「お前な」

「すみませんすみませんすみません」


先日、オリジナルの魔法を作ったまでは良かったのだが、試し打ちの際に出力の調整を完全に間違えたせいで魔法院の修練場を半壊させるという大事件を起こした私は、やはりというか案の定というか、任務から帰ってきたラズさんに叱られていた。

事件を起こした当時、ガブエラさんと一緒に関係者の方々へ謝罪周りをした時はそりゃあもう緊張したが、如何せん少し日が空いた事とお叱りを受けることが確定していたためこの三日間は気が気じゃなかった。

帰ってきたラズさんは荷物を置いて楽な恰好に着替えた後、リビングに私を呼び出した。


「いや、言いたいことは本当に山ほどある。けど一旦それは置いといて、だ」

「はい...」

「迷惑かけた人にはちゃんと謝ったか?」

「はい。ガブエラさんが同伴してくれて、これから迷惑をかけるかもしれない方の所にもいきました」

「ガブがやってくれたんならまぁそこらへんは大丈夫か...」

「だといいんですが...」


ラズさんはガブエラさんの名前を聞いて、途端にほっとしたような顔をした。ガブエラさんのことは相当に信頼しているようだ。

ラズさんは少し考える素振りをした後、見透かす様な視線で私を見た。


「反省してるな?」

「それはもうとっても、です」

「ん。そうだなぁ...今回は初めて撃ってみたってのもあるだろうしな。お前の事だから今回ので調整の感覚は掴んだろ?」

「えっと、最低限今回みたいなことにはならないと思います」

「うん。ならよし」


ラズさんはそう言って空気を切り替えるようにぱちんと手を叩いた。

てっきり物凄く怒られると思っていたので肩透かしを食らったような顔をしている私に、ラズさんは微笑みにほんの少しだけ呆れを混ぜたような顔で「んで、今回の詳細を聞いとこうか」と言った。


「詳細、というと魔法の事ですよね?」

「そ」

「えっと、師匠に買ってもらった参考書に魔法が創れるってことがさらっとだけ書いてあって、この一週間は暇になりそうだったのもあって作ってみようとしたら出来ちゃったので、それの試し打ちをしたらこんな事になっちゃいました」

「よりにもよって魔法の創造かよ...」


私の話を聞くにつれ、どんどんと青くなっていったラズさんは、ついぞ頭を抱えてうなだれてしまった。

怒られるかは別にしても、またもや何かやらかしたことに変わりないらしい。


「なぁ、前に魔法使いの階級について話したことあったよな?」

「はい」

「一番上は何だか分かるか?」

「えっと、魔導士、でしたよね?」

「うん、正解。魔導士ってのは読んで字の如く魔法を導く者って意味で贈られる称号みたいなもんで、世間体的には階級として使われるんだが、本質的にはただの勲章なんだよな」

「なるほど?」

「で、肝心の魔導士へのなり方なんだが」


ここでラズさんはため息を一つ。


「まさにお前が先日やった魔法の創造がそれにあたる」

「へ...?」

「ってことで申請すればいつでも魔導士になれるぞ」


開いた口が塞がらなかった。

恐らく相当にみっともない顔を晒している事だろうが事が事なので構っている暇はない。

見習いどころか魔法使いすらすっ飛ばして最高位の魔導士とは。

...正直なところ微塵もうれしくない。

確かに魔法の創造は難しかったし、そこそこ苦労をしたのは否めないが、正式な手段を全て飛び級する事とつり合いが取れるかと言えば答えは否だ。

それに魔導士になってしまえばラズさんの弟子ではなくなってしまう。

見習いどころか魔法使いですらないのだからむしろ弟子を取る側になってしまいそうだ。弟子を取れと言われても私には魔法の知識こそあれど経験が全くないので教えられることがほぼ無い。


―いや、それは言い訳か...。


「えっと、迷惑じゃなければ、まだ師匠の弟子でいたいです」

「まぁ、そう言うかなとは思ったが」

「はい。私は...私は、まだ師匠の弟子で居たいです。それに師匠から多くは教わってません。もっと師匠に教えて欲しいです。まだ...一緒に居たいです」

「分かった分かった。じゃあそうだな...今回の魔法は正規の魔法ってことにしよう。まぁそんなに根掘り葉掘り聞く輩はいないだろうし、そもそもオリジナルの魔法だなんて視野にすら入ってないと思うから誤魔化すのはそこまで難しくないと思う」

「はい」


私がラズさんの弟子でいたいと言うと、ラズさんからほんの少しだけほっとしたような音がした。

なんなんだろうと首を傾げていると、「さて」とラズさんが立ち上がる。


「ハプニングはあったが、こっからは正規の魔法について学んでもらいます」

「はい」

「基本的には魔獣を狩って実践を積むのをメインにしつつ、躓いた所で適宜教えていくって感じ」

「なるほど」

「んで、最初は魔法の出し方とかのコツを練習する。暫く一緒に練習して、攻撃魔法が安定して出せるようになったら依頼を受けに行くんだけど、その依頼で一定以上の実力が認められれば魔法院から昇級試験の通達が来る。これは受けるも受けないも自由だけど実力的に受かりそうなのであれば受けることをお勧めしとく。階級によって受けられる以来の幅も給与も全然変わってくるし、平たい言い方にはなるけど魔法使いで昇級するってことはすなわち身分が上がるってことだからな」

「分かりました」

「その試験を何個か突破して、最終試験に合格したら晴れて弟子は卒業だな。お前の場合はそのタイミングで魔導士の申請すれば魔法使いを飛ばせるから一息に俺と同僚になるわけだ」

「は、はい...」


自然な流れで私が今魔導士の申請を渋った理由がラズさんの弟子でいたいという事が本質にある事がばれていて、堪らず頭を押さえて俯いた。

多分ラズさんは意識的に言ったのでは無いのだろうが、むしろそちらの方が恥ずかしい。わざわざ考えずともラズさんの頭の中では、というかまさにその通りなのだが、私がラズさんと一緒にいたいと思っていることが当たり前になっているのがなんだかとても居た堪れない。

この頃私はおかしいのだ。

ほんの少し前であれば、ラズさんにそういったように思われていようがあまり気にしなかった。

事実ですし、と尤もなことを言いそうなものだが、最近それがどうにも上手くいかない。

本当に些細な事でもラズさんに関することであれば過剰に反応してしまって体がむず痒くなったり、胸が詰まったような心地がする。


「ぶっちゃけ、俺と同じ任務に来れるやつが少なくてさぁ、最近だとガブぐらいなもんなんだよ。だから―

「待ってください待ってください!」


私は何事も無いかの様にスラスラと続けようとするラズさんを慌てて止めて、ずいっと体を寄せ、問いただした。

今しれっとガブエラさんの名前が出た気がするのだが気のせいだろうか。

ガブエラさんはお医者さんであって魔法使いではなかったはずでは...?


「ん?あぁ、ガブは魔導士だぞ。諸説あるが、ギフテッドの俺を除けば一番強いかもしれんレベル」

「えぇぇぇぇ!?」


なんでもできるというのは「人よりも高水準ですべての事が出来る」と言う意味ではなく文字通りすべての事を第一線級に出来てしまうという意味らしい。


「私の周りの人の水準がおかしい気がします...」

「類は友を呼ぶってやつだな。身から出た錆ともいう」

「そんなぁ」


あんまりじゃないだろうか。物々しい面構えの中で期待に押しつぶされてしまわないか心配で、少しばかり頭が痛む。


「まぁ、それはいいとしてだ。俺としては嬉しいわけよ。身近な奴と一緒に任務に行けるってのは」

「が、がんばります」


しれっと私を身近な奴判定していることにほんの少しだけ動悸が上がったが、まぁ弟子だし当然だろう。何なら一緒に暮らしているわけで、近い人間として扱ってくれるのは当然と言えば当然だ。

しかし何故だか、むず痒い様な嬉しさと、どこから来たのかわからないわだかまりが胸に残った。


「あ、時間も時間ですしご飯にしましょうか」

「めし!!」


私がご飯と言うとラズさんはまるで条件反射の如くばっと立ち上がって目を輝かせた。


「そ、そんなにです?」

「なんだかんだ言って一週間食べてなかったからな。この一週間で思い至ったが、どこの飯よりもお前の飯が美味い。誇張抜きでお前のが一番だ」


恥ずかしげもなく綴られた言葉に私は顔を背けるので精一杯だった。


「そ、そうですか。久しぶりですし、リクエストありますか?」


急に背を向けた私に、ラズさんは最初こそ訝し気な声を出したが、それも一瞬で、追い打ちと言わんばかりの言葉が背中越しに飛んでくる。


「ん-、肉食いたい。肉なら何でもいいや。なんでも美味いし」

「んぁーー...!分かりました!失礼します!」


痛い程の信頼が胸にぐさりと突き刺さったような感覚をどうにか誤魔化して、私は張り裂けんばかりの鼓動と熟した林檎の様な顔をラズさんに見られていない事だけを祈りながら、どたどたとキッチンに逃げ込んだ。




もうすっかり暖かくなってきて、丁度衣替えをした日だった。

最近の日課になりつつある師匠との軽い魔法の打ち合いをしていた所、玄関の方から年相応にしゃがれながらも元気のある溌溂とした声が聞こえた。

もしやと思い魔力検知で確認してみると魔力の質や量がそっくりなので例の方々が来たのだろう。


「あのーー!ししょーーー!」


私とラズさんは十五メートルほど離れたところで魔法を撃ちあっているため、声を張り上げて呼ぶと今までそこそこ、いや、かなりのペースで飛んできていた魔法がピタリと止んだ。

このまま大声で話すというのも億劫だったのでラズさんの方へ駆け寄ると、ラズさんはなんだなんだと怪訝な顔を向けてくる。


「どうした?トイ...じゃねぇや、喉乾いた?」

「いえ、前に消去の火の被害にあっていた人を助けたって話をしたじゃないですか」

「あー、あったな」

「多分ですけど今玄関先にいらっしゃるので顔出しに行かないと。困惑してそうなので」

「確かに。ここ俺の家だしな」

「はい。ってことでいきましょ」


ラズさんを引き連れて庭を抜け、玄関に向かうと見覚えのある顔が見えた。

「おーい」と声をかけてみると、二人してハッとしたようにこちらを向き、ティアさんは深くお辞儀を、おじいさんは被っていたハットを持ち上げ軽く会釈をした。


「こんにちは。お久しぶりです」

「こんにちは。先日の件は本当にありがとうございました」

「いえいえ、ご無事で何よりです。紹介しますね、こちらが私のお師匠様のラズさんです」

「えー、ラズです。弟子が世話になったみたいで」


お二方に紹介すると、ラズさんはどこかバツが悪そうな面持ちで挨拶をした。

置かれている状況もそうだが、どちらかと言えばラズさん本人の性質がそうさせているのだろう。


「トルウェルノ・フーディスと申します。お話は聞いてると思いますが、この度はありがとうございました。人生に悔い無しとそこまで考えたところで助かるなんてさながら二度目の人生の気分です」


おじいさんはトルウェルノさんと言うらしい。

言うだけ言ってわっはっはと笑っているところをティアさんに肘で突かれて黙らされている。


「娘のティアと申します。この度はなんとお礼を言ったらいいか...」

「いや、俺に言われても困ります。礼を言うならコイツに。ってことで」


ラズさんは挨拶が済んだとみるや目にもとまらぬ速度で中に引っ込んでしまった。

恐らくだが二人の前に顔を出すのも乗り気ではなかった所を、二人の意思を尊重して顔を出してくれたんだろう。


「あー、師匠人見知りなんですよ。すみません」

「いえいえ、ギフテッド様のお時間を頂いてしまって申し訳ないです」


ティアさんがとても申し訳なさそうに眉を下げているが本当に全く気にしないで欲しい。忙しそうなときはもちろんあるが、思っている数倍は家でぐうたらしているので、時間という観点では負担でも何でもないだろう。気疲れは多少あっただろうが。

そこまで話したところで、ティアさんの背中からひょっこりと女の子が顔を覗かせた。

背丈は私より少し低いぐらいだろうか。肩のあたりで切りそろえられた綺麗な茶髪にやや垂れ下がった同色の瞳がティアさんと同じく柔和でおとなしそうな雰囲気を醸し出している。


「あのー、その子は?」

「娘です、名前をフェリアと言います」

「フェ、フェリアです...。おじいちゃんを助けていただいて有難うございました」

「い、いえ。えっと......歳は私と同じぐらいですか?」


ティアさんが紹介すると、おずおずといった様に背中から出てきてぺこりと頭を下げた。

声は鈴を転がした様なするりと入ってくるものだが、少しおどおどとしていて自信なさげなのが些か勿体ない。


「今年で十四になります。マリエルさんは?」

「十三歳です。あ、私の事はマリエルでいいですよ。敬語も苦手なので大丈夫です」

「えっと...」


私の方が年下だったのでフランクに接してもらうように言うと、フェリアさんは少し狼狽した後、是非を求めるようにティアさんとトルウェルノさんを交互に見る。

ティアさんは静かにこくりと頷き、トルウェルノさんは歯を見せるようにニカっと笑いながらサムズアップした。

良くも悪くも性格がよく出ている。


「わ、分かった。マリエルも同じようにして?」

「分かりました。...あ、敬語はデフォルトなので勘弁してもらえると...」

「いつも敬語なの?初めて見たよ」

「あー、まぁあんまりいないかもですね?」


分かりましたと言ってから自分ががっつり敬語かつ敬語以外で喋ったことがほとんどないことに気づき、あわてて弁解するとフェリアは目を見開いた。

俯きがちだと分かりずらかったがこうしてみると目が大きい。

というか凄く可愛い。

肌は日焼けを知らないと言わんばかりに白く、シミの一つだってない。ぱちりと大きな瞳は綺麗なアーモンド形でさぞかし笑ったらかわいいのだろう。困った様に下げられた眉を見ていると、どこか守りたくなるような衝動に駆られる。


「この子は見ての通り引っ込み思案でな。魔学院でも友達と言える友達がいないと言うから心配なんじゃ...」

「お、おじいちゃん!」


生まれて初めての庇護欲に駆られて感慨に浸っていると、トルウェルノさんが腕を組んで困ったというように首を傾げて言った。

たちまちフェリアは耳まで赤くしてトルウェルノさんに詰め寄るので、先刻抱いた感情に一切の謬錯がないことを悟る。

いや待て待て、己の感情と向き合っている場合じゃない。

魔学院とはなんだろうか。フェリアが通っているという事は私と同じぐらいの年であれば同じように通うものなのかもしれない。

ここで何も考えず「魔学院って何ですか?」なんて言ってしまえば最悪の場合以南地区出身という事がバレてしまうかもしれない。

ここは慎重に立ち回らなければ師匠との生活が危ない。


「友達というなら是非なりたいです」

「まりえるぅ...」


少し考えた結果、そのあたりの単語にはなるべく触れないことにした。言い訳は逃げられない場合になれば考えればいい。


「ありがとねぇ。この子、こういうのも何なんだけど性格は凄く良いんだよ?ただ自分から人と関わらないから...」

「平たい言い方にはなりますけど、フェリアがいい人なのは分かります。人を見る目には自信があるんです」


正確には”見る目”ではなく”聞く耳”だが、細かいことはまあいいだろう。


「いやぁほんとうにありがとう。それだけが心配だったんだよ」

「おじいちゃん、最期の言葉みたいに言わないで」

「悔い無し...って痛い、痛いよ二人とも」


トルウェルノさんがまさにフェリアの言う通り遺言の様に言うと、ティアさんが頬を、フェリアが脇腹を引っ張った。

暫くグイグイと引っ張いた二人だが、満足したのか二人そろってため息をついてトルウェルノさんを解放する。

一息ついたティアさんが今度はハッとした顔になってトルウェルノさんに何やら耳打ちをした。

あまり言葉数の多い人ではないけれど、なんというか所作動が騒がしい。こういっては何だが動物のようで可愛らしい。


「...そうだそうだ。今日はお礼をしに来たんだった。前の件のお礼なんだけどね」

「はい」


これまでの飄々とした雰囲気から一転して、空気というか、存在感のような物の重みが一段増したトルウェルノさんに思わず背筋を伸ばして答えると、私が緊張したのを敏感に察知したらしいフェリアがトルウェルノさんの袖を咎めるように、くいと引っ張った。


「うち一応そこそこ大きな商会の代表をやっててさ。うちが商品を卸してる所のものであればこっちの利益分は全部値下げされる券作ってきたから良かったら使ってよ。あと前訊いた時にケーキ好きって言ってたでしょ?だからここいらのケーキを取り扱ってるところに頼んで食べ放題の券もついでに作ってもらったからこれも是非」

「.........わ、わぁ...」


トルウェルノさんはジャケットのポケットから、手のひら大の木版を取り出した。『フーディス商会賓客』と彫りぬかれていて、こう言っては何だが普段持ち歩くには少々気後れする様な雰囲気を醸し出している。

いやぁ。えー。うーん.........。

...やめよう。理解しようとするのは辞めよう。


「ありがとうございます。でもこんなにして頂いて良いんでしょうか...」

「何いってるのさ、マリエル嬢からしたらうるさい老いぼれでも商会員からしたら信頼できる有能で優しい商会長だよ?これは商会員からのお礼でもあるし、正直もっともっとしたいところだよ。けどマリエル嬢の性格的に渡しすぎると逆に他のもので返されそうだなと思って辞めたけど」

「おぉぉ、さすが商会長...」


長年商売の世界に身を置いているだけあって人を見る目は相当なもののようだ。

少ないやり取りでも必要な要素はしっかりと抜き取ったらしく、私の本質とも言える所まで見抜かれている。


「ですが一つ誤算ですね。私はとっても欲深いんです。なので一つ追加でお願いがあります」

「ほぉ?言ってごらん?」


何となく見抜かれているのが釈然としなかったのと、不安要素の解消として、私は一つお願いをすることにした。そんな私を面白がるようにトルウェルノさんは目を少し見開いてこちらを見る。

