第2話 食べ歩いた女「赤い関門海峡」

「あんなぁ、あんたは、うちに捧げられたにえなんやで?」

 いつだったか、お母さんは、私の頬を撫でながらそう言った……

 

 目覚まし時計が鳴った時、私は、壇ノ浦だんのうらにいた。

 赤い旗が、浜辺のそこここに打ち上げられているのを、まるで空飛ぶカモメのような視点で眺めていた。

 平家の侍たちは、赤い旗を背負って戦った。だから、戦が終わった今、敗者たちの亡骸に纏わり付いたその旗が、数え切れないほど浜へと打ち上げられて、血よりも赤く太く分厚く流れていた。

 ああ、アレが来る——

 キュッと胸が締め付けられるのを、私は感じた。

 目覚まし時計の音が聞こえるのだから、ここは夢の中だとわかっている。ジリリとけたたましいその音を手繰って、一刻も早くこの夢から覚めてしまいたかった。

 けれど、まるで真っ暗な部屋に閉じ込められてしまったかのように、外からの音は聞こえるというのに、出口がどこにあるのか見えなくて、なかなか辿り着けないのだった。

 このままでは、アレがやって来るのだと、私は知っている。とても大きな——貴人を匿う唐船ほどに巨大で真っ白な九尾の狐が、天から舞い降りて、敗者たちの肉を貪り食うのである。

 いくら、その狐が小近衛家のご先祖様だからって、私は、その様を見たくはないし、人が骨まで噛み砕かれる音も聞きたくないのだった。

 妖狐の血を引いているのだとしても、私は人間なのだから!


 夏休みが始まったばかりのその朝——

 窓から差し込む光は明るく、屋外の気温は既に猛り狂っている。

 そして、部屋の中では、少女が一人、ベッドに仰向けとなってうなされているのだった。

 室内には程良くエアコンが効いていた。しかし、少女は、顔を背けるようにして、きつく眉を寄せたのである。

 小近衛六花りっか——八歳。彼女は今、壇ノ浦の戦いの悪夢に苛まれている。それは、六年生にもなれば小学校でも習うはずの歴史的一大事で、一一八五年に平家が滅亡した戦である。

 六花が平家方の末裔だからというよりも、今にも九尾の狐が荒ぶり降臨しそうな予感のおかげで、それは、彼女にとってひどく恐ろしい悪夢なのだった。


「……なんや、えらい偉業を達成したような気がする……」

 やがて、どうにかこうにか目覚めて、枕元の時計を止めた六花は、げっそりとして呟いたのである。

 ただ単に眠りから覚めただけなのに、今朝のそれは随分と大変だったから、夏休みの絵日記の全てを一日にして描き上げるくらいの偉業を成し遂げた気分だった。もっとも、六花は実際には、夏休みの宿題は絵日記も含めて毎日コツコツと片付けるタイプなのだが。

 壇ノ浦の悪夢に苛まれるのは、これでいったい何度目だろう。九尾の白狐の暴食ぶりまで目撃してしまったこともあるが、今朝は、その到来を告げる咆哮を聞いただけで、間一髪、目を覚ますことができた。

 それは、戦の死者たちが一斉に悲鳴をあげたかのような、そして、空も海も鋭く切り裂かんばかりの恐ろしい声だった。


 身支度を整えて階段を降りようとした時、とてもいい匂いが、六花の鼻をくすぐった。

 どうやら、今日の朝食はずいぶんと豪華であるらしい。

 げっそりとしたはずの六花のお腹が、たちまちきゅるると鳴ったのだった。

 六花は、母である麗子と二人暮らしだ。麗子は、その日の気分で料理人を呼んだりする。

 今朝は料理人が腕をふるったに違いない、と六花は思ったが……


「え!?」

 食堂に着いた少女は見た。食卓の上に、ご飯、味噌汁、鯛の尾頭付き、京都ラーメン、フカヒレの姿煮、丸焼きタンドリーチキン等々がずらりと並べられているのを。

 そして、「全ては飲み物なんやで」と言わんばかりの勢いで食事しているのは……一人の、落武者だった。


「六花ちゃん、こっちこっち、おはようさん」

 母の麗子が、明朗な声で言って、少女を手招きした。麗子は、メインの食卓ではなく、中庭に臨む窓辺の小卓に着席していた。

 そして、ちゅるちゅるとラーメンを啜る作業を再開したのである。チャーシューに、卵に、ネギやモヤシもたっぷりとトッピングされた一杯である。

「おはよう、お母さん。わぁ、スープがええ匂い……」

 六花は、母の向かいに座ると、いささか前のめりになって、湯気ごと匂いのお相伴にあずかったのだった。

「せやろ? 京都ラーメンも数あれど、うちは、朝ラーメンゆうたらやっぱり、生醤油を使つこうたこの味やわ!」

 麗子は、なんとも幸せそうにゆるんだ笑顔で言った。おそらくスープも飲み干すつもりだろう。

「六花ちゃんは、なんにする? のテーブルに出てる料理やったら、どれでも、全部でも用意できるらしいえ?」

 麗子が呼んだ料理人なのだから、腕利きに決まっているのである。

「んー……じゃあ、フカヒレ! 揚げパン添えてもらえます?」

 六花も、自ずと笑顔になって、大好物を注文したのだった。


 やがて、深い色をした、膨よかな三日月のごとき姿煮が、白い皿という丸窓に昇って、六花の前に現れた。

「いただきます!」

 その舌触りは、とろりとしている。噛みごたえがあり、味わいつつ咀嚼すれば、やがて訪れる繊維がプチプチと弾けていく食感が、六花はたまらなく好きなのだった。

「お肌がプルップルになるえ。さすがは、未来の女優さん!」

 幸せそうな六花を眺めて、麗子もまた幸せそうに笑うのだった。六花の夢を、養母である麗子は、心から応援してくれているのだ。ときには、六花と共に鏡の前に立ち、魅力的なポーズや表情の作り方を一緒に研究してくれたりもするのだ。

 九尾の白狐を夢に見るのは恐ろしいけれど、六花は、麗子のことが大好きなのだった。


——あんなぁ、あんたは、うちに捧げられた贄なんやで?……

 ふと、そんな言葉が、どこからか蘇り、六花の脳裏をかすめていった……


 そしてそのころ、落武者は、かち割られた頭をギチギチと回して、酒と料理のおかわりを料理人に所望していた。



 

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