第4話 逆◯◯◯◯は全てを解決する!?

 グローバルな企業には、秘密がある。そして、秘密を守るべく、本社の敷地内に、ごく限られた関係者しか立ち入ることのできない、「裏庭」と呼ばれるエリアが存在したりもするのだ。

「逆バンジーーーッ!」

 麗しの社長の叫び声が、その裏庭に響き渡ったのである。


 その日、麗子は珍しく、六花を伴って出社した。そして、六花は、初めて裏庭へと足を踏み入れたのである。

 そこには、ペンペン草も生えていなかった。もとい、よく手入れされた芝生のみが広がる庭だった。

 社屋の裏手にある広々とした庭というだけで、六花には、特に秘密めいたものは感じられなかったのである。

 六花の頭上には、狐耳が生えている。お尻からは、六尾が伸びている。

 そうした事態を解決するためだと言って、麗子は、ここに連れて来てくれたのだが……


「見てみぃ、六花ちゃん。なかなかの高さやろ?」

 麗子は、裏庭に面した社屋を、指先で撫で上げるように指し示した。それは十階建てである。

「そもそも、のあるビルなんて、京都市内では限られてるよってなぁ。どうせなら、勝手知ったる我が社がええと思たんよ」

 麗子の言う通り、京都市には、歴史的な景観を守るためにと、建物の高さを制限するルールが存在する。オフィスビルの地上部分は、十階建てが最大限といったところなのだ。

 それにしても、飛びごたえって何?


 麗子は、社屋に背を向ける格好で、裏庭の真ん中に立った。モデルのようにいささか斜に構えて、そよ吹く風に黒髪を棚引かせた。そして——

「逆バンジーーーッ!」

 麗しの社長は叫んだのである。

 洒落たパンツスーツに包まれたその肢体は、ひらりと直線的に空へと舞い上がり、そこから宙を滑るように後ずさって、十階建ての屋上へと着地したのである。


「バンジーーーッ!」

 続いて、社長は、本社ビルの屋上から、叫びながら飛び降りたが、モデル立ちした空中姿勢を維持したまま、難なくふわりと着地したのである。さすがに少々乱れた長い髪を、したり顔で背中へと払ったのだった。

「どうえ? 六花ちゃんもやってみぃひん?」


 六花は、頭を抱えるしかなかった。

「却下……」

 そして、弱々しく呟いたのである。

 裏庭には、社員証を首から提げた女性もおり、彼女がドローンを飛ばして撮影した映像を、地上のモニターにいくらでも出してくれるおかげで、六花は、母のジャンプがあからさまに人間離れしており、物理法則をも虚仮こけにしていることなら理解した。いわゆる「※よいこはマネしないでね」の境地の極北だ。

「お母さん……逆バンジーゆうんは、トランポリンとか、スリングショットとか、それ相応の道具を使つこうて、安全に気遣きづこうて飛ぶもんなんやで? もちろん、逆やないほうのバンジーかて……」

 六花は、呻くようにツッコミを入れる。

「細かいことはええねん。技の名前を叫べば力も出る。気合いや!」

 麗子は、しかし、両の拳をグッと握り締めたのである。

「この裏庭には、ごく限られた、な人間しか入られへん。要は、小近衛家の使用人と同類しかいいひんねん。それに、うちが直々に結界で覆ったよって、空中姿勢が綺麗に決まらへんかったとしても、余計な人目について恥ずかしいなんて心配はあらへんねんで」

 麗子は、明朗な声で、途方に暮れる娘を勇気づけるように言ったのだった。

 ああなるほど、ドローンのオペレーターさんも、正体は狐だから安心というわけか……違う!

 空中姿勢が大切だなんて、まるで採点競技みたい……違う、そうじゃない!

 母と自分の視点のあまりのズレに、六花の脳内は混迷を極めた。

 そもそも、逆バンジーやら逆じゃないほうのバンジーが、六花の耳と尻尾問題にどう関係するというのだろう?


 麗子は、娘に歩み寄り、視線の高さを合わせつつ、その肩に手を置いた。

「六花ちゃん、こないだ、体育の授業で逆上がりにチャレンジした話をしてくれたやんな?」

「……うん」

 それはした。小学三年生にとっての、ある種の通過儀礼たる、鉄棒の逆上がり。六花は、教師が披露した実技をお手本に、卒なくこなすことができたのだ。体育は決して苦手ではないのだ。