こんな形で担保しないと不安に感じるのは臆病だと笑われそうだが大事なのは結果だろう。


「フェリアは魔学院に通ってるんですよね?ラズさんにも魔法は教えてもらってますが、同じぐらいの魔法使いとしてフェリアからも魔法を教わりたいです」

「...だ、そうだけど?フェリア」


口に出してみるとやはり情けないが、つまるところ私はフェリアとの関係がこれっきりになってしまうのが怖かったのだ。

ギフテッドに師事している人間がまさか自分に教えを請いてくるとは思ってもなかったらしくフェリアは酷く狼狽していた。

まぁ無理もないだろう、私だって逆の立場ならそうなる。

にやりと、怪しげとも微笑ましいとも取れる顔で笑ったトルウェルノさんは、今度は反対にフェリアに何事か耳打ちした。

フェリアはトルウェルノさんの言葉を聞くと、驚いたように目を見開き、合点いったと言わんばかりに頷いた後、ほんのり頬を染めながら口を開いた。


「私でよければ教えられることは頑張るよ。私が分からないことがあったらマリエルも私に教えて?」

「やった!それじゃあよろしくお願いします」

「うん、よろしくお願いします」


トルウェルノさんが耳打ちをした時の反応でこれは、と思ったが、最終的には期待を裏切ることも無く了承してくれた。

喜びを隠そうともせずにぺこりとお辞儀をすると、フェリアも同じように腰を折った。

...同じ仕草だというのに何故かフェリアからは気品のようなものが溢れていて、育ちの差という言葉が一瞬頭をよぎったが、考えても仕方が無い事なので頭からさっさと追い出した。




「火ー」

「はい!」

「水ー」

「ほい!」

「雷ー」

「んーほいさ!」

「風ー」

「はい!」

「氷ー」

「よいしょぉ!」

「ん、いい感じいい感じ。練習の成果アリってとこだな」


ラズさんから全属性の魔法を一通り教えてもらった私は、それらをより早く正確に出す練習をしていた。

ラズさんが属性の掛け声と供に全く別の属性の魔法を使い、私は発動した魔法に込められた魔力量を読み取り、言われた属性の魔法を使う、というものだ。

ラズさん曰く、魔力量を見極める練習をしつつ、別の事を考えながら魔法を出す練習にもなるので一石二鳥との事。

実際、この練習を始めた当初は言われた属性を出そうとしても、ラズさんが実際に出した計測用の魔法に思考を引っ張られて失敗してしまっていた。

この脳みそを分けて考えるようなやり方はどうにも私は苦手だったらしく、ラズさんに師事して以来、尤もお世話になったと言って差し支えない。

故にようやく出来てきた事とラズさんに褒められたことが嬉しくてラズさんの腕に飛びつくと、キッチリ体は離してくるものの、わしわしと頭を撫でてくれた。


「へへー」

「あー、でもあれだな。雷の発動だけちょっと遅いっていうか、つっかえてる?感じあるな」

「そうなんですよ!」


至福のなでなでタイムを余すことなく謳歌していると、ラズさんがまさに悩みを抱えていた部分をついてきた。

つっかえている感じというのもまさにその通りで、雷の式だけ魔力が滑らかに入っていかないのである。

ぐいぐいと腕を引っ張って、「まさにそれで困ってます!!」と表現すると、ラズさんは宥めるように頭を二度撫でた後、空気を換えるように手を打った。


「よし、したら俺が見本を見せましょう」

「おぉ」

「ま、その前に飯かな」

「え!?もうそんな時間ですか?」


弾かれたように空を見上げると、お日様がギラギラ輝いてるのはほぼ真上ではないか。

そうと言われれば確かにお腹が空いてきたような気がしなくもないような。


「わぁ...じゃあ、戻りましょうか。何食べたいですか?」

「んー、肉。さっぱりしてたら尚良い」

「了解です」


私は冷蔵庫の中身を思い出しながらラズさんと供に家に戻った。


庭から戻り、手洗いうがいをしてエプロンを着けると、端の方がほつれているのに気づいた。

ピンクのダリアが描かれた少しだけ大き目なもので、先日ラズさんからもらったお小遣いで購入したのだが、どうやら生地が弱かったらしくもうほつれてしまった。一瞬買い直す事も考えたが、デザインがとても好みなので後で周りを縫い直すことにした。

さて、と冷蔵庫を開けると閑散とまではいかないまでも容量には多分に余裕があった。そろそろ買い出しに行かなければ。

頭のメモに書き足しつつ中を見ると、鶏のもも肉が目に入る。

たしか昨日のハンバーグで使い切らなかった玉ねぎがあったはずなので、ラズさんの意向も加味して、それらで油淋鶏を作ることにした。

醤油酒みりんで下味をつけた鶏肉に片栗粉をまぶして揚げ、並行してみじん切りした玉ねぎに醤油、酢、砂糖、みりん、はちみつを馴染ませてたれを作る。玉ねぎを細かく刻むタイプと粗みじんにするタイプの二種で少し悩んだが、玉ねぎの触感を残しつつ食べやすさも確保したかったので目分量で半分ずつに分けることにした。こうすれば大きいかけらが乗っているところであれば触感を楽しめるし、全体的に細かいものも乗っているのでわざわざ玉ねぎを乗せなおしたりなんてことを防げるはずだ。

揚がった鶏を引き上げて切り分けてみると、ザクザクと心地よい音が鳴る。どうやら揚げ時間は完璧だったらしい。

汁物は味噌汁にするべきか中華スープにするべきか悩んだが、食べ合わせを完全に度外視して、個人的に味噌汁の気分だったので、いつもと同じように味噌汁を作り、油淋鶏とお米と供に食卓に出した。

ソファに座っていたラズさんは食卓にお皿が置かれた音を聞くなり立ち上がって私が一度に持っていけなかった分とコップを持ってきてくれた。


「おー、うまそう。なんて料理?」

「あれ、師匠食べたことないんです?」

「初めて見た」


どうやらラズさんは油淋鶏を知らないようだ。

食事に関しては博識なイメージが勝手にあったので少し意外だった。


「油淋鶏って言って、揚げた鶏の上にさっぱりした玉ねぎのソースがかかってるものですね。確か基は北東の国の郷土料理だったんですが、こちらでも割とメジャーになりつつある気がします」

「へぇーー」

「まぁ、味に関しては食べたら分かりますし、冷めないうちにどうぞ」

「ん。いただきます」

「いただきます」


いただきますとは言いつつもラズさんが一口目を口に入れるまでは私は食べない。

師弟の上下関係がそうさせているわけではなく、もっと単純に、ラズさんの反応が楽しみなのである。

毎食毎食おいしそうに食べるものだからついこちらも反応が気になってしまった結果がこの習慣だ。

ラズさんが料理を口に運ぶのを少しだけ緊張しながら見守っていると、びっくりするぐらいの量を一口で食べたラズさんは幾度か咀嚼した後、目を少し見開き、ばっとこちらを見た。


「ごふぇ、まひふあふぃ」

「ふっ、ははは!飲みこんでから喋ってください」


今回の油淋鶏は余程お気に召したらしく、珍しく飲み込む前に感想を伝えてきた。

ふがふごと恐らくおいしいという旨を伝えてくる様子が小さな子供のようで堪らずくすくす笑っていると、これまたびっくりするぐらいの速度で飲み込んだらしいラズさんが「これ、めっちゃ好き。うまい」と今度は明瞭な声で感想を言ってくれる。今度は別の感情が私の口角を目いっぱいに持ち上げた。

頑張って作った料理を美味しいと言って食べてもらえる。料理をしているとこれが何より嬉しいのだ。


「なら良かったです。好きなものリストに入れておきますね?」

「頼むわ。毎日でも食える」

「偏るのでダメです」


がつがつといつも以上のスピードで食べ続けるラズさんを見て、温かいはちみつを飲んだ時のように、心が芯の芯から温まっていくのを感じながらも、これで食べるのが遅れると今度は私が観察されるので程々にしてこちらも食べ始めた。


ラズさんより少し遅れて食べ終えた私は食器をまとめてキッチンに持っていこうとすると、横からラズさんにお皿を搔っ攫われた。


「俺がやっとくから座ってな」

「いえ、私も手伝いますよ?」

「じゃあ箸とコップだけ頼む」


―ゴンゴンゴンゴンゴン!!


二人で後片付けの分配を決めていると、突然扉が叩かれた。

途端にラズさんの顔がほんの少しだけ引き締まり、持っていたお皿を机に戻すと「申し訳ないんだがやっといてくれるか?多分緊急だ」と切迫したように言うだけ言って、どたどたと小走りに玄関に向かって行った。

扉が叩かれる音は恐らく私以外の人でも聞いただけで状況がひっ迫していることが分かるものだったのでギフテッドに頼らなければいけないような問題が国内で起こってしまったのだろう。

この数か月間で任務と言って家を空けることは多々あれど今回のようなことは一度もなかっただけに少しだけ心配になる。

さっさと片付けを済ませ、ソファの上で言い知れぬ不安を抱えていると、話し終えたのかラズさんが帰ってきた。


「なんでした?」

「西の方で魔獣が異常発生したんだとよ。量が量だから俺に話が回ってきたらしい」

「なるほど」

「で、提案なんだけどさ」

「はい」

「一緒に行かね?任務」

「...はい?」


西の地域で魔獣が大量発生し、内容は対応にギフテッドが駆り出されるような物で、それも緊急の案件。そこに私が同行と言うのはどういった了見だろうか。

冗談抜きに足手まといになる未来しか見えない。


「お仕事見学ってとこだな。雷の魔法がうまくいって無いみたいだしお手本を見せてやる」

「あの、私が行ってもいいんでしょうか...その、足手纏いにしかなりませんが」

「大丈夫。ギフテッド様を舐めんなよ?小遣い稼ぎだ」


自分の力量が圧倒的に足りない事実にじわじわと無力感が広がっていた私に、ラズさんは不敵に笑って見せた。


―その笑顔に、私はただ、ただ焦がれた。




ガタゴトと整備のされ切っていない道を車輪が撫でる音だけが馬車の中に響いた。

私はラズさんと供に以北地域西区で異常発生した魔獣の対処に向かっている。

緊急の事だったので開いている馬車が少なかったらしく、中でもいいものを持ってきたそうだが、お世辞にも良いとは言えない座席の上で何時間も座り続けていると体の節々が痛んだ。

隣のラズさんはと言うと呑気な顔でこくりこくりと舟を漕いでいる。

昨日は何やら難しい顔で本を読んでいてあまり寝ていないようだったのでその反動が来ているのだろう。

にしたって恐らく国の有事といって差し支えない状況下で、その対処を任された身でありながら居眠りをするというのは図太いとしか言いようがないが。

お隣の大物への呆れと自分に向けた俯瞰を込めて一つため息をつくと、規則的に鳴っていた車輪の音がだんだんとそのペースを落としていった。

やがてそれは完全に停止し、御者が目的地に着いたことを伝えてくれた。

ラズさんの腕を引っ張りながら「師匠!着きましたよ!」と大きく揺さぶると、少しの間は焦点の合っていない目でどことも分からない場所を見ていたが、やがて意識が浮上してきたようであくびをしながら「んじゃ、行きますか」と音が鳴りそうなほど重そうに腰を上げた。


馬車の止まった場所から少し歩いた小高い丘から件の地域を見下ろすと、そこは一帯の森林であったがただ事ではない雰囲気と何かが一体になって移動している事が分かる。

恐る恐る魔力検知で確認してみると夥しいほどの魔獣が確認できた。

それは点と点が重なりすぎた結果、一面を塗りつぶしたように映り、視界に映る情景は森だったが魔力検知から見える景色は正しく魔力の海だった。


「さて」


ラズさんは状況に飲まれ思考が留まらない私と対照的に、こういっては何だがあまり物を考えていないようだ。

しかし、それは全くもって愚かなものではなく、私のそれが未経験からくる焦りだとすればラズさんのそれは豊富な経験と絶対的な自信に裏付けられた余裕だった。

ラズさんはラズさんで状況を確認し終えたらしく、然るべき魔法を撃つための魔力を練り始めた。


「魔法っていうのはそれぞれの属性で形状に関わらず特性を持ってるんだ。それはその属性を極めれば極めるほど顕著に表れる。火なら”破壊の不可侵”。水なら”侵入と支配”。風は”指向性の指定”。氷は”停止の強制”。そんで雷は”空間無視の破壊”。火が”一度発動すれば何があっても止まらない不可侵の破壊”だとすれば雷は”発動した時点で破壊が開始し終了する不可避の理不尽”ってとこだな。んで、これはどのレベルで魔法を出すときもこのイメージが在るか無いかで雲泥の差がある。ってのも魔力の入り方にまんま関わってくるからな。そのテンポみたい物を掴むにはこのイメージが不可欠ってわけ」

「なるほど」


私に説明する傍ら、ラズさんは目を見張る速度で魔力を集めていった。

それはいつかに私の魔力をテストする目的で見たものとは桁違いのもので、滑らかさ、緻密さは一切衰えることなく、前回の何倍という単位で集積させていく様は、魔法を扱う者、ひいては魔力を持つ物にとって根源的な恐怖を呼び起こす物だった。

あっという間に臨界点ギリギリまで魔力を集めたラズさんは「よく見てな」と一言。おそらくここから雷の魔法に加工していくから見て盗めという事だろう。

言われた通り、全身の魔力を感知できるもの全てを集中させて注視すると、雷の式の展開までは私と何ら変わりなかったが、魔法陣に魔力を入れる作業が恐ろしく早いことに気づいた。

ここに関してはいつもの緻密さは也を潜め、一度に入れられるだけの魔力を入れた様に見えた。

これが恐らく雷という属性の持つ特性に基づいたイメージを反映にした結果なのだろう。

魔力は現実世界に干渉しないはずだったが、ラズさんによって加工された魔力は内包された破壊力に見合った威圧感のようなものを放っていて、荒れ狂う雨の音や吹き荒れる風の音が幻聴として聞こえた。

両の手をローブのポケットに突っ込んでいたラズさんだったが、私が畏れているのを見ると、少し相好を崩した後、安心させるように優しく私の頭を撫でる。


「お前、聴覚過敏だろ。耳塞いどけ」


確かラズさんに聴覚過敏であることは明かしていなかったはずだがこの何か月かを一緒に過ごす中で気づいたらしい。

言われた通りに耳をしっかりと塞ぐと、ラズさんは私の頭を撫でていない方の手を持ち上げ、短い呟きと供に握った。


「ジャッジメント」


―ガァァァァァァァン!!!!!


耳を劈く様な鋭い破壊の余波が響いた後、ゴロゴロと追撃の様に薄い電流が森全体を駆け巡る。

ラズさんの使った恐らく名を”ジャッジメント”という魔法は、眼下に広がる、いや広がっていた森の端と端に巨大な魔法陣を展開し、その間隙を一瞬で全て塗りつぶした。文字通り雑草の一つも残さずに。

魔法を少し齧った人間として、これと同じ事とは言わずに、これの半分の事が出来る人間がいるかと聞かれれば、答えは絶対にノーだ。

これを言わせるのは知識ではなく、むしろそれは思考ですらなく、専ら感覚なのだろう。

今まで漠然とラズさんの、ひいてはギフテッドの実力と言うものは頭一つ抜けているという事を認識していたが、改めて見てみると、むしろなぜ私如きが無茶苦茶だと呆れられなければいけないのか問い詰めたいレベルだ。


「よーし。終わり終わり。コツは掴めそうか?」

「...はい。師匠の言ってることもなんとなく分かりました」

「なら良かった。...折角ここまで来たんだし観光してから帰るか?なんか予定ある?」

「いえ!無いです無いです!!」


なんとラズさんはこのまま観光をするらしい。

西区に関してはあまり話題にも上がらなかったので全くの未知だが、ラズさんと周るのならただの原っぱでも楽しいし問題ないだろう。

むしろここまでメインの目的があっさり終わってしまうと、魔獣の掃討にかこつけて遠出したかっただけなのではとすら思えてくる。


「んじゃ、今日はもう遅いしどっかの宿屋に泊まって、明日観光して満足したら帰るって感じでどう?」

「お、おとまり...!」

「うん。良さそうだな」


お泊りという事はもう半分ぐらい旅行なのでは?

