10

春の匂いが強くなる。

夜更けに降った小雨のせいだろうか。


ハルマはすっかり氷の小さくなったグラスの残りを飲み干して、ようやく仲間たちと居酒屋を出る。


明け方のしんとした透明感は少し嬉しくもあり、まだ少し肌寒い。


ぱんぱんに膨らんだ腹をねぎらうようにさすって、酔っ払った頭を朝焼けの街角に浸しながら、おぼろげに駅を目指す。気がつけば、仲間の姿はなく、彼一人だけであった。


おぼつかない足取りで駅に着く頃には多分、始発の電車も走り出している。


急ぐことはない。どうせ今日は快晴だから。


途中、用を足そうと立ち寄ったコンビニでアイスを買い、その後で用を足してないことに気がつく。それぐらい、今の彼の頭は冴えてない。

それに、どうしてもアイスが食べたかったわけでもない。


その後悔はコンビニを出てほんの数分で訪れる。


地下鉄へ続く階段。踊り場の吸い殻は二本。

運賃は思い出せない。とりあえず一番安い切符。


「あすへのはね」と題されたオブジェを横目に改札を抜ける。


──電車到着まであと七分。


粛然たるトンネルの闇を押し退け、甲高くブレーキを効かせながらプラットホームに電車が入る。


ぽつぽつと乗り降りが終わる間際、ベンチでうつらうつらのハルマも発車ベルの音に促され足早に乗り込んだ。


──午前五時過ぎの地下鉄。


酔い潰れや朝帰りの若者。派手な服の女。夜勤帰りの中年。


気怠い夜の残り香をまとう車内。

大きなリュックを抱えた老人。サラリーマン。制服姿の学生。


トランクケースを持つカップル。仰々しい荷物とお揃いのユニフォームを纏っている三人組はきっとランダーだ。


終わりゆく今日と始まりゆく今日が車内の座席を不揃いに埋めて混在している。


意外と混んでるな、と、ハルマは眉を顰めた。

左右を一度ずつだけ見、煩わしそうではない空席を探した。


貫通扉前の二人掛け席が空いているのを見つけて、しめた、と、その席目がけ足早に歩いた。

壁際にどしりと腰を下ろすと、酒臭い吐息が漏れた。


二人掛けとはいえ、大の大人が座れば座席の半分以上が埋まる。だから、もう誰も隣に座ろうとはしない。ゆったりと気兼ねなく座れる早い者勝ちの「特等席」だ。


通路を挟んだ真向かいの席には見るからに疲れ果てた様子の男が一人。


重たげに首を垂らし、死んでいるかのようにぴくりとも動かない。


まるで、その男の周りだけは時間がぴたりと止まっているかのような錯覚が襲う。


それほどまでに男は熟睡している。

──その男と同じだ。後はもう眠ればいい。


だらりと下がる手に、何か黒の塊が今にも落ちそうに弱々しく握られていた。


それが少し気にはなったが、ハルマはすぐに目を閉じた。


夜と朝の隙間を拭うように電車はひた走る。


──バンッ!

突如、短い落下音が足元で聞こえた。


幾人かの乗客の視線が一瞬、音の方へ向いて、またすぐに離れた。


向かいで眠っている男の──恐らくは──手から黒い塊が落ちたのだ。


男はそのことに気付きもせずに眠っている。

ハルマは数秒、じっとそれを眺めた。


わざわざ、重たい腰を上げて、それを拾ってやる義理もない……そうは思ったものの、男から一番近くにいる自分が知らぬふりというのも、どこか居心地が悪い。


小さな溜め息をいて、中腰のまま黒い塊を拾い上げた。


携帯電話フォート”よりは小さく薄く平べったい角の丸い長方形型の電子機器だ。


強化ガラス張りの液晶画面にはなにやら文字の羅列が忙しなく下から湧き上がっていたが、気にも留めず、機器の角で男の手をつついた。


男は寝言とも謝辞とも文句とも分からないうわ言を呟き、ほとんど無意識にハルマから電子機器を受け取ると、また手に黒い塊を持つ。


そのほんの数秒後──

バンッ! と、また短い落下音。


ハルマは眉を寄せ、しばらく落ちた黒い塊を眺めていたが、やれやれと腰を上げる。


それを拾い上げようとした手が止まった。

液晶画面に映る《初期化中》の文字。

一瞬、30%と表示された数字は、目紛しく青く回る光りの環の中で瞬く間に100%となった。


《初期化完了》の文字のあと、《再起動を行います》の表示。


暗くなった画面から視線を外し、ハルマはまた機器の角で男の手をつついた。


しかし、今度は先ほどよりもさらに男の反応が薄い。


強めにつついても男が気付く様子はない。

ハルマは小さく舌を打ち、仕方なく、男の太ももあたりに黒い機器を乗せた。


機器はすでに再起動を終え、また画面にはなにやら文字の羅列が忙しなく下から湧き上がっていた。


ガタンッ! 電車が大きく揺れた。


──バタンッ!

ハルマは辟易しながら振り向く。案の定、黒い電子機器が床に転がっている。


顰めた眉。こめかみがピクっと脈打つ。

「……わざとやってんじゃねぇだろうなぁ」


もはや、義務のように黒いそれを拾い上げようと腰を屈めた瞬間、車両が再び揺れた。

ハルマは思わず、機器の上に手をついた。


思いの外、体重の乗ってしまった手をどかし、機器を確かめた。

画面に映る《新規ユーザー認証完了》の文字。


(──なんのこっちゃ)


ハルマは気にも留めずに、拾い上げた黒いそれを今度は男のジャケットの胸ポケットに滑らした。


胸ポケット越しに機器の画面が光っているのが分かったが、もうこれで眠りを妨げるものはないと、ハルマは再び、瞳を閉じた──。



……あとは任せた。頼んだぞ──



深い眠りのなか、誰かが耳元で囁いた気がした。

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