37
──自分より頭一つ高い背中を見送る。
カナタの後ろ姿は扉の奥へと消えてゆく。
扉が閉じる。それでもずっとその背中を見つめ続けた。
「──おい、あれ、誰だ?」
「──あれって、さっきの?」
「──誰か、あの人のこと知ってる?」
「──てか、何してんの?」
にわかに騒つく周囲にヒワハ隊員はムッとしながら隊員たちの視線の方を振り返る。
顔面蒼白。その額に滲む脂汗。
息も絶え絶え、青色吐息。
苦悶の表情を浮かべ、下唇はぷるぷると震える。
身をぎゅっと屈め、つま先立ち。
その姿は今の彼が考え出した最善の体勢であった。
立ち並ぶ不気味な胸像にもたれながら、地を這うミミズのような足取りで進む、彼の様相もまた不気味に映っている。
「──ハルマさんっ!」
ヒワハ隊員は思わず、駆け寄った。
「どうしたんですか!? どこか怪我してるんですか!」
ヒワハ隊員は必死になってハルマの肩を揺する。
「お、おい、今、俺に触るな……てか、ほんと、揺らさないで」
余計な動作などする余裕はなく、それは命取りにもなりかねない。それでも、ハルマは必死に弱々しく手を上げ、ヒワハ隊員を制した。
「……あ、あぁ、ヒワハマキ隊員か、なんだ、無事だったのか」
「無事だったのかって、さっき会ったばっかりじゃないですかっ、私はムササビさんたちに救護されて、あの時の傷は癒えましたって。今は私のことより、ハルマさんですよっ! どうしたんですか、ハルマさんっ。さっきのビヨンドの大群にやられて、どこか怪我したんですか?」
「……怪我はしてない。でも、今から、一生消えない傷と汚名を負うことになるかも」
悲痛と苦悶を抱えながらも、どこか諦めにも似たハルマの表情。
「え、それって……」と、ヒワハ隊員は口を手で塞いだ。
「もしかして、“呪い”……まさか、ビヨンドに“
ヒワハ隊員の目が赤まる。
「ああ、そうだな、ある意味、呪いって言ってもいいかもな。だけど、こんなときに限って(トイレの)神様は何もしてくれねぇ。信じられるのは己の(肛門括約筋の)力だけだ……」
「そんな……そんなことって……」
「ヒワハマキ……さん、もし俺が(便意に)負けても……引かないでね」
ハルマの目に滲むのは汗か、それとも──
「何、弱気になってるんですか! 冗談はやめてください、ハルマさんらしくないですよ! 私を助けた時みたいに、飄々としていてくださいよっ!」
涙目のヒワハ隊員。堪らず、強くハルマの肩を揺する。
「あ、ちょ、ちょっと、ほんと……揺らさないで、今、揺らされるとマジでヤバいから……」
(あかん!! もう……だめや……)
その時──!
──極限状態に置かれたヒコキハルマの脳裏に一筋の閃きが走った。
目を見開く。パッとヒワハ隊員を見上げるハルマ。
「──なあ、ヒワハ氏、あんた、ハヤブサのパイセンとかミトミがやってた、あのドア出せるんかい?」
「え、ドアって……?」
「俺のとこまでやって着た、あのドアだよ、ほら、えーっと、緊急……なんとかって──」
「……もしかして、緊急援助要請のことですか?」
「そう! それだよ、それ!」
ハルマはヒワハ隊員の肩を強く掴んだ。
その目に希望の炎が宿る。
「ジミー、いや、ミトミのいる場所までそれ出せるか?」
「ミトミ君の場所まで……はい、できます。この辺りは幸い、
ヒワハ隊員の肩を掴む力がぐっと強くなる。
「やってくれ、今すぐにっ」
ヒワハ隊員を見つめるハルマの力強く真っ直ぐな眼差し。
「ミトミ君の力が必要なんですか?」
「いや、あいつは関係ない。あいつのいる場所が重要なんだ」
「よく分からないですけど……分かりました。ハルマさんは私の命の恩人ですから、今度は私が一肌脱ぎますっ」
ハルマを見つめるヒワハ隊員の決意の眼差し。
互いを讃えるように二人は力強く、頷いた。
すぐさま、ヒワハ隊員は手帳サイズの魔導機器を取り出す──
──皆は無事だろうか?
オイルの臭いが染み付いたガレージの一室で、時間潰しにハルマから渡されたタブレット端末を手の平に、ミトミジョウタ隊員はボーっと宙を眺めていた。
あれこれ考えることを止めようとしても、否応なく、悪い想像が脳裏に浮かぶ。
それを振り払おうと、また、頭を強く振った。
「──ミトミ君、君はここで待機してた方がいい。か細くとも、
ハヤブサの言葉を思い出す。
「──君がここに
ミトミ隊員は、また、強く頷いた。
──それは唐突に現れた。
降ってわいたように、突然。
まず、サイレンに似たけたたましい警報音が一瞬、鳴り響く。
聞き馴染みのあるその警報音に、ミトミ隊員は顔を強ばらせた。
(誰が──?)