いや、別に毎日同じ家で寝ているわけでそれそのものが特別かと言われれば無いに等しいが、事実として特別という事と特別感があるかどうかというのは全くの別問題である。

旅先でお泊りと言うのは特別感という観点で言えば、百点満点だろう。

私は無意識にわくわくとかんばせを躍らせていたらしく、ラズさんが微笑ましそうな優しい顔で笑った後、なぜか少し困ったように頭を撫でた。

何故そんな顔をするのかと聞きたかったが、無音が突然耳を刺し、声を発することは叶わなかった。


「宿、探し行くか」

「はい」


ラズさんは満足したのか再び両の手をポケットに入れ、薄暗い道を歩き始めた。

いつもならすぐ隣を体が触れるか触れないかといった距離で歩くのだが、今日は何故だか隣に行くのがはばかられて、私はラズさんの隣からほんの少し後ろを歩いた。




「いやぁー、今日は混んでててねぇ...。大きめの部屋一つなら開いてるんだけどどうだい?」

「あー、や、それなら―

「大丈夫です女将さん!それでお願いします」

「なら良かった。どこも混んでたでしょう?なんでも西の森林地帯で魔獣の群れが出たとか何とかで避難した人がごった返してるんだよ」

「な、なるほど」


丘からしばらく歩くとそこそこ大きな町が見えたのでそこで一泊しようと宿を探したのだが、どこも今日は部屋が余ってないらしく私たちは暫くとぼとぼと宿を回った。

五件目で漸く部屋が開いていたので、断ろうとしたラズさんを黙らせ、了承を伝えると女将さんが何故これほど宿が混んでいるのか教えてくれた。

森の魔獣は今しがた隣のギフテッド様が掃討したわけだが、事はそう簡単なものではなく、氾濫しそうになった川から避難するのと同じように、危険があった時点で民衆は避難を開始したのだろう。

実際何かの問題でラズさんの到着が遅れていれば近くの町など簡単に踏みつぶされてしまうだろうし、前もって行動することは正しい判断だと言える。

そのためこの宿が取れない状況も最終的に一部屋しか取れなかった現状も致し方ない事と言えるのだが、隣のラズさんは苦虫を口いっぱいに頬張って味わったような顔をしている。

ラズさんの気持ちが分からない程、私も愚かじゃない。ただ、『そんなに』とは思ってしまうし、少しだけ、泣きたくなるような寂しさが胸に広がった。


「ご飯はどうしましょう?朝は出すとして、今夜はまだ?」

「はい。夕食も頂けると嬉しいです」

「分かったわ。時間になったらお部屋に持っていくわね」

「お願いします」

「じゃあこれ部屋の鍵ね。ゆっくりしていって!」

「有難うございます。...師匠、行きましょう?」

「あ、あぁ」


部屋に入ると大き目という名に恥じない広々とした空間が私たちを迎えた。

一つ懸念があるとすれば、それも大き目ではあるもののベットが一つなことだろうか。

これは説得次第でどうにかなるのだろうか。私は一向に構わないが流石にラズさんが嫌がりそうだ。


「なぁ、やっぱ俺別の宿探してこようと思うんだが」

「一緒って言う訳にはいかないんですよね...?」

「...いかないだろ」

「...まぁ、そうですよね。寂しいですけど、師匠が嫌なことを強要したく無いですし...」

「...弟子......」


あぁ、いけないな。

ラズさんがここで他の宿を探しに行くのなんて分かっていたのに。

ラズさんにとって一番不味いことは私の寝床が確保できない事で、ここでラズさんに付いていくなどと言えば、いよいよそれが現実味を帯びてくる。私もそこまで不出来ではないからそれはしなかった。

けれど、離れたくないという事がどうしても口から出てしまったし、ドアの前で弱ったように立っているラズさんを見るに、顔にもそれがありありと現れてしまっているのだろう。

良い子でいたいと思うと同時に、その根本にあるラズさんへの好意が自分の感情を全て隠してしまうことを許さなかった。


「いや、あの、ごめんなさい。我が儘言って」

「...お前は良いのか」

「良いも何も....むしろ一緒にいてほしいです。私がお願いして師匠が頷いてくれるのなら幾らでもお願いしますよ」

「そうか...」


ここで私は引くべきだったのだろう。『良いのか』と聞くラズさんに、『まぁよく考えてみればダメかもですね』とちょっと茶化してしまえばこの場は丸く収まった。どこまでもいう事を聞かない口と表情と心に、私は酷く虚しさを感じた。

私はなにも、平時からこうではない。

最近のラズさんは時折距離を感じるというか、ふとした時に感情をすっぽりと覆い隠してしまうのだ。

それが何に基づいて行われているのか私には知る由もなかったが、”ここまで”と境界線を引かれているようで寂しかった。それを認識するたび、心の中で言い知れない無力感というか、『またこれか』と距離を感じて、ほんの数瞬前に自分がどんな風に笑っていたかも思い出せなくなってしまう。

その心境を知ってか知らずか、ラズさんは私の馬鹿げたおねだりを一蹴しようとはしなかった。

だからこそ、この与えられた時間で私から身を引くべきと言うのは嫌と言う程分かったが、息が詰まって、喉が詰まって、いや、そうと思い込むほどに叫ぶ心が何より作用して、ただの一つだって私の口から言葉が出ることは無かった。


「あー、今日は疲れたしな。それに、開いてないもんは仕方無いな」

「...うぅっ......」


耐えかねる沈黙を破ったラズさんは何より優しく甘い音で、私の我が儘を許容した。

その優しさが自分の身勝手さをより強調させて、自分のやるべきだったことを出来ずにラズさんに甘えてしまったことが何より情けなくて、気づけば一粒、また一粒と涙が頬を伝っていた。

てっきりラズさんは私が泣き出してしまえば困り果てて、慌てると思っていたが、以外にもラズさんは何も言わず隣に来て、背中を擦るだけだった。

こちらに来るラズさんの足音は、まるきり困ったという音だったが、その感情の矢印はこの現状ではなく別の何かに向けられているようだった。


ぱちりと目が醒めました私は、それとほぼ同時にベットの上を転げまわりたい衝動に駆られた。

言わずもがな隣で寝ているラズさんの事である。

昨日、ラズさんの善意に甘えてしまった結果、夕食を取った私たちは同じベッドで寝ることになった。

勿論、ラズさんはそっぽを向いて寝てしまったが、これに対して不満などあるはずもなく、半ば強要してしまった事への押しつぶされそうな罪悪感と、それでも尚衰えることのない多幸感が私の心中のほとんどを占めていた。

私の感情に限って話をすれば、添い寝なんて夢の様な経験だったし、最近のラズさんから感じていた距離感のような物が取り払われて些か晴れやかと言うほかない。

しかしどの様な事にも倫理面と道理面があるように、今回の添い寝は『私が満たされました』だけでは終われない。というか終わらせてはいけないのだ。

私は確かにすっきりしたし非常に幸せだったことをここに繰り返すが、その分だけラズさんには無理をさせてしまった事はしっかりと向き合っていかなければいけないだろう。でなければ人間として対等でいられなくなるというか、片方が我慢した分だけ片方が楽になるというのは対人関係の常だが、その収支がどちらかに大きく傾くことは依存そのものであり、私が考える良い人間関係とは程遠い。

つまるところ何が言いたいのかと言えば、私はこの幸せに感謝し、どこかでキッチリ返す必要があるという事だ。

まだ早朝ではあるものの、季節柄少しだけ蒸し暑い部屋で、隣に横たわってすやすやと寝ているラズさんに目を向ける。

この人には貰ってばかりだ。

命を救ってもらって、生きる場所と理由をもらって、技術をもらって、楽しい日々をもらって。

凄く前から薄々感じていたが、恐らく私は何を差し出してもこの恩を返しきることはできないのだろう。

頭ではそうと分かっているのに、どうしてか私の体は我が儘になっていくばかり。


「師匠...私は、どうすればいいんでしょう」


シミ一つない白皙をさらりと撫でると、感覚で意識が浮上してきたのか長いまつげが細かく痙攣し、うっすらと瞼が持ち上がった。


「...でし?朝か...」

「いえ、まだ早いのでもう少し寝ててもいいですよ」

「ん...」


ふにゃふにゃと呂律の周り切らない様子は、いつものだらしないながらに威厳のある姿とは似ても似つかない。

抱きしめて少し硬めの髪を心ゆくまで撫でたいし、頬や手にほんの軽くでいいから口づけをしてしまいたかったが、そこは私の最終ラインだ。

冷え切った夜が理由のない孤独を想起させるのがごくごく自然であるように、蒸し暑い朝というのは思考が飽和して感受性が振り切れる。

このままいたら思考の渦に絡めとられそうだったので私は切り替えるようにばっと立ち上がり、軽く身支度して外の空気を吸うことにした。




ぼちぼちいい時間になってきて、女将さんが持ってきてくれた朝食を食べた後、私たちはこれからの方針を決めることにした。

因みにラズさんは案外いつも通りに接してくれている。その対応に『助かるなぁ』なんて考えた所で、ラズさんが私を気遣って何でもない様に振る舞っている事に気づき、私はラズさんの思惑とは裏腹にげんなりしていたが、外の空気を吸って幾らか思考が晴れたのが作用して、切り替えるのにそれほど時間は要さなかった。

ふかふかのソファに腰掛けながら、私たちはコーヒー片手に会議を始める。


「一旦大きな町まで行ってめぼしい物探すか先に観光用の地図でも買って行きたいところ絞るかどっちのがいい?」

「うーん...」


正直どちらにもメリットデメリットある。

先にパンフレットを買って計画を立てれば効率的に観光ができるし、良さそうなお店を見逃す確率がぐっと減るが、全く知らない土地を観光する訳だし折角なら行き当たりばったりを楽しみたいといえばそうだ。

暫く考えても結論が出そうになかったので、結局私はラズさんに丸投げすることにした。


「師匠はどっちがいいですか?」

「あー、まぁ調べてもいいけど、その場その場で行きたいとこ行く方が好きっちゃ好きかなぁ」

「ですよね!じゃあ行き当たりばったりでいきましょう!」


長考の末、お師匠様の鶴の一声で行き当たりばったり旅が決定した。


宿屋を後にした私たちは乗合馬車に乗って女将さんから聞いた主要都市に向かった。

早朝だというのに程々に混んでいる馬車に揺られること少し、窓の外で流れていく立派な町並みをぼけっと眺めていると、馬車は段々と速度を落とし、やがて停止した。どうやら目的地に着いたようだ。馬車から降りると、ラズさんの町ほどではないにしろ、人の営みがわいわいとした喧騒として聞こえてきた。

街の入り口は石造りの大きな門が立っており、守衛が左右に一人ずついるものの、街に入るにあたって料金を取っていたり身元の検査をしているわけではなく、単に入った人数を数えているだけのようだ。

すれ違いざまに軽く会釈すると、眉を上げて少し怪訝そうな顔をしたものの同じように会釈を返してくれた。

どこか可笑しかっただろうか、と体を見下ろし、視界の端に垂れ下がってきた髪を見て納得した。何かと忘れがちだが、この白髪が目に惹いたのだろう。ここまで気にされると、どこかで悪さをしようものなら間違いなく窮屈な思いをしそうだ。まぁ、多分無いとは思うけれど。

門を潜るとかなり奥まで目抜き通りが伸びているのが分かる。

横幅は一般的な大きさの馬車が横列に並んでも尚余裕のある広さだが、不思議と町の中では馬車は使われていないようで人々が自由に道を歩いている。

さらに目を引くのは通りの両脇に軒を連ねているお店の形態で、ラズさんの町では物件を使った店舗型が主流なのに対して、こちらの町は露店として商売を行うのが主流らしい。


「おぉ、こりゃまた面白いとこだな」

「この街だと露店が一般的なんですね」

「な。うちの町だと祭りの時ぐらいしか露店は見ないから新鮮っちゃ新鮮だな」


私ほどではないものの、ラズさんもこの町並みには心躍るようでいつもよりも声のトーンが一つ高いし、目はあちらこちらと好奇心に映ろっている。

ゆっくりと通りを進んでいくと、露店は恐らく観光客用の物珍しい食べ物やそれこそお祭りのような物もありながら、ここで暮らす人用の日用品や果物などを売っている物もある事が分かる。

私たちは宿屋でご飯を食べたのでメインになるような重い物こそ食べられないものの、軽食ならばラズさんは無いに等しいだろうし、私に関してもお菓子は別腹だ。折角来たのだからしっかりと楽しみたいところである。


「師匠!あれおいしそうじゃないですか?」

「どれだ...あぁ、焼き菓子か。いいねぇ」


私がまず目を付けたのは焼き菓子の露店だ。

個包装になったドーナツやフィナンシェ、アップルパイなどが売られている。

恐らくお土産用にいくつかがまとめて箱に入っている物や、焼き立てなのか包装されずそのままトレー置いてあるものもある。

私が中でも特に目を引かれたのは手のひらに載ってしまう程のサイズのタルトだ。値札を見るとブルーベリータルトと書いてある。

先ほどこのお店からブルーベリータルトを買っていた少年とすれ違ったのだが、一口食べた時の音が何とも子気味良い音で、生地がサクサクだろうと目星をつけていたのである。


「ブルーベリータルトを一つ...いや、やっぱり二つください」

「はいよ。純銅貨五枚ね」


持ってきていたお小遣いを言われた分だけ出すと斜め後ろから何とも言えない視線を感じたが、ここで使わなければ何のためのお小遣いなのか分からなくなる。


「マドレーヌ一つ」

「純銅貨二枚」


どうやらラズさんも買うことにしたらしく、店主さんからおつりとマドレーヌを受け取っている。

私は出来立ての包装されていないものを買ったので紙袋に入ったタルトを一つ手に取ってみると、大きさに見合わず案外ずっしりしていることが分かる。

一口齧ってみるとやはりタルト生地はサクサクで少し油断するとぽろぽろと欠片を溢してしまいそうなほどだった。

中はくどすぎない程度にブルーベリーのジャムが入っており、程よい酸味が日差しの照り付けるじりじりとした暑さを幾らか緩和してくれた。


「別に俺が一緒にいるんだし自分の金で買わなくたっていいんだぞ?」


マドレーヌをすでに食べ終えたらしいラズさんが、諭すように言った。

私は食べかけていたタルトをサクサクと食べ終えた後、口を開く。


「いえ、自分のお金で食べるものは美味しいです。勿論師匠に買ってもらったものでも美味しいですけど、やはりお小遣いで買って食べるというのはまた別の良さがあります」

「ふーん。なるほど?」

「それに、こういうときに使わなかったらいつ使うんですか。基本一緒にいるのに」

「ま、まぁ、それもそうか」


前に買ったエプロンなどの生活で使う者ならまだしも、こういったその場その場でお金を消費していく様な場所には基本的にラズさんと一緒に行くので、ここで使わないと気づけば莫大なお金が溜まっていた、なんてことになりかねない。

それはそれで悪い事では全くないのだろうが、貯金と言う選択肢が現れた瞬間に、節制しようと思えばいくらでもできてしまう性質の私は本当に最低限しか使わなくなるだろうし、それはラズさん側からしても本望ではないだろう。と言うわけでお小遣いは惜しみなく使うことにしたのだが、如何せん額が大きかったのでどうしたものか。

勿論の事多すぎるとラズさんに抗議したのだが、曰く『生命線を支えてもらってる手前これぐらいは当たり前』『遠慮すると思って金額を抑えたけど本当は倍でも足りないぐらいだ』と熱弁され、結局私が折れてしまった。

私の家事は料理に限った話ではないが、もらったお小遣いを日数と三食分で割ると一体どこの高級レストランだと言わんばかりの金額が出てきてしまって一旦見なかったことにしたのは良い思い出だ。良い...?良いか...?いっか...。

仕方あるまい、と半ば諦念の様な気持ちで思考を放棄し、二つ目のタルトをしゃくしゃくと齧りながら歩いていると、今度はラズさんが気になるお店を見つけたようだ。


「ちょっといいか」

「良さそうなもの見つけたんです?」

「あぁ。あれ」


ラズさんが指を指した方向には団子と書かれた軒が見える。


「だんご...?」

「ん?団子知らないのか」

「聞いたことないです」


てっきり西区の特産品だから知らないのかと思ったが、どうやら普通に流通している物らしくラズさんは意外そうな顔をしている。


「なんか、もちもちしてて...伸びる...いや、なんていえばいいんだ...?ま、まぁ多分好きだと思うぞ」

「ふふっ、なんかふわっとしてますね?」


そういえばラズさんは美味しい美味しいとはよく言うものの、詳細な感想はあまり言わない。

味の言語化は案外苦手なのかもしれない。

それはそれとして良し悪しのセンスは抜群にいいので多分好きというふわっとした勧めも恐らく信頼していいはずだ。


「醤油を二つ」

「はーい!もうすぐ焼きあがるので少しお待ちください!」


ラズさんは自分が勧めたからと言って私の分まで買ってくれた。

これに関しては不自然な理由でもなく、前後のやり取りで曇ってしまっているだけで恐らく純度百パーセントの善意なので素直にありがたく思うことにする。

髪を一つにまとめた元気な店員さんから一つずつ串を受け取って、串で食べながら歩くのは危ないからと二人で日陰の座れる場所に移った。


「なんか可愛いですね」

「かわ...かわいい...?」


渡された串には平たい円形の団子が三つ刺さっている。

露店では火のついた炭をぐるりと囲うように突き刺さっていて、構造上横の物とくっついていたのだが、店員さんが渡す際に団子同士でもちっと剝がされていたのを見たのだ。

形も相まって非常に可愛らしい。

眉を寄せて団子の可愛さを飲み込めないでいる様子のラズさんを尻目に一口齧り付いてみると、外側は少し焦げた醤油とかりっと香ばしく焼かれた表面が歯に当たり、内側はそれらしくもっちりとした触感が感じられた。触感の楽しさもさることながら、外側に塗られた醤油がただの醤油ではないようで、ラズさんの言った通り、私好みの和風な味に仕上がっていてとても好みだ。

中がもちもちで大きさに見合わずかなりの食べ応えがあったので、少々苦労しながらももきゅもきゅと食べ進めると、隣から満足げな嘆息が聞こえた。

どうやらラズさんは喉を詰まらせるという概念を持たないらしい。


「流石にそろそろ苦しいか?」

「ん......んっ!?」


ラズさんが問いかけて来たので答えようと口の中にあった団子を無理くり飲み込もうとすると、どうやら許容量を超えていたようで喉に詰まってしまった。

何とか魔法で水を確保して飲み干せたが、正直なところ相当危なかった。

団子は油断すると危ない。危ない。


「おい、大丈夫かよ...」

「けほっ...ふぅ。はい、何とか」

「忠告しなかった俺も悪いけどさ、気を付けてくれ。危なっかしい」

「すみません」


どことなく抜けているところがあると自他ともに認めている私だが、時折こうしてラズさんの心臓をヒヤリと撫でることがあるのでラズさん曰く目が離せないらしい。

場面が場面ならきゅんとするセリフなのだろうが、この場合は単に心配されているだけなので申し訳ないという気持ちで一杯である。

へへ、と後頭部を撫でると、ラズさんは呆れかえった様にため息をつき、立ち上がった。


「食い終わったなら行くぞ。そろそろ食い物以外にも何かあればいいけど」

「そうですねぇ。流石にちょっと苦しくなってきました」


ラズさんに倣って私も立ち上がって横に並ぶと元の大通りに向かって歩き出した。


その後、いちご飴ならほぼ食べていないような物という暴論が一致したため、露店でいちご飴を購入し、ぱりぱりと食べながら歩いていると、不意に大量の水が岩に打ち付ける音が聞こえた。


