺のやりたかったことじゃないし、何より逃げてるだけじゃないか」
拙い言葉を継ぎはぎにして、どうにか思うところを伝えた。
……伝わったのだろうか?
そんな不安をよそに、女神は困ったように微笑んで、
『では、全く関係のない世界で構いませんか? あなたが転生することはもう決められていて、あとは少しでも希望に沿う世界を選んで――という流れだったのですが』
言葉が脳内を上滑りしていく。
判然としない思考の中、俺は、
――いずれは日本に帰ってこられるような世界がいい。
まだ俺は、勝っていないから。
その内容が伝わったのか、果たしてそうでないのかわからないまま、俺の意識は溶けるようにして消えていく。
最期に考えたのは、これからは両親が仲良くしてくれればいい――だったのが、少しだけ誰かにとっての救いになったような気がした。
■
――というのが、産まれたときから持っている俺の前世の記憶である。
前世はハッキリ言って恵まれすぎているくらいの環境であったが、今世ではそのツケを払うかのような環境に俺は産まれた。
まず一つ目。
人類が他の種族に支配されている。
この世界では種族の頂点に竜人が居て、人族は殆ど奴隷のような扱いを受けていた。
とは言っても無意味に殺されたりするほどではないし、身体を壊すほどの労働で使い潰されたりすることもない。あくまでも管理されている、というのが正しいのだろうか。
少なくとも自由意志を持って、なりたい職業について生きていく、みたいのは諦めるしかない。
で、そんな世界で俺はどんな仕事に従事しているかといえば、偶然なのか、はたまた女神が仕事をしたのか、前世に引き続き騎手をやることになっている。
とは言ってもサラブレットを誰が繁殖させているわけでもないので、乗るのは馬ではなくて、竜人が竜の姿に変異したそれだった。
奴隷が支配階級の背中に乗るのか? と疑問に思ったかもしれないが、実のところ俺も初めは戸惑いしかなかった。
しかし聞くところによると、そういった形の儀式、のようなものらしい。
ライダーと呼ばれる人族を背中に乗せてレース<ロンド・ドレイク>をして、勝った竜だけが祝福を受け存在の位階を高める――呪術的な側面がどうとか言われたが、オカルトには疎い俺だったので、半分くらいの単語は頭を素通りしてしまった――自らの存在を高めることが竜という種族の本能らしいので、効率的に進化を促せるその儀式は当たり前のように受け入れられている。
そういったわけで、俺の現状を一言でいうならば、ライダーとして飼われているペット兼使用人、というのが正確なところだろう。
「そこじゃなくてもっと下だって言ってるでしょうが!」
だから、俺はこうした人を人とも思わない扱いにも耐えなければならない。
「さすがにそういう箇所は自分で洗ってもらえないか」
「――なんで?」
なんでじゃねえよこのメスガキがよ。■■して■■■して■■■すんぞコラ。
などと思っても、それをおくびにも出さずに対応を続ける。
「欲情するのは生理現象なんだからしょうがないでしょ。私みたいな体型でも、まあ、一応女性特有の身体的特徴はあるわけだから、理解してあげるわよ。――まさか力づくでどうこうしようって思うほど理性のないニンゲンだとは思ってないしね」
「理解してもらえているなら持ち上げて揺らさないでくれると助かるんだが」
言うほどに年頃の男性に関して理解の及んでいない俺の飼い主のロリ巨乳に、努めて平静を装って言う。
はっきり言って竜人にとってのニンゲンの認識は家畜か穀物か、といったところで落ち着いている。
落ち着いているのだが、しかし竜人は牝しか居ないこともあって、繁殖相手には人族が用いられていて、そういう世界だ、と受け入れることができれば問題はないのだろうが、いかんせん前世の記憶を持つ俺はマジで情緒というか、理性というか、頭がおかしくなりそうな世界なのだった。
しかも厄介なことに人族をまるで恋人のように遇する竜人もいて、それらも異常性癖としてだがある程度認知されているのもなんとも言えない。
感覚的にはバター犬をだいぶマイルドにした感じだ。そうした竜人は性欲が強い人なのね、くらいで済まされてしまう。
もうなんか何を言ったらいいのかわからないくらいだが、とにかく俺は日本に帰ることを目標としているので、何がどうなってもそういう関係に陥るわけにはいかないのだ。
素手でロリ巨乳の柔肌を洗うことを強制されてはいるが、陥るわけにはいかないのだ。決して。
「そろそろ流して浴槽に入ってもらっていいか?」
「まあ、仕方がないわね。いい加減に慣れてもらわないと困るのだけど」
慣れるわけがない。こちとら童貞のまま死んだんだぞ。
ジョッキーといえば遊んでいるイメージもあるだろうが、基本的に金で作った人脈が頼りな俺にとって、周囲からマイナスなイメージを持たれるのは避けたかった。