ミトミ隊員はじっと目を見開き、凝視する。
──重厚で堅固な鉄製ドアが現れる。
ドアの三つの切れ目は緑に光り、フシューっと、白い煙を上げて三方向に開く。
煙幕を纏う穴から、飛び出すようにハルマが現れた──
「──え? ハルマさんっ?」
ミトミ隊員は戸惑いを隠さず、ハルマに近寄る。
「ハルマさん、どうしてここに? 任務はどうなったんですか?」
「話は後だ──」
ハルマは真剣な顔つきで、足早に奥のドアの向こうへと消えて行った。
──七分後。
奥のドアから、ハルマは付き物が落ちたような、すっきりとした清々しい笑顔を携え、やって来た。
「あー、マジで危なかった! ほんと、ギリギリの戦いだったわ!」
状況が飲み込めない、ミトミ隊員。
「あ、あの、これは一体……?」
「ジミィィーッ、ほんと、ここにいてくれて、ありがとう!」
ハルマはミトミ隊員を強く抱きしめた。
「あ、いや、だから、ちょ、ちょっと……」
ハルマはミトミ隊員を離す。その顔から安堵と喜びは未だ離れずにいる。
「いやな、急に催したんだけど、サンザのアホが、その辺で、クソしろって言ってさ、そりゃあ、俺だって、ほんとにヤバい時はやむ得ないけどよ、そりゃあ、大前提として、山ん中とか、森の中、とかって話だろ?」
「は、はあ……」
「あんな、なんも人目を避けるもんもねえ、場所でさ、うんこしてる姿、誰かに見られでもしたら、俺はもう人としての大切な何かを失って、一生、立ち直れねえって」
「あ、あの……ハルマさん、もしかして、もしかしてなんですけど……」
ミトミ隊員は、まさかそんなはずはないと、口籠もりながらも尋ねる。
「……わざわざ、用を足すためだけに戻ってきたんですか?」
「おうよっ」
ハルマは真っ直ぐにミトミ隊員を見つめ、親指を上げた。
茫然自失とするミトミ隊員。何かを言おうと開けた口から、言葉が出ない。
「ヒワハって娘に頼んでさ、ジミーのとこまで、このドア出してもらったん」と、鋼鉄のドアを拳の頭でコンコン、叩いた。
「ほんと、ジミちゃんには感謝してるぜいっ」と、満開の笑み。
「マキちゃん……なにしてんの……」
ミトミ隊員は
「あ、ドラマ、いい感じのとこじゃん」と、ハルマはタブレットに目をやる。
「ここの回は、このあとの展開がおもろくて、けっこう泣けんだよ」
「へぇ、そうなんですね、でも、犯人って、この奥さんの妹なんじゃ……」
「そりゃあ、見てからのお楽しみだ──」
タブレットの画面に目を落とす二人。
「…………」
「…………」
「──って、いや、何してんすかっ!? あなた、今、任務の真っ最中でしょうよ!」
「あ、ちょっと、今いいとこなんだから──」
「んなもん、いつだって見れんでしょうが」と、ハルマの背を押すミトミ隊員。
「待てって、せめて、この後、妹の彼氏が自白するシーンまで──」
「──いいから、早く行けよっ!」
荒れた息を整え、鋼鉄のドアを見つめるミトミ隊員。
「……ていうか、トイレのために“緊援”、使う人、初めて見た」
──クラフト最下層。
「──あ、ハルマさん、具合はもう大丈夫なんですか?」
「ああ、ばっちりっす。お陰さまでベストコンディションっす」
ハルマは深々と頭を下げた。
「いえ、そんな──ハルマさんが元気になって何よりです」と、微笑む。
「にしても、よく見ると、えらく大層な扉だな、これ」
精巧な
「ええ、なんだか薄気味悪いですよね、怒ってるように睨み付けてて……」
「え、そう?」と、ハルマは意外そうにヒワハ隊員を見る。
そのハルマの表情にヒワハ隊員は些か、困惑する。
「これ、怒ってんじゃなくて、我慢してんじゃないの?」
「え、我慢って、何を?」
「──泣くのを」
ハルマは胸像を指差す。
「あっちの石像はみんな、笑ってて、それを涙こらえて、眺めてんじゃないの?」
ヒワハ隊員は腑に落ちないでも、何故だか、どこかしっくりとくる、ちぐはぐな感覚に、
「はあ」と、しか言えなかった。
「──ほんじゃ、まあ、行くかなぁぁ」と、ハルマは身体を大きく伸ばした。
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