「師匠。ここら辺ってもしかして海あります?」

「あぁ、そういえばあるな。北西の海岸は確かにこの街に面してるかも」


もしやと思いダメもとで聞いてみるとどうやら予想は的中していたらしい。

古郷の村はもちろんの事、旅で回った町にも海に面している場所はなかったので、私は海を見たことがない。

海と言う言葉自体はよく物語にできたので知っているし、写真を見たことがあったので全く知らないというわけではないものの、やはり実際に見てみたいという気持ちは少なからずある。

というのがまるきり顔に出ていたようで、いつもの如く目ざとく気づいたラズさんは最早提案するでもなく「どこにあんだろ」と既に行く気である。


「あの、方向なら分かりますし、多分歩いてれば着くんじゃないですか?」

「え、お前もう聞こえてんの?」

「はい。そりゃもうざざーっと」

「マジか」


ラズさんは私の聴覚過敏について気づいていたようだが流石にここまで聞こえると思わなかったのだろう。

この際だし、しっかり話しておいた方がいいかもしれない。


「私、聴覚過敏の中でも特に聞こえる範囲が広い方なんですよね。高い音とか大きい音に敏感な方もいますけど、私の場合は距離に全振りって感じです」

「へぇーー。どんぐらい聴こえんの?」

「詳しい数値は分かりませんけど...そうですねぇ、魔法院の門から入口ぐらいの距離であれば、こそこそ話まで聞こえますよ」

「うげ。それ苦労しないのか」


私が聞こえる範囲についてざっくりと教えると、それに付いてくる面倒ごとや不便が一度に考え付いたのか、顔の前で手を振って辟易したような顔をしている。


「まぁ生まれた時からそうだったので特別なにかを感じることは無いですかね。逆に聞いてしまって申し訳なくなったりはしますが」

「ほーん」


ラズさんは少し考えた後、「できた人間ってやつか」とぼそりと言った。




「ししょー!ししょー!海です!!キラキラです!!」

「分かった分かった。分かったから落ち着け。引っ張んな」


耳の効く私が先導する形となり、ラズさんを引き連れて音のする方向へ歩くこと約半刻。

眼前には地平線まで続く大きな大きな湖。所謂ところの海が広がっていた。

写真で見た海はそれこそただひたすらに大きいだけの湖という印象を拭えなかったが、実際に見てみると正しくそれが紙上の知識だったことが分かる。

横幅は視界に全く収まらず、奥行きは地平線のその奥の奥まで続いているのだろうと本能で分かる。

水面は陽光を乱反射してキラキラと煌めき、只の一瞬だって同じ様相に戻ることは無く、暴力的な空間の化身であるはずのそれは、その一過性をもって普段何気なく消費する時間と言うものをありありと感じさせた。

バラバラに割れてしまったガラス片が光を反射する様を綺麗とは思いつつ同量の危機感を感じるように、眼下の流動的なガラス片は神秘的な美しさと、それこそ表面張力で保たれているかのような不安定な危険を孕んでいるように思える。

ざざあ、と波が押し寄せ、引いていく音は周波こそ私を落ち着かせるものだったが、その実お腹の底から震えたくなるような抗いがたい不安感を想起させた。

眼や耳から受け取る情報としての全ては海を美しいと言ってやまないが、それ以外の所謂第六感のような部分がむず痒い様な恐怖心を掻き立てる。

最終的には綺麗だと思う心と危機感を感じる心で丁度半々という具合だったが、カリギュラ効果が機能的に働いたらしく、その危機感すら私の好奇心の食い物になってしまった様で、いつも当たり前に行う面倒な思考を全て踏み越えてしまう程、私は高揚していた。

浜辺につながる下りの階段を一つ飛ばしで駆け下りてラズさんの静止も半分に波打ち際まで駆け寄ると、そこで初めて磯の香りと言う物を認識した。

たしか地図的な距離感で海に近づいた時点で磯の香りと言う物は感じるそうだが、私の不良品同然の鼻ではこの距離になるまで気づかないらしい。

胸を軽く反って肺一杯に吸い込むと独特ながらも癖になるような特有の香りが安易な悩みを分解してくれた。

海は良いかもしれない。

ここにあるすべての要素が今を生きる人間を許容してくれるような、言うなれば物言わぬ相談者と言ったところか。

どうやら波打ち際でさえもその時々によって大きくあり様を変えるらしく、先ほどは波が届いていなかった所に立っていたのだが脛の中ほどの高さの波が来て靴の中までぐっしょりと濡れてしまった。

洗えばいいけど帰りはちょっと嫌だなー、なんてのんきに考えていると、波が引くのと同時に私はかなりの勢いで前方に引っ張られた。

堪らずバランスを崩し、ずぶ濡れになるのを覚悟した瞬間、脇からお腹にかけてがしっと腕が差し込まれ、そのまま布団の様に吊り上げられた。


「ぐぇっ」

「お前なぁ!海ってのは危ないんだぞ!そのまま波に持ってかれる事もあるんだからな!」


どうやらラズさんは私が危ないと見るや走ってきたようで肩で息をしている。

片腕で私を吊ったまま「分かったのかこの馬鹿弟子ぃ」と上下にゆさゆさと揺らしてくるので「すみません!わかったので下ろしてくださいー」と懇願するとふんと鼻を鳴らして開放してくれた。

露店で食べたものがいい具合にかき混ぜられて少し気持ち悪い。


「いやぁ、危なかったです。私金槌ですし」

「......え、お前泳げないの?」

「もうこれぽっちもダメですね。幾らか練習したんですけど、むしろ何で浮けるのか分からないぐらいです」

「マジかよ...出来ない事あんだ...」


お腹を擦りながら何でもないように言うと、ラズさんは心底驚いたような顔をした。

前々から出来ない事は普通にあると言っていたはずだが真剣に捉えていなかったようだ。というか何でもできる人間の方が圧倒的に珍しいのだからその他大勢だという事にそこまで理解に苦しむ理由が分からないのだが。

いつもの事だと思って聞き流していると、ラズさんが「いや、本当に泳げないか怪しいぞ...案外ちゃんと教えたらスルッとできるかもしれないし、いやまて、比較対象がおかしい可能性も捨てきれないか...?」などとぼそぼそ言っている。

毎度毎度やっていることだが、戒めの意味も込めてラズさんの小指をぎゅっと引っ張ると痛みと供にこちらの世界に帰ってきたようだ。


「再三言ってますけど、私普通にできないことありますからね!逆になんでそんな完璧人間だと思い込んでるんです?」

「あー」


さくさくと細かい砂を踏みしめながら、私たちは海岸に沿って歩いた。

ラズさんは記憶をたどるように少し上を向いて思案した後、ゆっくりと口を開いた。


「お前は最初からめちゃめちゃ礼儀正しかったから多分育ちは良いんだろうなってのは思ってたんだけど、堅苦しいだけじゃないからさ。その、引き際って言うのかなぁ。会話しててそういう所ってあるじゃん?そういうのって色んな事経験して、人とちゃんと喋ってこないと出来ない事だと思うわけ。んで実際出来ない事はあるにはあるけど本当に少ないだろ?だから全体的に能力は高いし、自分が興味を持ったものは自分でしっかり考えて、且つ他の人の意見もしっかり聞いて向上させることができる人間なんだなって」

「え、えと...あ、ありがとうございます...?」


まさかそんな真正面から褒めちぎられるとは思っておらず、不意打ちにたちまち顔が熱くなった。

そのまま何とも言えない空気を引き連れて、さくさく、さくさくと歩く。

顔に上った羞恥が海風によってしっかりと冷まされたのを確認して、道路につながる階段で少し休むことを提案すると、もとより運動をしないタイプのラズさんは二つ返事で了承してくれた。


大通りと浜辺を繋ぐ石造りの階段に座る事五分、飲み物を買いに行ってくれたラズさんが戻ってきて、冷たいココアを渡してくれた。

こくりと一口飲むと、家で作るような甘味の強いものではなく、程よくカカオの苦みが残されていて、風が冷たいとはいえ、やや暑い気候の中ではこちらの方が後味がすっきりしていいかもしれない。

ラズさんが飲んでいる物が気になってそちらを見ると、薄く濁った透明な飲み物を持っている。

ラズさんは根っからの甘党、というか味のしないものに価値を感じないそうで、水はほぼほぼ飲まない。薄く濁っていることからも何らかの味がついているとは思うのだが果たして何を買ったのだろうか。

じっとラズさんの飲み物を見つめていたのがバレたらしく、ラズさんが「ん」とこちらにカップを向けてくる。

恐らく飲みたくて見ていたのだと思われたのだろう。実際はそうではないものの、飲んでみれば味が分かるので有難くいただくことにして、私はストローにかみついた。

ちゅうと少し飲んでみると、さっぱりした風味とぱちぱちとした感触が口に広がる。恐らく味は柑橘系の物だろうが、このしゅわしゅわは何だろうか。


「ライムのソーダだとよ。結構美味くない?」

「美味しいです。美味しいですけどこのしゅわしゅわは何です?」

「あぁ、それは炭酸だな。飲めるなら良かったわ。苦手な人もいるから」

「さっぱりしていいですね。割と好きです」

「じゃあ酒も飲めるな」

「お酒かぁ、大人になったら飲んでみたいんですよねぇ」


家族が、特に母がお酒をよく飲む人だったのだが、それはそれは美味しそうに飲むものだから少しばかり憧れがある。


「あと一年ちょいか...そん時は良い酒買ってやるよ」

「いいんですか!」


ラズさんは何気なく言ったのだろうがその時まで一緒にいてくれるのは確定事項らしい。

確かにラズさんの魔法を見ると、まだまだと言うわざるを得ないが、正直普通の人があれほどの魔法使いになれるのだろうか。

というか魔法使いとしてどのタイミングでラズさんとの関係が切れてしまうのかが不明瞭なので何とも言えないのだ。

ラズさん曰く、それらしい成果があれば魔法院から昇級試験の手紙が届くらしいが、今はもっぱら特訓タイムなのでそれがいつになるかもわからない。

弟子から卒業した後もラズさんは面倒見てくれるだろうか。

負担にはなりたくないけど、ずっと一緒にいたいなぁ...


「あの、師匠...」

「んー?」

「弟子を卒業しても一緒にいてくれるんですか?」


やっぱり不確定な情報が多すぎて考えても分からい事を悟った私は思い切って本人に聞いてしまうことにした。

自分でも笑ってしまう程に弱弱しく呟かれた言葉はなんとか届いてくれたようで、ラズさんは虚を突かれたように目を開いた後、優しく微笑んだ。


「そこら辺の話あんましてなかったな。この際だからちゃんと話すけど」


と前置きしたラズさんはソーダを一口飲んでちらりとこちらを伺い、海を見ながら話し始めた。


「成人するまでは俺んところで預かっておこうと思ってる。そりゃ嫌になったなら出ていくんでも構わないけど、そうなったとしても家と生活費は俺が出す。っていうのも、お前をこっちに連れて来たのは俺だからな。事情があるとはいえ、半分攫ってきたんだから俺には義務があるわけ。成人してからは、まぁ、好きにしてくれて構わないぞ。ちゃんと魔法使いとして独立できてその意思があるなら、自活するんでもいいし、居たいなら居ればいい」


そこまで一息で言い切ったラズさんはもう一度ストローを咥え「そこはお前に任せる」と流し目にこちらを見ながら言った。


「...じゃないんですか」

「ん?」

「私がずっと家にいて、迷惑じゃないんですか?」


ラズさんはそんなことを思わないと分かっていても、ほんの少しの不安と渇望が言葉を棘のあるものにしてしまった。

この矛先はラズさんに向いているのではない。ラズさんが少し手を伸ばせば守れるような場所から私に向かって生えた、卑怯な自虐だ。

ラズさんはちらりとこちらを伺った。


「迷惑も何も、完璧に家事してもらって、話も合う。お前といると退屈しない。繰り返すが、居たいなら居ればいい。俺はそれを負担だとは思わない」

「そ、そうですか」

「何が不安なのかわからんが、俺がお前をどうこうする事は誓ってない。大丈夫だからそんな泣きそうな顔すんな」

「......はい」


どうやら私は酷い顔をしていたらしく、ほっぺを指の背でふにふにと撫でられた。

言葉として聞くことで漸く、最近私の心中のほとんどを占めていたラズさんへの不安感が無くなった。

余裕ができれば後は私お得意の楽観視である。

ラズさんは居ても良いと言ってくれたが、それでは関係が進まないだろう。離したくないと、一緒にいてほしいと思ってもらえるような女性になろう。

そのために目下の目標はやはり魔法だ。前にも言っていたようにラズさんは同レベルの魔法使いに飢えている。かなり難しい道のりである事は火を見るより明らかだが、やる他ないだろう。

もし。

もしも、ラズさんと肩を並べられたら、その時は、私の気持ちを伝えてもいいだろうか。


―親愛でも敬愛でもない”好き”と言う言葉は、果たしてあなたを困らせてしまうのでしょうか。




西の街から帰ってきた私は、帰り支度もそこそこにフェリアの家に来ていた。というのも西区で買ったお土産を渡すためだ。

ここには何度か訪れているが、さすが商会長と言ったところで敷地が本当に広く、毎度少々気後れしている感は否めない。

何か月か過ごして分かったことだが、ラズ邸はラズさんの収入に比べるとあまり大きくない。あの規模の家で見劣りしてしまうのはハッキリ言って意味が分からないが、先日の魔獣騒動を見れば大半の人間は納得するだろう。

あれは確実に国の脅威だった。

何故急にあれほどの魔獣が、それも一か所に集まったのか分からないが、数えきれないほどの魔獣が一つの意思を持ったようにずるずると這う姿は魔力検知越しでも十分すぎるほど私を畏怖させた。津波や台風と同じようなもので、あの現象は天災と言って差し支えないものだろう。それを一撃で根絶やしにしてしまうのだから国からすればいくら払っても足りないぐらいかもしれない。

とにかく、ラズさんの収入は国の危機を何気なく救う人に与えられる金額で、ラズ邸はそれと比べれば小さいのだ。

しかし比較対象がおかしいだけであってラズ邸はかなり大きい。

が、眼前のトルウェルノ邸はそれより更に一回りほど大きいのだ。

ラズ邸は家屋の面積より庭の方が広いので全体で言えば同じくらいかもしれないが大きいことに変わりない。

それにほぼ自分の家同然に出入りしているものと、友人の家とでは話が変わってくるのだ。

正直怖い。この門の前で待たされている時間が居た堪れない。

何とかなるまいか、と恐らくどうしようもない事を考えていると、こっこっこ、と靴が石畳を駆ける音が聞こえてきて、私は俯いていたらしい顔を上げた。


「マリエル!」

「こんにちは、フェリア」


待ってましたと言わんばかりに瞳を弾ませながらこちらに駆け寄って来たのは言わずもがなフェリアである。

何回か会って、魔法の練習をしたりカフェに行ったりするうちに私にも慣れてきたようで、最初の内気さはどこへやら、今は隠すことなくその美貌を歓喜で染め上げている。

今日も可愛いなぁ、なんて思いながらぼーっと見ていると、しばみ色の瞳が怪訝そうにこちらをのぞき込んできた。


「マリエル?」

「あぁ、いや何でもないです。今日は髪あげてるんですね。似合ってます」

「え、ほ、ほんと?」


ド直球に見惚れていたと言っても何ら問題は無いのだろうが、あまり安易に褒めすぎるといつか真剣に捉えられなくなってしまう事もあるのでぐっと飲みこんだ。

その代わりと言っては何だが、あまり見ない髪型を褒めると、恥ずかしそうに頬を赤らめながらも眉を下げて困った様に笑った。

手を後ろに組んで靴の先で地面をとんとんと小突く姿を見ると、これが可愛い女の子のお手本なんだとはっきりわかる。

暫くは愛らしい少女を眺めてほんわかしていたがそういえば目的があってここに来た事を思い出し、慌てて手に持っていた紙袋を差し出した。


「これ、先日師匠と一緒に西の方に行ったんですが、そのお土産です」

「え!お土産?わざわざありがとう」

「いえ、大したものではないんですが...」


フェリアがごそごそと紙袋から中身を取り出す。

出てきたのはフェリアの髪よりも少しだけ濃い焦げ茶のネックレスだ。

海岸で買ったものらしくモチーフは魚で、中でも可愛かったイルカの物を買ってきた。

あれ、イルカは魚じゃないんだっけ?まあいいか。


「か、かわいい...」

「ふふっ。気に入ってくれたなら良かったです」


箱の中に入ったそれを天高く上げ、瞳をキラキラと輝かせて喜ぶ様は絵画にでもするべき画だったがその場限りの一人占めというのも悪くない。

無いとは思うがちょっと引かれたら悲しいなぁ、なんて杞憂を抱きつつ、私はポケットに入れておいたものを手に掛けて、ぐいっと陽光の下にさらした。


「それだけでもよかったんですけど、折角ならと思いまして―」

「え!お揃い!?お揃いだ!」


やはり杞憂は杞憂らしく、私が同じ色違いの物を見せるとぎゅんと近づくなりネックレスを掛けているほうの手を握って上下にぶんぶんと振った。

ここまで良い反応をしてくれると買った甲斐があったとしみじみ思う。

いやぁ、可愛いなぁ。


「マリエルありがとう。折角だしうちで何か食べていきなよ。確かケーキがあったはず...」

「ケーキ!」


何度かフェリアのお家に入ることがあり、出された紅茶や茶菓子、ケーキを食べて思ったが、さすが商人と言ったところでそのどれもが抜群に美味しい。

ラズさんの持ってくる美味しいものは値段を一切考慮せずに旨いものは旨いと言わんばかりの、ある種雑多な雰囲気があるが、フェリアのお家で頂くものは高級品の中から更にしっかりと見極められたような丁寧で上品な雰囲気がある。