多少の偏見もあるかもしれないが、2世ジョッキーなんかだと多少やらかしたりしても、『この人の息子だしなあ』と寛容になることもあるだろう。
しかし俺の場合はオーナーだったり調教師の評価がそのまま馬質に直結するので、一旦不真面目だというイメージを持たれると割と取り返しがつかない。
そんな感じでトレーニングだったり馬の調教だったり営業だったりに明け暮れていた俺は、女性と関係なんて持ちようがなかった。そういう店に行くジョッキーたちを指を咥えて眺めているだけだった。
高校だって競馬学校に入ったから女の子との関わりも皆無だったしな。
最後にまともに喋った家族以外の女性といえば中学のときのクラスメイトくらいだ。元気かな、リナちゃん……。
意図せずしてホームシックにかかった俺は、ロリ巨乳が浴槽に入るのを待ってからしずしずと風呂場の隅に控えた。
ちなみにこのロリ巨乳に関してだが、俺がこの世界での年齢で三歳のときからの付き合いで、名前をステラと言う。人間の男児を競り落とすセレクトセールで俺を購入した。
自慢にもならないが前世の記憶があり、外見以外は殆ど成人と変わらない立ち振る舞いをしていた俺にはセレクトセールでの最高額がついていて、なのに容易く購入に踏み切っているステラの財力は相当なモノなのだろう。
「そろそろ出るわ。タオルを用意してくれる?」
「わかった」
ざばぁ、と裸体を隠すこともなく浴槽から立ち上がったステラからさりげなく目を逸らして、脱衣所にバスタオルを取りにいく。と、言ってもすぐそばのドアを開けるだけなんだが。
「じゃあ、拭いてくれるわよね」
「はいはい」
直視していると理性が削られていくので気付かれない程度に視線をずらすのがコツだ。
狭い脱衣所で髪の毛からささっと拭き始め、次に身体全体を拭いていく。
風呂場だと水音のお陰で気にしなくても済んだが、ここではステラの息遣いまで聞こえるので思考までも別のところに意識を向けなければならない。
俺としてはこの家に来た当初は金があるんだからもっと広い家に住めよだとか、他に身の回りの世話をする使用人くらい買ってこいと思ったものだが、実際に住んでいるのは前世でいうところのワンルームマンションのようなところで、二人で住んでいるとプライバシーなんてものはほぼない。
これにはいくつか理由があって、まず一つ目は竜人がビビるくらいストイックな生き物であること。
食べて寝るだけのところに拘る必要なくない? 掃除も手間がかかるし? ということらしかった。
またステラの母親は未だに存命ではあるのだが、まずもって竜人というのは独立主義というか個人主義な側面が強く、自立できるようになったと見なされればすぐにでも親元を離れて生活するようで、単純に世帯数が多く、どのような背景があったとしてもこうしたマンションに住むことを推奨されている。
「……んっ」
加えて<ロンド・ドレイク>では竜人ではなく人間が主体となってレースに臨むことが習わしになっているらしく、竜人と人間の信頼関係を築くことが重要だという。
ともすれば初めは使用人ということでステラ相手に敬語を使うようにしていたが、『あんたはライダーなんだから敬語はやめて』とのことで、最終的には今のような距離感になった。
「……っ、はぁ、はぁーっ」
なった、のだが。
どうにも最近は少しばかり距離感を掴みかねているというか、ぶっちゃけた話ステラが一方的に距離を詰めてこようとする気配を感じている。
「ここも拭いて。濡れたままだと困るでしょ」
平静を装いつつも息を荒くするのはちょっと心臓に良くないのでやめてほしい。
いそいそと手を動かしつつ、はい、と拭き終わった旨を伝えた。
「あっ……」
切なそうな声を上げるんじゃねぇ!
もう既に何かが始まってもおかしくない雰囲気だが、表情筋を無理やり動かして、さも『なんだこいつ変態か?』とでも言いたげな顔でステラを見つめると、ぴくん、と小さく震えてから落ちつくので大体の場合状況が解決するのだ。
<ロンド・ドレイク>ではこいつに跨らなくてはいけないんだが大丈夫なのか。変な性癖に目覚めてないか、と脳裏に過ぎる不安を気付かないフリをして乗り切るしかないのが現状だった。
「じゃあ、次はね、スキンケアをお願いするわ」
なんて羨ましい生活を、と思われるかもしれないが、少し考えてみてほしい。
いずれ俺は日本にどうにかして帰ると決めている。その決意がブレないように身辺や心を予め整理しておくのは必要なことだろう。
何かを得る為には何かを捨てなければならないのだ。
そういうわけで俺は今日も自分の理性と自尊心を削りながら、いつか訪れる栄光を掴む為に日々を耐え凌いでいるのだった。
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