「せやから、お母さんも、のお手本を見せてあげたんえ?」

 六花は、驚愕に目を見張った。どうやら、麗子の頭の中では、逆上がりと九尾の狐式逆バンジー&バンジーが、同列に並べられているらしい。

「六花ちゃんは、飛行術はまだ学んでへん。けど、六尾なんやし、あないに除霊が上手なんやから、きっと空だって飛べるはずや!」

 それはなんだか、体育が得意なら国語も算数も音楽もできるはずだよねといった、押しの強い教育ママの暴論のようだった。

「もしも、逆やないほうのバンジーが怖いんやったら、逆バンジーから始めたらええやん。お母さんの経験上、飛行術の修行は、力のコントロールにむっちゃ役立つねん。六花ちゃんが自分の意思で姿形を調節できるようになるための突破口にもなるんやないかなぁ」

 事ここに至ってようやく、六花は、母の意図にまで理解が及んだ。飛行術を練習することで、耳と尻尾問題の解決に要する時間を短縮しようというのだ。

「思い出すわぁ、お母さんも生まれた時には六尾やったんやけど、修行を重ねて九尾にまでなったんえ。小娘どころかほんの仔狐やったころ、飛行術に夢中やったんよ……」

「お母さんが仔狐!? それって、いつごろの話?」

「んー……」

 六花が、好奇心からついつい尋ねたところ、麗子は、真面目な表情で指折り数え始めた。最初の指を折った後に「壇ノ浦……」と呟いたから、おそらく指一本が千年を意味するのだろう。

 やがて、麗子は、両手の指を使い果たすと、パンプスの中でもぞもぞと足の指を動かす気配を漂わせた。

 六花は、未来を予知した気がした。麗子は、足の指が尽きたら、六花の指を借りようとする。それでも足りずにドローンのオペレーターも動員して、それでも足りずに……ついには、時間が足りなくなるのだ。

 六花は、今日の午後には、撮影所で行われる打ち合わせに参加しなければならないというのに!


「逆バンジーーーッ!」

 六花は、裏庭の真ん中で、覚悟を決めて叫んだのだった。


「本日は、どうぞよろしゅうおたのもうします。それにしても暑おすなあ。もしも、弊社の夏用コスメがこの世に存在せえへんだら、うちの化けの皮も、溶けて剥げて流れてまうんやないかと心配せなあかんほどどすわぁ」

 麗子は、定刻に撮影所を訪れ、応接室へと通された。持ち前の美貌に笑みを浮かべ、ユーモアを交えて、如才なく挨拶したのである。そして、居合わせたスタッフたちと名刺交換なぞ行った。

 しかし、人々の注目は、麗子の後ろに控えた、もう一つの人影に集まりがちだった。

 六花だ。大きく黒目がちなその双眸は、なぜか光を失い、虚ろなブラックホールと化していた。

 何より、その頭上には狐の耳が、臀部には六つに枝分かれした尻尾が生えており、少女の眼とは対照的に、燦然と金色に輝いているのだ。

 六花は果敢に逆バンジーに挑んだものの、ついに奇跡は起こらなかった。それが現実だった。


「どうどす? このきつねの特殊メイク! 我が社が誇るメーキャップ技術に、いわゆるARをひとつまみ加えてみました。もっとも、企業秘密やよって、詳細をお教えするわけにはいきまへんけどなぁ」

 麗子は、頃合いを見計らって、六花の背後に回ると、その両肩に手を置いた。そして、やんごとなき笑みを浮かべつつ、はったりを利かせたのである。

「脚本を拝見したんどすけど、陰陽師の女の子が、悪い狐に呪われて、こないな姿になってまういうお話でっしゃろ? 僭越ながら、お化粧品を商うもんとして血が騒いでもうてねえ」

 六花も、ここが踏ん張りどころだろうと、心して笑顔を拵えた。以前、鏡の前で母と一緒に工夫した笑い方である。そして、体の両脇に、尻尾を三本ずつ、左右対称にもたげてみせたのである。

「いやいやいや!」

 特撮の分野で実績豊富な監督が、眼鏡をずり上げながら、狐っ娘に肉迫した。

「ARうんぬんと仰ったが、それでもこうはならへんでしょう!」

 映像のプロである彼は、麗子のはったりに全く納得していなかった。

「ちょっと、お触りはやめとくれやす!」

 麗子は、意図的に語気を強めた。それは、児童を養育する母親としては、さもありなんといった苦言である。

 監督は、伸ばした手の寸止めに成功して、渋々ながら引き下がったのである。

「いややわぁ、監督さん。どうあれ、企業秘密やよって、お教えできませんのんや。実はうちは、娘がテレビドラマに初出演することが決まって、すっかり舞い上がってしもたんどす。そんで、採算なんてもんは度外視して、その特殊メイクをやってもうたというわけや。親馬鹿やとわろうていただければ幸いどす」

 企業秘密であるだけでなく、ひどく高価であると仄めかすことで、麗子は、それ以上の追及を封じたのだった。


 かくして、当初の予定通り、六花は、「京都でモテモテ、ドッキドキ!?」への出演を果たしたのである。

 


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