最早恒例行事になりつつあるが、食べ物に釣られた形の私の手をフェリアはぎゅっと握って「行こっか」と中に引き入れた。



「お帰りなさいませ。お嬢様」

「いつもお疲れ様です」


スキップしそうなほど上機嫌なフェリアに手を引かれてお宅の中にお邪魔すると、メイドさん達が恭しく腰を折って”お嬢様”の帰還を迎えた。

何度来てもこの光景には慣れられそうにない。私はこれを見るたびフェリアが正真正銘のお嬢様である事を意識する。


「マリエル様、本日もお越しくださって有難うございます。御用があれば何なりとお申し付けくださいませ」

「お邪魔します。あのー、私にはもう少し砕けた対応で構わないんですが...」

「お嬢様のご友人に粗雑な対応を行うわけにはいきませんので」

「は、はあ」


メイドさんは顔を上げたのち、また同じようにして腰を折り、私に対しても同じような対応をする。

私はお嬢様育ちとはほぼ対極のような育ちをしているし、何なら以南地区出身なので、畏まられると正直に言って非常に落ち着かない。

何度か砕けた対応をするようにそれとなく代診してみたのだが、毎度返ってくる答えは決意の固まったノー一択だった。

これはもう無理だと諦めつつも割り切れないでいる私を何故だか微笑ましそうな目で見ていたフェリアは「行こう?」と私の手を引いて歩き始めた。



「わぁ...!」


通されたのはリビングだ。

トルウェルノさんやティアさんは仕事に行っているらしく姿は見えない。

ちなみにトルウェルノさんの奥さん、つまりフェリアの祖母に当たる人はもうすでに死去してしまったらしい。フェリアのお父さんは仕事の都合で今は別の国に行っていてフェリアでさえあまり顔を見ないとの事。

そのためこの家に日常的に住んでいるのはトルウェルノさんとティアさん、フェリアと住み込みのメイドさん達だけなのだ。

私を案内するやいなやメイドさん達の提案を丁寧に遠慮し、自らケーキを取りに行ったフェリアは、私の前にケーキを置くと満足げにふふんと鼻を鳴らした。


「いつものケーキ屋さんの新作なんだけどね?いつも買ってくれるからって正式に商品として出す前にくれたらしいの」

「なんと太っ腹な...」


いつものケーキ屋さんというのはフェリアの家で良くしてる場所の事で、この前一緒に店舗に行って食べたことがあったのだがそれはもう美味しかった。

フェリアの家でケーキと言えばそのお店のものが当たり前に出てくる程、フーディス家の舌をめろめろにしているのだ。

どうやら日頃の感謝として渡されたものらしく、製品化は未だらしいが美しくテンパリングされたチョコレートの表面を見ればそれも時間の問題だろう。

切り分けられたケーキの断面を見ると、スポンジの層と生チョコの層が幾重にも重なっていて、所々にナッツらしきものが散りばめられていた。

チョコのケーキに何かアレンジをするとなると大体はベリーかナッツの二つが考えられるが、個人的にはナッツの方が好きだ。

というのもチョコレートケーキに求めるアクセントとして、酸味よりも香ばしさの方が好みなのだ。

たれそうになる涎を何とか誤魔化していると、後ろからメイドさんたちが音もなく近づいてきて、私とフェリアに紅茶を持ってきてくれた。

この紅茶も確か例のケーキ屋さんで購入している物らしく、紅茶より珈琲派の私がぐらりとその天秤を揺らすほどには美味しい。

二人そろってお礼を言うとぺこりと腰を折った後、失礼します、とこれまた音もなく部屋を出て行った。


「食べよっか」

「い、いただきます」


溢れる期待が転じて軽く緊張している私を尻目にフェリアはさっさと一口切り分けて口に運んでいる。

私もそれに倣って、おずおずと切り分け、口に運んだ。

まず舌に触れたねっとりと濃厚な生チョコはそれらしく濃厚で、口いっぱいにチョコの風味が広がる。

そこから歯を立てると、カリカリと香ばしくローストされたナッツがチョコレートにアクセントをつけてくどくなってしまうことを防いでいた。

期待違わぬ美味に目を閉じて、しみじみと咀嚼していると、隣から「ん?」という声が聞こえた。


「どうしたんです?」

「これ、ちょっとお酒入ってるかも。多分ほんとに少しだけだから子供でも食べられるやつだろうけど、マリエルはアレルギーとか大丈夫?」

「アレルギーは猫しかないので大丈夫です。にしても、これお酒入ってるんですね。全然気づかなかったです」


凄く心配そうに顔を青くしていたフェリアは私が大丈夫というと露骨にほっとしたような顔になった。

まぁ逆の立場なら確実に私もそうなるが。

自分の味覚は特筆していいわけではないもののそこそこ信頼できるものだと自負していたので、フェリアがお酒に気づいたことに驚いて言及すると、少し照れくさそうに頬を染めてフェリアは言う。


「私、人よりちょっと味覚が良いんだよね。料理に入ってる調味料とか大体当てられるの」

「えぇ!何ですかそれ、凄い!欲しい!」


もじもじと恥ずかし気に綴られた事実は、私にとってひたすら羨ましいもので、つい「欲しい!」と口が滑ってしまった。

料理をしているとその能力は喉から手が出るほど欲しいものだ。

フェリアは困った様に眉を下げながら、「だめ、私が唯一人に誇れるものなんだから」とはにかんだ。

彼女は鏡を見たことが無いらしい。

その見目を以てしてもそれを言わせるのは謙遜であって欲しかったが、私の耳が判断するに本当に心の底からそう思っているようだ。


「唯一なんてとんでもないです。必要なら日が暮れるまでフェリアのいい所を列挙しますけど」

「い、いやそれは恥ずかしいかな」

「恥ずかしいぐらいで自己肯定感が上がるのならぼろ儲けですよ。フェリア、冗談で言ってるならまだしも心の底から言うんですもの」

「だ、だって事実そうじゃない」


フェリアの自己肯定感が低いのは何も本人の考え方が悪いわけではない。

というよりやむおえない事情により、考え方が変わってしまったと言ったところか。

これはトルウェルノさんから聞いたことだが、フェリアは幼少期にいじめにあってしまったらしい。その時の心の傷が癒え切っておらず、今もフェリアは他人と距離を置いているし中々自分を肯定できずにいるのだ。

それを聞いた時はフェリアを虐めたクソガキに対する憤りが火山の如く噴き出したのだが、その反面私の役割は頭の弱い有象無象に憤る事ではなく、可憐で繊細な少女の自信を取り戻す手助けをする事だと認識した。

私が褒め殺しの刑をちらつかせると、参った様に相好を崩すもののやはり心の底から改善しているわけではないようで、しょうがないという諦念が見て取れる。

ここで本当に褒めちぎってしまうのも一つの手だが、自己肯定感と言うのはそうして上がるものではないだろう。

後付けで周りからその人の長所を言ってしまうのは本質的な解決にはならないし、最悪の場合、他人からの評価に依存してしまうこともある。

自己肯定とはその文字が表す通り、自分で自分の良さを認識し肯定することなのだ。

その肝はもっぱら”自分自身で”という事に詰まっている。

とは言う物の、どこまでも自信のない友人に少々呆れてため息を一つ付くと、フェリアは委縮したように肩を縮めた。


「フェリア」

「...なに?」

「フェリアが自分を何故そんな風に言うのか分かりませんが、私は少し悲しいんです。私の友人は素敵な、素敵な人です。良い所がたくさんあるんです。それが何よりその人自身に認められないというのは悲しいです」

「マリエル...」


私の名前を呼ぶフェリアの声は湿っていた。

いじめがあった時から人と関わる事に消極的だったという事は、このようにフェリアと向き合う人間は家族しかいなかったのだろう。

初めて同年代の友人と向き合ったフェリアは、瞳を揺らし、彼女の中で長らく停滞していた歯車を回さんとしている。


「押し付けるつもりはありません。私は私のやり方でフェリアがとっても良い子で、私の素晴らしい友人であることをフェリアに紹介する予定です。焦らずともいいのです」

「うぅ...まりえるぅ...」

「わっ」


ここで焦ってしまう事はあまり好ましくない。

本人のペースでゆっくりやるのが一番、と不安を取り払うように微笑んで見せると、ついに涙腺を決壊させてしまったフェリアが胸に飛び込んできた。

それと同時にふわりと可憐なバラの香りが鼻を擽る。

胸で堪える様に涙を流すフェリアの頭を丁度ラズさんがそうしてくれるように撫でると、涙腺と同様に心の堤防も決壊したらしく、黄色の涙声が広々とした部屋に響いた。



「ただいまですー」

「おかえりー」


フェリアのお宅でケーキを頂いてその後も気が済むまで駄弁った私はふらふらと家に帰ってきた。

ふらふらというのも、何故かフェリアの家から少し歩いた辺りで体調が急変したのだ。

顔が火照っていて、触ってみるとかなり熱があるように感じるし、思考が余り纏まらず、世界がふわふわとしている。

それに伴って足取りもどこか頼りないもので、何度か人とぶつかりそうになりながら帰ってきた。

今喋ってみて思ったが、呂律も寝起きか酷い睡魔に襲われているときと同じぐらいふにゃふにゃしている。

しかし頭痛やのどの痛みは一切ないので風邪とは考えにくい。

寝不足だったかな、と昨日の寝た時間を思い出しながらリビングに向かうと、注意不足でドアの枠組みにガスっと肩をぶつけた。

例の如くふわふわしていたために全く身構えておらず、痛みがフルに伝わってきて思わず顔を顰める。

鈍い音が部屋に響き、ソファでくろいでいたラズさんが驚いたように体をばっと起こしてこちらを見詰めて来た。


「え、大丈夫?すっごい音したけど」

「は、はは...。大丈夫です。ダイジョブです」


そのままふらふらとソファに歩いていき、ラズさんの隣に座って肩に凭れた。

ぶつけた箇所は未だ鈍痛を訴えているし何なら刻一刻と痛みが増しているのだが、ラズさんの温度をぬくぬくと享受していると他の事が意識の外に溢れていく。自分の居場所に戻ったような圧倒的な安心感に包まれて、肩の力が抜けきるのが分かった。


「あー、しあわせー」

「...なんかおかしいぞこれ」

「なにがですか」


好きな人との幸せなふれあいを堪能している私を尻目に、ラズさんはどんどんと胡乱な顔になっていった。

私はこんなにも幸せでぽかぽかだというのにラズさんがそうではない様子なのが少し気に食わなくて、不満を表すように唇を尖らせるとラズさんはじっと顔を見つめてくる。

急なことに最初こそ恥ずかしさが込み上げてきて目を逸らしてしまったが、自分の想い人に見つめられるというのは悪い気はしない。

近くで見るとやっぱり綺麗な瞳だなぁ、なんて考えながらへらへらしていると、ラズさんが「顔赤くないか」と手のひらをおでこに当てて熱を計った。


「ちょっと熱いけどホントにちょっとだな...。なんだ?変なキノコでも食ったのか?」

「そんなのたべてません。おいしいケーキならいただきましたけど」

「いや、食ってたら困るけどさ。まじでなんだこれ。...いや、確実におかしいな。お前今日はもう寝ろ。疲れてんのかもしれんしな」

「えぇー」


別に体調は悪くないし、むしろ楽しくてほわほわするのでこのままで居たい。

いやいやと駄々をこねる様にソファの上で膝を抱えて座り直し、ラズさんの腕にぎゅっとしがみ付くと、べりべりと音がしそうな程の勢いで剥がされたのち、私の眉間にびしっと指を当てて「ダメだ。今日は寝ろ」と勧告した。


「んぅー...。じゃあはこんでください。おへやまで」


眉間の異物感に眉を寄せながら、最後の抵抗として無茶ぶりを言うと、ラズさんは呆気にとられた様に言葉を詰まらせている。

急かす様に私が「んっ」と腕を伸ばすと、じわじわと顔を赤くしたラズさんはガシガシと頭を掻きながら「この馬鹿弟子が」と吐き捨てる様に言った。

そんな風に言ったって私にはお見通しですからねラズさん。

ただの照れ隠しにくすくすと笑っていると、不意に膝の下と背中に腕が回され浮遊感が私を襲った。


「わっ」


どうやらラズさんは腹を括ったらしく、顔を真っ赤にしながらも私を抱えて部屋にどしどしと歩いていく。

この体勢にお姫様抱っこと言う単語が浮かび上がってきて、たっぷりのはちみつを温かい牛乳に溶かしたような、そんな甘ったるい多幸感が私の表情を完全に支配した。

しかしにまにま、へらへらするだけではとても心中の糖分を分解できず、こころがそうしろと言うままにラズさんの胸にくっつくと、ラズさんがピタッとその歩みを止めた。


「お前さぁ...なんつーか、信頼してくれるのは嬉しいけどもっとなんかあるだろ?表現の方法とかさ」

「んー」


ラズさんは私からの感情を何だと思っているのだろう。

私の気持ちを表すならこれが一番あってるのに。


「これであってます。わたしはししょーのことが好きなんです。大好きなひとにこうするのはまちがってないです」


なんだかふわふわとした浮遊感が一転して心地よい睡魔になってきて、恐らくほとんど回っていないであろう呂律で言葉を紡ぐとラズさんは虚を疲れた様に綺麗な瞳を見開いた後、どこか昏い表情で俯いた。

ラズさんに抱えられている形の私は、ラズさんがどうしてそんな顔をするのかちっとも分からないなりに、そんな顔をして欲しくなくてシャツを少し引っ張ってラズさんと目を合わせる。

目が合ったラズさんは私と暫し見つめあった後、耐えかねた様にぐっと唇を噛み、顔を背けてずんずんと歩き始めた。




「あっつ......。あっつ。暑い!暑い!!あー暑い!!暑いぃぃィィ!!!」

「ししょっ、あはっはっは!うるさい!うるさいです!はははっ」


いよいよ暑さが本格的になってきたこの頃、どうやら暑いのが苦手らしいラズさんは時たまこうして発狂するのだがこれが何とも面白い。

段々とギアを上げていくので、『くるぞ...くるぞ...』というお膳立てを自ら行い、その緊張感を吹き飛ばすように勢いよく狂うので毎度毎度私は横腹を痛めることになっている。

最近の日課であり楽しみでもある儀式は、ラズさんが暑いというのに暴れまわり、オーバーヒートすることでその幕を閉じる。

いつもの如く限界を迎えたラズさんはソファの背もたれに凭れかかり、と言うか行き過ぎて干された布団のような状態になりながら、「アツイ...アツイ...」と尚も愚痴っている。


「毎度言ってますけど、動いたって暑さは変わらないですからね?むしろ体温上って毎回臥せってるんですからそろそろ学習してください」

「って言ったって何もしてなくても暑いし」

「はぁ...。早く修理の人が来ればいいですね」

「全くだ」


何もラズさんは毎年毎年夏になると発狂しているわけではないらしい。

というのも、前年までは部屋に付いている冷房をガンガンに効かせ、家から最低限しか出ない生活を送っていたとの事。

ガブエラさんが「夏になるとラズが働くなるから相対的に僕の仕事が増える」と辟易していたので、本当に自分が行かなければいけない任務以外はガブエラさんに丸投げしていたようだ。

では何故今年はラズさんが定期的に騒ぐアラームと化しているかと言えば、問題はその生命線たる冷房にある。

安直に言えば故障したのだが、これまた奇怪な事に冷房が付かないわけではなく、冷房を付けても暖房が出るのだ。

当時のラズさんは暑い暑いと家に帰ってきて、これで涼しくなる、と期待と信頼を込めてスイッチを押し、そして裏切られたわけだが、一部始終を見ていた私から言わせれば捧腹絶倒ものだった。

あまりラズさんの不幸を笑うのも如何なものかとは思うが、その不憫具合が丁度私の笑える塩梅なのだ。

と言うわけでこの頃は笑いに堪えない日々を送っているわけだが、それはそれとしてこちらとしてもやってあげられることが無いわけではない。


「はい。今日は果物屋さんからサービスして頂いたレモンがあったのでシャーベットです」

「あぁあぁー、唯一の活力ー」


でろでろに溶けているラズさんの前に、先ほど作っておいたレモンシャーベットを置くと、ラズさんは起き上がろうとぐっと力を入れたが、一歩及ばずもう一度同じ体制に戻った。

そりゃ逆Uの字になってれば起き上がれないでしょうに、特にラズさんの腹筋じゃあ。

そこで漸く自分がその体制から戻れない事に気づいたのか、ラズさんはじたばたと藻掻いたがその努力虚しく次第に起き上がれている幅が小さくなっていく。

何とかして笑いを堪えながら、ラズさんの手を握って引っ張り起こすと、頭に血が上ったらしく顔はいつもより赤くなっていた。


「すまん。ありがとう」

「い、いえ、良いんです...ふふっ」


やることなすこと全てポンコツなのが可愛らしく、何より面白すぎて遂に隠しきれずにくすくす笑うと、ラズさんはバツが悪そうにしながら「いただきます」と言ってシャーベットを口に運んだ。

ラズさんの事を笑いはするものの、私とて暑さが得意なわけではない。というか寧ろ苦手な方なので一刻も早く治って欲しい所ではある。

それはそれとして、修理の人が来るまでは今のラズさんを存分に楽しもうと思う。

好きな人の新たな一面を知れるというのは嬉しいものだ。


「いや、そんなんじゃないか」

「ん?何か言った?」

「いーえ?」



その後、暑さに耐えかねたらしいラズさんはついに避暑地を探すことにしたらしく、外に出られる様な格好に着替えている。

丁度読んでいた本が一区切りついた所だったので、もしかすると邪魔になるかと思いながらも同行を打診すると、ラズさんは寧ろ嬉しそうに二つ返事で頷いた。

恐らく外に出るにしても行く当てがなかったのだろう。

ラズさんはどこに行くだの何を食べるだのを決めるのは億劫らしく、最近ではそれらの判断をまるきり私に任せている。

出会ってから間もないころは自主性がないようには思えなかったので、大方私に気を遣わせまいと頑張ってくれたのだろう。それが今となってはこのざまである。

しかしまぁ、私に合わせようと歩み寄って気を使ってくれるのは嬉しいが、それよりも私に慣れてきてより自分をさらけ出してくれる方が何倍も嬉しいのでこれについては言及しないでおこうと思う。

そんなこんなでやろうと思えば幾らでも利用できてしまいそうなラズさんだが、今回もどうせその類で悩んでいたところに私と言う指針が現れて非常にご満悦といった様子だ。


「魔法院でも行くか。あそこの練習場冷房完備だろ」

「え?」


気のせいだろうか。

あのものぐさなラズさんが自ら提案を...?

とうとう本当に熱でおかしくなってしまったのかと胡乱な視線を送ると、ラズさんは不思議そうにこちらを見た後、会得したように「あぁ」と手を打つ。


「練習場ならちょっと前に全部治ったらしいぞ」

「い、いやそうじゃなくて...」


どうやら全く見当違いな方向に納得したらしいラズさんに、わざわざ修正する必要もないと判断し「やっぱり何でもないです」と話を逸す。

ラズさんは不思議そうな顔をしていたが、それは”疑わしい”というよりかは”何だろう”という好奇心が強いもので、私が考えていたことを赤裸々に話すのは憚られた。


「それより、師匠は準備できたんです?私はいつでも行けますが」

「なんだ、もう行けんのか。んじゃ行くか」

「行きましょう!行きましょう!」


正直なところ髪も整ってないしお洒落もしていないので大丈夫では全くないのだが誤魔化すのに必死でつい口から出てしまった。

まぁラズさんはあまり気にしていないようだし、服に関しては上からローブを羽織れば何とかなるか。

このまま話しているとボロが出そうだったので、私はばっとソファから立ち上がりラズさんの背をせっつきながらリビングを後にした。


日が落ち始めて、燃えるように赤い地面を涼し気な風を浴びながらしばらく歩き魔法院に入ると、ラズさんの言った通り完全に元通りになっている練習場が見えた。

まだ私が騒動を起こしてから二か月と経っていないのにも関わらず、傷一つなく修繕されている様は圧巻と言うほかない。これに乗じて本当に無かった事になるまいかとも一瞬思ったが、なるまい。なるまい。

感傷というには幾らか浅い感情に足を止められていると、先に中に入ったラズさんが訝し気にこちらを振り返ったが、こちらの心境を察してか何も言うことは無かった。

私がそれに気づいて駆け寄ってもラズさんは口を開かない。

どうやら先のお叱りでこの件は水に流してくれたらしい。お叱りと言う程叱られてはいないのだけど。

私のブーツとラズさんの革靴がつかつかと心地よく響くのを聞きながら中心まで入ると内側に張られた魔力が以前とは異なっていることに気づいた。

魔力量自体は大差ないが、配列と言うか、構造が前よりも複雑になっているような気がする。

違和感に眉を寄せていると、ラズさんは目ざとく気づいて思い出したと言わんばかりに「あー」と声をあげた。


「そういや言って無かったけど、魔法院の魔力障壁の強化を頼まれてさ。ちっとばかし弄ったんだけどお前から見てどう?」


...なるほど。

どうやら私が障壁を破壊してしまったばかりにあのまま元通りと言う訳にもいかなかったらしく、ラズさんがその強化に携わったらしい。

さて、ここで何も気づかないほど私も愚かではありません。

自ら買って出たのかラズさんの言う通り頼まれたのかは分からないが、ラズさんは恐らく弟子の尻ぬぐいとしてこの仕事を引き受けたのだ。

そういえば数日前にラズさんが難しい顔をして読んでいた本があったことを思い出した。

建物自体の修復を行ってから最後に障壁を張ったのであれば、ラズさんが寝る間も惜しんで何かにご執心だった時期と一致する。

これはどうしたものか。

やはり師匠であるラズさんには皺寄せが行っていたわけだし、謝罪と感謝の意として何かするべきだと思うのだが、如何せんこれについて触れるべきか悩む。

先のラズさんの声音は文字通り忘れていたというものだったのでラズさん自身はこのことについて何とも思っていなさそうだし、無言を貫いていたことからこの話題にはあまり触れないようにしてくれているのかもしれない。

しかしその配慮に甘えてこのまま何も気づかなかった振り、というのも気持ち悪い。

どうしたものかと考えていると表情に出ていたのか、それとも観察眼で見破ったのか、ラズさんがやれやれといった様子で一つため息をついた。


「俺自身が一番驚いてるが、今お前が考えてることは全部俺に筒抜けだと思った方がいいぞ。いいか、お前は俺の弟子なんだ。弟子は失敗をするものだし師匠はその失敗の尻拭いをするもんなんだよ。こう言っちゃなんだが、いい意味で俺らは対等じゃないんだ。庇護して庇護される関係だし、そのバランスが傾くことは何もおかしなことじゃない。な?」

「...はい」

「人としての関わり方としてバランスが傾くのは避けるべきだと思うが、それに関しちゃお前はよくやってくれてる。俺が生活できてるのはお前のおかげだ。俺が思うに人間関係は全部対等である必要はないんだ。どこかは片方に依存してる、けどまた別のどこかでは自分が完全に受け持ってる。そういうので良いんだよ」

「そう、ですね。確かにそうです」

「うん。お前の強くあろうとする心意気は俺も気に入ってるけどその線引きは見極めないと。いつか自責に押しつぶされるぞ。いいか?見極めはしっかりする事」

「分かりました」


一から十までその通りだ。

どこかで私の認識は歪んでいたらしい。

弟子と師匠と言う関係なのだから持ちつ持たれつが対等になる事の方がおかしいのだ。

弟子は師匠を頼って当たり前だし、支えてもらうべきなのだ。

驚くほど簡単に胸に落ちた概念は、私の懲り固まった世界を端からぱらぱらと崩していき、また新しい世界を構築していった。

がらりと変った景色の中で、黒い髪の青年に寄り掛かる白髪の少女が、無邪気に前を向いて笑っている。

この日、ようやく私はラズさんの弟子になった。




「おい弟子よ」

「はい?」

「普通の魔法使いの仕事を見に行かないか」

「え?」


冷房の効いた部屋で先日作った新しいレシピのメモを取っていると、自室から出てきたラズさんが突然そんなことを言った。

普通の魔法使いの仕事とはどういう意味だろうか。確か、魔法使いの仕事は階級によって受けられる任務の幅は変わるものの、基本的には魔獣の駆除と治安維持活動が主だったはずだが。

真意がいまいち掴めず、はた、と呆ける私にラズさんはニヤリと笑って続ける。


「お前って平均的な魔法使いがどんだけ苦労して魔獣を狩るかまだ知らないだろ?どんなことでも平均と最高を知っておくのは大事だ」

「あー...」


確かに平均を知るのは大切だ。

私とてそれは他人事ではなく、魔法を学び始めた最初期は平均を知らないがために詰め込んでしまってラズさんに止められた。

あれに関しては平均を知らなかった事が理由の全てではないものの、まぁ間違いなく一枚噛んでいるし、他の理由の根底にそれがあると言っても過言じゃない。

故に、平均の大切さは身に沁みて感じているのだが、それはそれとして私には同年代で魔法を学ぶ友人がいるのだ。

フェリアは魔法を学び始めて一年と半年程らしいが大体私と同じくらいかほんのちょっとできないぐらいなので、基準はその辺りだと目星をつけている。

平均を知らないわけじゃないんだよなー、なんて考えつつ、しかしフェリアは学生であるため今から見に行く正式な魔法使いとはまた別だろうと結論付け、最終的にはお誘いに乗っかることにした。といってもラズさんからのお誘いを断る気は毛頭なく、ただその心構えをどうしようか、と考えていただけではあるのだが。


「そうですね。行きましょうか」

「三日後にそこそこ大規模な魔獣駆除があるらしいからそれに行くか。北の国境付近らしいから向こうの国の特産品とか売ってるかもな」

「...半分観光気分じゃないですか?」


西区での出来事を思い出しながら胡乱な視線を送ると、ラズさんは「半分も何も仕事で行くわけじゃないからなぁ...」と開き直り、「まぁ」と続ける。


「ぶっちゃけると最近俺もお前もあんま外出てないだろ?たまにはいいかと思って」

「おぉ...!」


あの出不精のラズさんが健康に気を使って自ら外に...!

私がきらきらと目を輝かせてラズさんの方を見ると、当の本人は居心地が悪そうに頭をがしがしと掻いた。


「今月入ってからはほとんど家を出てませんしね。にしてもあの師匠が自らお出かけの提案とな...」

「引きこもってんのはお前もだろうが。つーかどっちかって言ったらお前を心配してだなぁ...」

「私は師匠と違ってぽつぽつ外出してますよ?それにもう少し後にはフェリアとお買い物もする予定です」

「俺だって仕事あったら出るっての」

「あら、今月は未だ無いようですけどお忘れですか?」

「あ...」


恐らく頭の中のカレンダーを捲ったのだろう。

なんだかんだとだらだら過ごすうちに日付感覚がおかしくなったらしく、今月に入ってからまだ一度も仕事が来ていない事実に今気づいたらしい。

ラズさんはチッと舌打ちをした後、ソファに座っていた私の隣にどかりと腰を下ろした。


「最近お仕事さぼりすぎじゃないです?」

「さぼりじゃねーよ。単に仕事が来ないってだけだ。それに、俺に仕事が来ないってのは良い事なんだよ。俺が仕事するってことはそんだけ危ない事になってるってことなんだから」

「まぁ、確かに」


ラズさんは基本的にすべての事案に対して対応できるが、だからこそ最終兵器というか、国としては奥の手のような扱いをしているらしい。

それに、ここからは推測になるが、依然聞いたギフテッドと王家の関係から見るに、ラズさんに頼りきりになってギフテッドの権力が上がり過ぎてしまうのを防いでいるのだろう。

ギフテッドが欲しいと言えば国を渡さなければいけないという、圧倒的に弱い立場の王家側からすれば、なるだけギフテッド以外の力を使って諸問題に対処したいはずだ。


「よし...と」


つらつらと考えながらも並行してレシピのメモを書き終えると横からラズさんの首がぬうっと伸びてきた。


「なんこれ」

「レシピの手帳です。たまにすっぽり忘れてるレシピがあったりするのでメモすることにしてんですよ」

「へぇ、まめだねぇ......師匠ポイントってなんだ」

「基本的には師匠のためにご飯作ってるんですから大事でしょう?」

「ま、まぁ...?」


レシピ帳には作り方の他に、味の概要やどんな季節に合うかなどを書いているのだが、ふと思い立って”師匠ポイント”なるものを追加したのだ。

ラズさん以外に作ることはほぼ無いし、ラズさんの好みかどうかというのは私の料理においては非常に重要な要素である。

それにラズさんは味覚が鋭いので、ラズさんが気に入っている物は余程好みから外れていない限り、他の人に出しても喜ばれるだろうという信頼の証でもある。

ラズさんが好奇心に若干の悪戯心を混ぜた瞳で「ちょっと見ていい?」訊いてきたので、隠すものでもないと手帳を渡すとラズさんはさながらおもちゃを貰った子供の様にかんばせを躍らせた。


―時たま凄く幼くなるの可愛いなぁ...


「ほぇー............ってお前、俺の好み分かりすぎてない?」

「あぁ合ってました?なら良かったです」


表面上は何でもないような振りをしつつも、その実、心の中で思い切り拳を突き上げている私に、ラズさんは関心を通り越して最早畏怖の域といった具合の視線を送ってくる。

その見開かれた美しい瞳には”何故”の二文字がありありと書かれていた。

この際だし、言ってない方の特性も教えてしまおうか。


「あー、言って無かったんですが、私共感覚があって...それだけだったらまだ他にも居ると思うんですが、何故かそれが聴覚情報にも適応されてるんですよね。なのでラズさんが”美味い”って言う声音でどのぐらい気に入ってくれたのかが結構詳細にわかるというか...」


隠していたと言う訳ではないが、言うタイミングが無かった上に、この説明をすると毎度何とも言えない問答をしていたのでそれが面倒だった。

それに、何でも感情が分かるというよりは、皆が勘と経験で判断している他人の感情を私は色で判断しているというだけなので些事と言えば些事なのだ。

おずおずと明かされた事実に、ラズさんは少しずつ目を見開き、その後何故か赤面した。


「分かるってのはどんぐらい分かるんだ?隠してても分かる感じ?」

「いえ、表面に出された色がほとんどで、そこに真意が混ざる感じですね。あくまでメインは表面上の物なので色を見て何でもかんでも分かるわけじゃないですし、色を見たって『何だこの色』ってなる事もままあります」

「あぁ、そう...」


そんな万能なものじゃないと言うと、ラズさんは安心したようにそっと胸をなでおろした。

正に『何だこの色』、となってラズさんを伺うと、「いや、何でも」とそっぽを向いてしまう。まぁ悪い感じではないし、いいか。


「...」

「......」


私たちの間に生ぬるい沈黙が流れる。

私は案外この時間を楽しんでいた。

二人で、何もするんでもなく、ただ、お互いの存在を共有する。

何より落ち着くし、心が癒えていく。

私は、この静寂が好きだ。

少し睡魔を覚えて隣のラズさんにぽふりと凭れると、最初こそびくりと体を固くしたもののすぐに脱力して、ほんの少しだけこちら側に体重をかけてくる。

最近はこうして触れ合う事が多くなった。

この時間、私はもっぱらラズさんの事を考えているが、ラズさんは何を考えているのだろうか。


―ラズさんも私の事を考えてくれてるかな。


そんな淡い希望が泡のように浮かび、弾けたところで私は意識を手放した。


―――――


隣からすうすうと愛らしい寝息が聞こえてきて、俺は勢いよく振り返った。

この馬鹿は眠いと感じたその瞬間から寝ることが出来る体質らしく、時々こうして俺に頭を預けては驚くほどの速度で寝入り、部屋に放り投げられている。

家事全般を何でもこなす上に精神面でも相当成熟しているため、普段は年下と話している感覚があまりないのだが、ふとした時に今回の様な幼い姿を見せてくるのが最近の俺には少しばかり心臓に悪い。

窓から差し込む陽光を浴びてきらきらと光る白髪を撫でると、途端に顔がへにゃりと蕩けて肩に頬擦りをしてくる。

何故こいつはこうも信頼で満ち満ちているんだろうか。

確かに死にかけてた所を助けたのは事実だし、魔法もしっかり教えてはいる。

...だからと言ってこんなゆるゆるになるもんなのか?

こうも愛おしい姿を見せられると、顔に羞恥が上り鼓動が幾らか早くなっているのを意識せざるを得ない。

こいつの真っ直ぐさに思う所が無い訳ではない。

こいつの強かさに思う所が無い訳ではない。

こいつの愛らしさに思う所が無い訳ではない。

ただ、考えないようにしているだけだ。

自分でも分かっている。

少しずつ、けれど確実に自分が惹かれている事を。

けれど俺はその思考を続けることは、結論を出してしまうことは許されない。

今は未だ対等じゃない。

俺は肩をなるだけ動かさないように、ため息をついた。


「なるだけ早く一人前になってくれ」


―未だ、ラズの心労は絶えない。




ちちち、という鳥の鳴き声で起きた私は、風流だと思う反面、煩わしいなぁなんて考えながら、ベットの横に置いてある棚の上にちょこんと乗ったカレンダーを確認した。


「あ、今日か...」


カレンダーには今日の日付が赤でぐるぐると囲ってあり、小さく「お出かけ!」と書いてある。

恐らく眠い時に書いたのであろうそれを、『はしゃぎ過ぎでしょ』なんて透かして見せながらも、その実、私の心中は「お出かけ!」と叫んでいた。

本命の目的は別にあるにしろ、ラズさんとどこかへ出かけるのに心が躍らないわけがない。

私は少し勢いをつけてベットから飛び降りた後、水面越しの様にゆらゆらとぼやけている目を擦りながらカーテンを開ける。

今日は快晴だ。

今日も今日とて太陽が余計なことをしてくれているが、夏の山場は過ぎたので日によっては涼しかったりする。私は『今日はどっちだろう』と、べた塗したような空のてっぺんを眺めた。

空の真ん中に塗られたお手本の様な青から、端に行くにつれ、段々と白んでいく空を見ていると、ふと、境界はどこだろうと探してしまうときがある。

空は必ずしも綺麗なグラデーションではないのだ。どこかの線を境に青になるし、白になる。それは色としての厳密なものではなくて、言語として、青だの白だのの境界がある。

夏でも冬でも、はたまた曇天で灰色の空でも、私はふとした時にそれが気になって、立ち止まってしまう時がある。

ゆっくりと移ろっていく何かを何処かですっぱりと分けて、『ここからこっちはこれ!』と定義するのが好きなのかもしれない。

というか、その色彩上は白でも青でもない場所があまり好きじゃないという可能性もある。考えてみれば、確かにあやふやなのは嫌いだ。

今度ガブエラさん辺りに話してみるのもありかもしれない。あの人は感性が凄く私に近い気がするのだ。

今日も今日とて曖昧な境界線を見つけて、すいーっと指でなぞってみる。

これもいつもの事だが、満足感から一転、途端に馬鹿らしくなって、私は窓に背を向け、身支度の準備を始めた。


お風呂に入ってさっぱりした後、まだラズさんは起きてこなかったので朝食を作り始めるのは少し遅らせ、私はその間、別の事をすることにした。

私はこの前の西区遠征で明確に一つ、後悔していることがある。

それは、お洒落をして行かなかった事だ。

しかし、これに関しては致し方ない側面が強い。あの時はあくまでお仕事の付き添いのつもりで出かけたし、状況的にも緊迫していたのでそんな余裕など微塵もなかった。

だとしても!!

だとしても、一乙女としては、好きな人とお出かけするのならばばっちり髪を編んで可愛い服を着て行きたいのである。

いざ、とクローゼットを開けると、お小遣いで買ったものやラズさんに買ってもらったものが掛けられている。

その中から、季節に合いそうなものをいくつか引っ張り出してベットの上に並べてみた。

目を引くのはラズさんに買ってもらった、ボタンと七分袖がフリルになっている白のシャツと、チェックのコルセットスカートだ。

この組み合わせは自分自身、気に入っているというのもあるが、これを着てフェリアのおうちに行ったときに、フェリアが手放しに絶賛してくれたので少しばかり自信のようなものがある。

が、しかし折角ラズさんと出かけるのならば知らない服を着て行って驚かせたいという気持ちもある。

となると自分で買った、水色のワンピースだろうか。

アクセントとして裾や襟に白のフリルが付いていて、夏らしい涼し気な服装でありながらフェミニンで可愛らしいためこちらも気に入っている。

しかし、如何せんこれはノースリーブなので、人肌があまり得意では無いラズさんにぶっつけ本番で見せるのは些か不安だ。

このコーデだと恐らくショルダーバッグか、アクセサリーをつけることになるだろうが、”見学”と言っても何が起きるか分からないので有事の際に邪魔になる可能性もある。


「ぐぬぬ.....................」


暫く、本当に暫く、それすら通り越してもう一歩奥まで行った所で漸く私は今日の服を決めた。

それ以外の物をクローゼットの中に入れ、最後にもう一度これでいいのかと自問した後、着て行く服はベットの上そのままに部屋を後にした。


「美味かった。ご馳走様です」

「お粗末様です」


ラズさんが起きて来たのでいつもの如くぱっと朝食を作って、二人で食卓を囲んだ。

ラズさんは『美味しかった』と毎回欠かさず言ってくれるのだが、今日の声音はどこか訝しげである。

変なものでも入れたかな、と調理工程を思い返してみても特に変わったことはなさそうだ。

ちらりとラズさんを伺うと、胡乱げにこちらを見てくる。


「今の、美味いも判別されてるってことだよな...?」

「あぁ...」


確かに自分の預かり知らない所で声音を分析され、判断されるというのはどうにも落ち着かないだろう。

シャイでピュアなラズさんに、くすくすと笑ってから、安心させるように微笑む。


「そりゃ気に入ってるかどうかとかは判断しますけど、それをマイナスに取ることは無いですよ?いつもラズさんは美味しい美味しい言って食べてくれますし、その大きさがどうであれ、その言葉に嘘が無いのは分かってます。あと、毎回すっごく感謝してくれていることも」

「...ならいいんだけど」


恐らくラズさんは自分が『美味しい』という事で間接的に私の料理を評価してしまっているのではないかと危惧したのだろう。

私としては「これは美味しい」「これは美味しくない」と評価してもらえるのは有難いのだが、世の中にはそうでない女性が多いらしい。というか、料理をする人にとってその料理を評価されるというのは上から物を言われれているようで気に食わないらしいのだ。

私はひっそりと笑みを深める。

やっぱりラズさんは思慮深くて思いやりのある人だ。そんなラズさんが私は堪らなく好きで、その事実を知っているという事が何より嬉しい。


「...ふふっ」

「な、なんだよ」


酷く困惑した様子のラズさんに、私は誤魔化す様にごほんと一つ咳払いをして、「いえ、何でもないですよ?」と悪戯っぽくはにかんで見せた。




自室の扉の前で少し逡巡する。

もう一度鏡を見て、おかしな所が無いか念入りに確認し、一つ大きな深呼吸をして、えいっと扉を開け放った。


「お、準備で...きた、か...」


私を見るなり、段々と言葉のペースを落として行き、しまいには呆然と口を半開きにしているラズさんに、「この前買ったんですけど......どうですか...?」と申し訳程度に裾をひらひらとさせてみる。

選んだのは水色のワンピースだ。

凄く、すごーく悩んだ結果、シャツとスカートはもう少し後でも着れる上に、寒くなればかえって着こなしの幅が増えるので秋に着る事として、今日は夏らしいワンピースを着て行こうと結論付けた。

しかし、若干露出が多い問題は解決していないため、私としては勝負に出た形となる。

果たして、とラズさんを伺うと、ぽかんと口を開け放っている。

しかし、私と目が合うと少しだけ顔を赤くしながら微妙に視線を逸らして、「あーー...に、似合ってる。と思い...ます」と吹けば飛ぶような声で言った。

その緊張ぶりがこの選択が間違いではなかった事をありありと表現していて、私は思わず飛び上がってしまいそうだった。


「師匠!今のもう一回お願いします!今度はもっとハッキリ!」

「...あぁうるせぇうるせぇ!準備できたんなら行くぞ!」


どったどったと近寄って、腕やら服やらをぐいぐいと引っ張りながらおねだりすると、ラズさんは顔を真っ赤にして頭をガシガシと掻いた。

そのまま玄関に行ってしまうので、すすすっと近寄ってがばりと腕に抱きつくと、ラズさんはまるで機械のように動きを止めたものの、すぐに回復し「この馬鹿弟子が...」と愚痴るように溢した。

どうやら暫くはこのままで居ていいらしい。



「ふふーん。ふふーん。へへ」

「......」


未だ影がずっと前に伸びるような時間に家を出た私たちはぺったりとくっつきながら乗合馬車を目指していた。

今日の私はご機嫌である。

ラズさんとお出かけ出来るだけで嬉しいというのに、今朝頑張って考えた服を褒めてもらえたのだから女の子としてこれほど幸せなことは無いだろう。

ラズさんをがっちりと捕まえているこの腕は、勿論くっつきたいというのもあるが、その実放っておくと踊りだしそうなのを何とか抑えているという側面もあったりする。

実にご満悦といった様子で鼻唄さえ口ずさむ私に、ラズさんは呆れるのやら恥ずかしがるのやら暑がるのやら、色々な感情を言ったり来たりしているようだ。

確かにべったりくっつくのは良くないかもしれない。暑いし。

そう思っだが、ただで腕を開放する程私も馬鹿じゃないのでここは『代わりに手をつなぐ』という事で手を打とうと思う。

提案しようと口を開こうとした瞬間、後ろから「あっ」っと聞き覚えのある声がした。

私はばっと、ラズさんはぎぎぎと音がしそうな程ぎこちなく振り返った先にいたのは、いつもの白衣姿から一転、シャツにスラックスというラフな姿をしたガブエラさんだ。

私たちの密着度合いを見て、次第に「あらあら、まあまあ」といった具合の表情をしていく様はラズさんから見れば悪魔そのものだろう。

というのを何処か他人事として受け止めつつも、このままではラズさんが茹で上がってしまう可能性すらあるので、一旦ラズさんの腕は開放してしまうことにする。


「おはようございます。ガブエラさん。今日はお仕事お休みですか?」

「うん。って言っても休み取れたのは午前だけで午後から仕事なんだけどね。はは...」

「あぁ...」


音でこそ笑っているものの、目が全く笑っていない。というか感情の一切を感じさせない深淵そのものとさえ言えてしまいそうな色を湛えた瞳は、これ以上この事について言及する事を許さないものだ。

ほんの少しの間は虚ろに地面の何処かを見ていたが、流石はガブエラさんといった所か、すぐにいつもの調子に戻り「二人はお出かけ?」と聞いてくる。

私はラズさんの袖をぐいぐいと引っ張って『この人のおかげで今ご機嫌です!』とアピールしながら「そうなんです」と答えた。


「珍しいね。引きこもりのラズがわざわざ外に出ようとするなんて。ねぇ?ラズ?」

「...まぁ」


すいーっとラズさんに視点を移したガブエラさんとは対照的に、すいーっとガブエラさんから視点をずらしたラズさんは低く呻くように言い、頭をガシガシと掻いた。

あ、これはそろそろ限界だな、と思った矢先、ラズさんが「もういいだろ、行くぞ」と私の手を取って歩き始めてしまった。


「わっ。じゃあガブエラさん、また何処かでー」

「はいよー。楽しんできなーー」


ラズさんは私の手を取りながらずんずんと歩いていく。

私から提案するつもりだった上に、余程の人混みに行かない限り自ら手を繋いでくれることなんてなかったのでちょっとどきどきしながらも、恥ずかしさに気を取られて歩くペースが大分早くなってしまってる所なんかは可愛いなぁと思いつつちらりとラズさんを伺うと、そこで漸く私が若干小走りになっていることに気づいたのか「あ...スマン」と歩幅をいつもの私に合わせてくれた。

私が「いーえ?」と見せつける様に繋いだ手を振り、悪戯っぽく笑って見せると、ラズさんは今度こそ茹蛸の様に真っ赤になって顔を手で覆ってしまった。

『これはやりすぎたかなぁ』と一瞬考えたが、ラズさんは放っておくと割と回復するタイプなので、乗合馬車で回復してもらえれば旅先でもこのまま、という事は無いはずだと結論付けた。

この際、バクバクと駆けるラズさんの心音は聞かなかった事にしてあげよう。




乗合馬車をいくつか乗り継ぐこと二時間と少し。

太陽もすっかり天高く昇ってギラギラと存在を主張し始めた頃に、私たちは件の北の街に着いた。

てっきり先に見学をしてから観光するものだと思っていたのでラズさんに予定を確認すると、まずは差し入れを買ってから見学に向かい、その後改めて観光をする予定だそうだ。

なんでも『俺が行くとどうしても気を遣わせるからせめても』との事。

『こういう所は案外マメだよなぁ』なんて思いながら馬車を降りると、今まで見てきたどの街とも明らかに異なる配色に視界が弾けた。


「わぁ...」

「綺麗だよな。ここ特有って感じ」


眼前の町並みは色が綺麗に統一されていた。

つるりとした気品に満ちた銀白色と、涼し気で景観を纏めつつもどこか茶目っ気のある天色が、見渡す限りに広がっている様は圧巻というほかない。

雲一つない晴天が差す日光を浴びてきらきらとその相好を変えていくのがどこか愛らしい。


―気分屋の女の子みたいだ。


「おい、いつまでも立ち止まってたら邪魔になるぞ」

「あ、は、はい!」


余りの景観に圧倒されると、人は思考の速度が落ちるのかもしれない。

平時の半分かそれ以下のスピードでゆったりと感想を抱いていたらしい私は、気づけばそれなりの時間立ち止まっていたらしく、乗合馬車から降りて行ったはずの人たちは忽然と姿を消していた。

慌てて着いていくとラズさんは手を差し出しながら「ん」と一言。

まさかラズさん相手に真摯さやスマートさなんぞ求めはしないが、余りにぶっきらぼうなその姿勢にくすくすと笑いながら、『紳士にされたらされたで照れちゃいそうだからこれでいいか』と己を納得させて手を取った。


「差し入れ、何買うんです?」

「ドーナツかなぁ。ここら辺で美味い物それぐらいしか知らないんだよな」

「ドーナツ!いいですね、私も買います!」

「いや、まとめて大量に買っちゃうからそっから取って食えばいいよ」

「む。それならお言葉に甘えます」


どうやらラズさんは既にこの街に来たことがあるようで、恐らくドーナツ屋に向かう足取りには迷いが無い。

するすると小道を抜け、階段を上り、大通りに出ると、ピタリとラズさんの足が止まった。


「迷った」

「......っく...あははは!ははは!」


どうやら迷いのない足取りは生来の歩き方らしく、その実頭の中ではあっちかこっちかと試行錯誤していたらしい。

私がけたけたと笑っていると、ラズさんは顔をわずかに赤くしながら頭をぼりぼりと掻いて「仕方ないだろ、そんな来た事無いんだし」と言い訳の様に溢した。

その姿が言い訳をする子供の姿そのままだったのが余計に私のお腹を擽り、尚も笑い続けていると遂にカチンときたのか「このクソガキぃ」と私の頬をかるぅく引っ張った。


「ひひ...ははは...はは...ふぅ。いや、丁度土地勘あるんだなぁと思ってた矢先に言うもんですから、面白くてつい」

「...この街は風景がほぼ変わらんから分かりづらかっただけで方向感覚は正常だぞ」

「あぁ、言われてみれば確かにそうですね。建物がこうも一色だと覚えにくそうです」


確かに景観として見るのであればこの町並みは一級品だが、実際にこの中を歩くとなると風景が変わらなさ過ぎて不便だろう。


「どうしよっかなぁ」

「......あ、聞こえましたよ?”ドーナツ”」


私とてただ笑い呆けていたわけではなく、ラズさんが迷ったと言ったその時から耳をフル稼働させて周囲の音を拾っていた。

丁度叔母様が『ドーナツでも買って行こうかしら』と言っているのが聞こえたのでそれを伝えると、ラズさんは暫く訝し気な顔をした後、この前のやり取りを思い出したらしくはっとしたと思えば、みるみるうちに畏怖と同情を混ぜたように「いや...有難いんだけどさぁ...お前も大変だな」と言った。


「いえ、そうでもないですよ?今回はいつも遮断してる所まで広げたってだけですので」

「えぇ...切り替えまで出来んのかよ」

「まぁ出来ないと情報が飽和しちゃうので...」


昔はこれが出来ないばかりに夜寝付けなかったり熱を出したりとそれはそれは不便だったものだ。

懐かしむようにしみじみと言うと、ラズさんは純度百パーセントの同情を向けてくる。

まぁ過去の事を考えても仕方あるまい。それに今はこうして便利だと思う事の方が多くなった訳だしこの聴力を疎ましいとは微塵も思わないので結果オーライなのだ。

少ししんみりしてしまった空気を切り替える様に私は手をぱちんと打ってにかっと笑って見せる。


「そんなことはどうでもいいんですよ!早くドーナツ買わないと、魔獣の駆除終わっちゃうかもしれないですよ?」

「...ま、そうだな。とっとと行くか...ってことで案内タノム」


ラズさんは少しの間、真意を確かめる様に私の目の真ん中をじっと見ていたが、私の調子を見て意思を汲んでくれたらしく切り替える様にぐいーっと伸びをした。

最後はどこか情けない様に頼み込むラズさんだが、これは恐らく雰囲気を戻すためにおちゃらけてくれたのだろう。

手の取り方こそ紳士的とは言い難いが、このようにこちらの意思を汲んで求められている行動をすっと行える所はラズさんの良い所だ。寧ろスマートに振る舞う事を表面的な紳士さとするのなら、ラズさんのこれは本質的な紳士さと言えるだろう。


「やっぱり好きだなぁ...」

「―ん?なんて?」

「あ...い、いえ!何でもないです!!ほら行きましょう!」


つい本音が口から漏れ出てしまって焦る私に、ラズさんは本当に聞こえなかったのか怪訝そうな顔を向けてくる。

この頃は何かにつけて繰り返し繰り返し思っていたのでついつい口をついて出てしまったようだ。

この話を言及されても困るので、私は強引にラズさんの手を取って声のした方へ歩き始めた。


なんとかお目当てのお店でドーナツを買った私たちは、主要都市から東に少し行った所にある森林に足を踏み入れた。

魔力検知を展開すると三十人ほどの魔法使いと、その奥の五百体ほどの魔獣を確認できる。

どうやら魔獣は移動しているわけではないらしく、イメージとしては、先日のラズさんの様な差し迫った脅威への対応というよりか、後々の不安要素を摘んでおくものと言った方が近いかもしれない。

ざくざくと森にしては整備されている道を歩いていくと、切り開かれた土地に簡易的な野営地が築かれた場所に着いた。恐らくここが臨時的な活動拠点なのだろう。

ラズさんが歩いていく方向には一つだけ色の違うテントが張られているので、あそこに今回の魔獣掃討作戦を指揮する人が居るはずだ。

些か緊張し、ついさっき離した手でラズさんの袖をぎゅっと握ると、ラズさんはほわっと笑って「良い人だから大丈夫」と私の髪を少し梳いて中に入った。

慌ててラズさんの背を追うと、中では真っ白に染まった髪を短く刈り込み、眉間に皺を寄せながら口をへの字に曲げている、まるで巌のような人が新聞を読んでいた。

入ってきた私たちに気づいたのか、新聞からチラリとこちらを覗く赤銅の眼光は今まで狩ってきたどの魔獣よりも鋭く、威圧感のあるもので、見定めるかのような視線が私を貫く。

たまらず握っていたラズさんの袖に飛びつくと、ラズさんはこの状況を想定していたかのように余裕ありげな表情で噛み殺したように笑った後、とんでもない存在感の老兵に向き直った。


「お疲れ様です。グラードさん。また目悪くしたんですか?」


まるで仲のいい友達のおじいちゃんに話しかけるようなフランクさで声をかけるラズさんに、少々、いや多分に肝を冷やしはらはらと件の老兵を伺うと、今までの堅物そうな雰囲気から一転、にんまりと人付きしそうな顔で、「おお!ラズか!」と喜色も顕に顔を綻ばせた。

あまりの転身ぶりに肩透かしを食らったように呆けていると、ラズさんが「言っただろ?良い人だって」と耳打ちする。

にしたってあの顔で新聞読んでる筋骨隆々の老兵がいたら萎縮するでしょうよ…とラズさんの言葉足らずを少し恨みながら、グラードさんの様子を見てみれば、まるで孫が家に来た時のおじいちゃんの様に顔を緩めながら、えちっらほっちらと簡易的な椅子を広げている。


「すまんなぁ、茶菓子のひとつも出せなくて」

「それなんすけど、差し入れ持ってきたんで、よかったら皆で食べてください」

「おぉ…ラズの差し入れはハズレが無いからなぁ…」

「ハードル上げるの辞めてくださいよ。一応色んな種類買ってきたんで、口に合えばいいですけど」


どうやらラズさんの味覚は広く信頼されているようで、ラズさんから差し入れという言葉を聞いた途端にグラードさんはキラキラと満面の笑みを浮かべた。その姿はさながら少年である。


味な人だなぁ、なんてほんわかしていると急にラズさんの手が私の両肩に置かれ、グイッと前に突き出された。


「紹介しますね。こいつが何ヶ月か前に採った弟子です」

「ラズが弟子…!?」


普段の教え慣れしている様子からは想像も出来ないが、そういえば私がこちらに来る以前のラズさんは弟子を採らないと言って聞かなかったそうなので、グラードさんも例に漏れず、驚きに細い目を目一杯見開いている。


「あ、えっと、マリエル…です!少し前から師匠に師事してます!」


最初言葉につっかえたり、名前を全て言うか迷った結果中途半端になったりと、相も変わらず酷い自己紹介をしてしまった。

対するグラードさんはぽかんと口を開けて心ここに在らずといった様子だ。

何か変なことを言ってしまったのかと滂沱の冷や汗を書く私を見かねたラズさんが、「あのー、グラードさん?」とここでは無いどこかを見ていそうな視線の先で手を振ってみせた。

するとグラードさんも漸くこちらの世界に帰ってきたらしく、ぱちぱちと目を瞬かせながら「あぁ、失敬失敬」と頭を振る。


「グラードじゃ。こんな老いぼれじゃが、一応魔法使い指南役代表をやってるから、何か困ったら頼ってくれると嬉しい。」

「あ…はい!不束者ですがよろしくお願いします!」


正直、聞きたいことは山ほどあったが、出会って早々にあれこれと人の情報を聞くのは失礼に当たりそうなのでグッと飲み込み、ぺこりと頭を下げると、グラードさんもゆっくり丁寧に腰を折った。

ここからは積もる話を消化しつつ作戦の概要を話すことになり、グラードさんの協力で首尾良く差し入れを配り終えた私たちは、元の真っ白なテントの中に戻って机を囲んだ。

グラードさんがお茶を淹れてくれるそうなので、私たちは差し入れで持ってきた箱を広げて、各々が取りやすいように机に並べる。


「グラードさんて凄い方なんですね」

「そうだな。魔法使いとしては文字通り一級だし、指南役代表になるだけあって教えるのも上手い。今回みたいに大規模な作戦の指揮を執ることも少なくないから統率力もあるし、見てわかる通りムッキムキだから騎士としても十二分に動ける。俺の尊敬する恩師だよ」


聞くタイミングは今しかないと思い、こっそり話しかけると、ラズさんは自分が褒められた時よりも誇らしげな顔をしながら、あれやこれやとグラードさんの凄いところを教えてくれる。

その音は信頼に満ち満ちており、本人の言う通り、ラズさんはグラードさんを深く尊敬しているようだ。

奥の方、と言っても簡易テントの中なのでさほど距離が離れている訳でもない所でお茶を淹れていたグラードさんは「あっち」と手を引っ込めたあと、恨めしげにこちらを見てくる。


「褒めたってなんも出んからな」

「お茶が出るっすね」

「…せめて聞こえん所でやってくれ…小っ恥ずかしい」

「いやぁ、まさか聞こえてるとは。ははは」


イタズラっぽく笑ってみせるラズさんに、新たな一面を見たような気がして悶えかけているとグラードさんが席に戻って来た。


「じゃあ食べながら説明しようか」

「おいっす」

「はい」


正直なところお昼を食べていないのでかなりお腹が空いていた私は、眼下に広がるドーナツ達を暫し睥睨した後、先ずはオーソドックスなものからと、トッピングが何も無い、如何にも普通のドーナツ然としたものを手に取った。


「今回は長期戦を予定しておる。一級の魔法使いが儂しかいない以上、力押しでどうこうは厳しいからな」

「まぁ、人手不足ですもんねぇ…」


一口食べて見ると、さっくりとした食感で歯切れよく食べ進められる上に、ほのかに砂糖の甘みが香って飽きが来ない。

これぞまさにドーナツと言わんばかりのベーシックさだが、故に店自体のレベルをまざまざと感じる。


「それもあるが、最近は一級を目指す若者が減っているらしい。確かに給与は上がるが忙しいからなぁ」

「まぁ...その気持ちも分からんでもないんすけど、こっちとしては流石に厳しいっすよね」


あっという間に一つ目を食べ終えた私は、もうどれを食べても美味しいだろうという確信に基づき、自分の位置から一番近い所にあったドーナツを取った。


「まぁ、嘆いても仕方があるまいよ。でだ、魔獣が発生した場所はここから少し西の洞窟周辺なんじゃが、如何せん数が多い」

「そうっぽいですね。五百はいるかな?」

「いるじゃろうな…。それを生真面目に一匹ずつ狩っていては日が暮れてしまう。そこで作戦を用意した」


丸いフォルムのそれは、ふわふわのパン生地の中にクリームがぎっしりと詰まっているもののようで、ぱんぱんに膨れ上がった姿はいつぞやの団子と似たような感情を想起させる。

何故か『ごめんなさい』と一謝りしてから、思い切ってがぶりと頬張ると、どっしりとしたクリームが口いっぱいに広がり、思わず表情をだらしなく緩めてしまった。

個人的にはふわふわとしている軽めのクリームの方が好みなのだが、ドーナツの中に入れるのであればずっしりとした重めのクリームが正解だと思わせるには十分な満足度である。


「端的に言えば、魔獣を洞窟まで誘導し、水魔法で一掃する」

「まぁ一番手っ取り早いですよね」

「そうじゃな。順序としては三十人で魔力を集め、そこらに跋扈する魔獣を周辺に集めた後、それらを一斉に魔石に変換して洞窟に放り込み、奥まで誘導したところで水責めで叩く、という流れじゃ」

「いいですね。グラードさんらしい作戦で。だそうだけど…聞いてた?」


もぐもぐと口いっぱいに幸せを堪能していると、不意に唇の横あたりにふにっと指が触れる感触する。

不思議に思いながらそちらを見ると、ラズさんがとても残念な子を見るような目でこちらを見ていた。

伸ばされた指にはクリームが付いているので、どうやら私の口の端に付いてしまったクリームをとってくれたらしい。


「はぁ…このあほが…」


心の底から呆れた様な声で呻くラズさんに、グラードさんはガッハッハッと景気よく笑って、「まだまだ可愛い盛りの女の子じゃないか」と窘めるように言った。

ついついドーナツに夢中になってしまって、穴があったら入りたい思いで身を縮めていると、ラズさんがぺろっとクリームの付いた指を舐めて、「じゃあ俺からもう一回言うから聞いとけよ?」と言う。

その仕草が今まで見てきたどんな仕草よりも男性的な蠱惑さを孕んでいて、私は堪らず顔を赤くし、口をぱくぱくとさせるぐらいしか出来なくなってしまった。


「―っていう流れなんだけど…って聞いてる?」

「……きゅうぅぅ………」

「あ!?おい、大丈夫か!?」


目を回し、顔を首元まで真っ赤にして倒れ込んだ私をラズさんはギリギリの所で受け止めた。


―不意打ちは反則だと思います……


「おい!どうした!?熱か!?」


しゅーっと湯気すら出していそうなほど真っ赤になった少女の肩を抱きながら、控えめにゆさゆさと揺らすラズを見てグラードはため息を一つ吐いた。


「…今のはラズのせいじゃろて」



「そろそろだな」

「みたいですね。空気がそわそわしてます」


何とかオーバーヒートから回復した私は、ラズさんと供にテントの中で寛いでいた。

グラードさんはつい先ほど魔法使いの人に呼ばれて外に出て行ってしまったのでテントの中はラズさんと二人きりだ。

準備が整い次第作戦を実行すると言っていたので、その準備とやらが終わり、グラードさんが呼ばれたのならばそろそろ始まると考えて良さそうだ。

おまけに空気が一段と引き締まり、緊張感の様なものが耳朶を擽るこの感覚は、私たちの推測が概ね正しい事を物語っている。

様子でも見に行こうという事で、ラズさんと供にテントからひょっこりと出てみると、丁度こちらに向かって来ていたグラードさんと鉢合わせた。


「もうそろそろですよね?」

「あぁ。もう指定の位置に全員集まっておる。後は計画通りにやるだけじゃ。派手さこそ無いが、まぁ見て行ってくれ」

「世話になります」

「お、お邪魔します」


くるりと踵を返したグラードさんの概ね魔法使いとは思えない背中を追うと、ぽっかりと大口を開けている洞窟とその周りを半分だけ囲うように並ぶ魔法使いの方々が確認できる。

魔力検知で確認できる魔獣の動きから違和感を感じてはいたのだが、この洞窟、中々に癖の強い形をしていて、山から繋がっているのではなく全くの平野にぽっかりとほぼ垂直に伸びているのである。ほぼ垂直と言っても、あくまで急な坂の形容としてであり本当に垂直なわけではないのではないので、落ちたら確実に死ぬような物でもなければ魔獣が怖がって中に飛び込まない程でも無いのが非常に都合がいい。

魔石を放り投げたところでたかが知れているのでは、と思っていたが、縦に伸びる洞窟ならば坂の角度に合わせて放ってやるだけでかなり奥まで入ってくれるだろう。


「では...作戦開始!」


ぼけっと考えていると、まるで冬場の冷水の様なグラードさんの声がぴしゃりと開始の音頭を取った。

それに呼応するように魔法使いの方々が魔力を一転に集めていく。


「......結構ゆっくりやるんですね」

「...あれが平均だぞ。何ならそれ以上だな。大分優秀な魔法使いが集まったらしい」

「...え?」


目の前に集まっていく魔力は、私やラズさんのものと比べるとかなり遅い。

ラズさんの言葉を鵜吞みにするなら私やラズさんの魔力の収集速度は、平均より少し優秀な魔法使いの三十倍以上という事になる。

魔力の収集に関しては私固有の魔法でも同じ動作を求められたため、ラズさんと遜色無い程度の速度を出せるので些かその差異に驚きはするものの、それよりはるかに私を驚かせている事実が一つあった。

花が咲いたような柔和な笑みが頭に浮かぶ。

ふと考えたのは、私と同年代の魔法使い、フェリアの事である。

流石に何年も何年もやっている事なので収集速度に関しては私に大きく分があったが、それでも今目の前で行われている物と比べれば、ハッキリ言って比較にならない程フェリアに分がある。

フェリアからは魔学院に通っているという事しか聞いていないため、実際の出来がどうだとか、成績がどうだとかに関して、私は全く知らない。


―フェリアって実はものすごく優秀な魔法使いなんじゃ...?


「あの、ししょ―」


ワォォォォォォォォォン!!!!!


くいと袖を引っ張ってラズさんにフェリアの事を話そうとすると、そこまで遠くない位置から狼の遠吠えが響き渡った。

恐らくは魔獣化した狼が魔力に反応して遠くの仲間を呼んでいるのだろう。

狼は魔獣の中でもかなり厄介な部類に入る。

すばしっこくて狙うのが難しいことに加えて、角の生えた個体は雷属性の魔法を撃ってくるのだ。中でも角が二本生えている個体は高威力の物をひょいひょいと逃げ回りながら撃ってくるので討伐が難しく、依頼による事故率もさることながら、年間に必ず十人程度は死者が出る。

今回はしっかりと作戦が練られているので被害が出るような事はまずないだろうが、かつて森で遭遇した時、自慢の白髪を少し焦がされた事を思い出して眉間に皺が寄った。


「狼かよ...」


ラズさんも遠吠えを聞くなり面倒そうな顔で低く呻いた。

魔力検知で見る限り、もうすでに端の方にいた魔獣も反応してこちらに向かって来ているのでそろそろ魔石に変換し始めてもいいはずだが、普通は魔力検知を俯瞰視点で見る事は出来ないらしいので、魔法使いの方々は恐らくうち漏らしが無いようにと丁寧に魔力を集め続けている。

それにしても何だろうか。

この言い知れない違和感というか。何か重要な事を見落としているような、そんな浮つき。

ふとラズさんを見る。

特にいつもと変わった所は無い。不思議な色の綺麗な目に高く整った鼻梁、しっかりとした真っ黒の髪とそこから覗く桃色の輝き―

待て。このピアスは私とラズさんが魔力を込めて作った物だ。作るのにそれほど時間はかからなかったが、今目の前に集められた魔力とは比較にならない程魔力が詰まっているのは言うまでも無い。それが私の分も合わせれば二つ分もあるのだから、魔力におびき寄せられる習性を持つ魔獣は、洞窟の中に放られた魔石なんて目もくれず私たちに向かって突撃してくるのではないだろうか...?

そこまで考えた私は弾かれたように顔を上げ、ラズさんの腕をぐいぐいと引っ張って手筒を作り、少し背伸びしてこっそり耳打ちした。


「あの、私たちのピアスが魔石で出来てるなら込められた魔力量的に洞窟じゃなくてこっちに来るんじゃ...?」

「...あ」


ラズさんは暫し呆気にとられたようだったがすぐに調子を取り戻し、私に目配せして魔力を集め始めた。

私もそれに倣う形で出来るだけ早く魔力を集めていく。

その前提で魔力検知を確認してみれば、魔獣は集められた魔力の位置から若干ずれたところに向かって来ているのがよくわかる。何を隠そう私たち見学者の位置なのだが。

流石の狼と言ったところでもうかなり近くまで来ているのでちんたらしている暇はない。私に関しては魔力から魔石への変換に手こずる可能性があるので、リカバリーできる様に自分が出せる最高速度で魔力を集めていった。

ラズさん曰く”ぎゅっと”魔力を集めていくと、ある所を境に薄桃色の光がうっすらと漏れ出てくる。

どことなく存在感が疑わしい、ともすれば目の不調とさえ思えてしまいそうな不思議な光は、魔力を固めていくにつれどんどんと実物味を帯びてきてほの暗い周囲をハッキリと照らす様になり、光が落ち着いた頃には手のひらにビー玉程の大きさの透き通った桃色をした魔石が乗っていた。

前回に作った時よりも桃色が濃くなった気がするがこれは果たして良い兆候なのだろうか?

隣のラズさんは私のそれと打って変わって静かに魔石を作り終えたらしい。

前回作った時には私の物も光は出なかったので、恐らくだが急激に魔力を集めすぎて幾らかの魔力が飽和してしまったのだろう。

ラズさんは私と違って速度を出しながらも精密に魔力を集めることが出来るので飽和することもなく作り終えた、と言う訳だ。まだまだ師匠の背中は遠いらしい。

耳を澄ませると魔獣の足音やら荒い息の音が聞こえてくる。


「急ぎましょう!かなり近いです!」

「おう」


急いでグラードさんの所に駆け寄ると、グラードさんは作戦中にこちらに来るとは微塵も思っていなかったようで酷く驚いたように私たちを見た。


「かくかくしかじかで俺らの魔石も洞窟に入れます!」

「は!?い、いやそれは構わんが...」

「すみませんグラードさん。あまり時間もないので説明は後にさせて下さい。私たちの魔石を渡しますから後は頼みました!」

「む...確かに...近いな。分かった。預かろう」

「たのんますよ!」

「お願いします!」


渡すだけ渡して、邪魔になる可能性があるのでさっさとその場を離れると、グラードさんが「変換、開始!」と魔石変換の合図をすると供に洞窟に近づき、出来上がったいくつもの魔石たちと一緒に洞窟に私たちの魔石を放り投げた。

全ての魔石が洞窟に飲み込まれたのをしっかりと確認し、「撤退!」の合図で全員が安全な少し小高くなっている本拠地に戻ってくる。

間もなくして、夥しい数の魔獣が土煙を派手に上げながら洞窟に吸い込まれていった。

洞窟と本拠地は見通しこそ悪くはないものの、些か距離が離れている。

しかしそこは流石の魔法使い殿と言ったところか、誰一人として失敗することなく水魔法を発動させ、たちまち洞窟の入り口から、溢れた水と溺れ死んだ魔獣の死骸が出てくる。

ほっと息をつくと、隣のラズさんと完全にタイミングが被ったらしく、一瞬気づかない程同じ調子で同じ音が聞こえてきた。

ラズさんを見ると、ラズさんも嘆息が被ったことに気づいたのかこちらを見て、私たちはどちらからともなく笑った。

久しぶりに急激に魔力を集めたせいでくらりと眩暈がしたかと思えば、気づいた時にはラズさんに寄り掛かる形になっていて、ラズさんは軽く私の肩を抱いてくれていた。

じわじわと圧迫されるような頭の痛みと倦怠感に耐えながらラズさんに体重を預けていると、ざくざくと土を踏み分ける音が後ろから聞こえる。グラードさんだ。


「あ、お疲れ様です」

「お疲れ様。で、結局何だったんだ。マリエルも疲れ切っておるじゃないか」


グラードさんは労わる様にこちらを見て、暫く検分するように無精ひげを撫でていたが会得言ったように「うむ」と頷くと、私の目を真っ直ぐ見ながら言った。


「こりゃ、栓の開けすぎだな。明日は安静にした方がいいかもしれん」

「え、そんなにですか?」


今まで魔力をどれだけ使たところで寝れば治ると思っていたので驚いて聞くと、さも『大事なことだ』と言わんばかりにゆっくりと頷き口を開く。


「魔力の栓は酷使したら休めなけばならん。段々と緩くなっていって調整が出来なくなってしまうからな。そうやって若いころ自分に無茶を言わせて魔法をろくに使えなくなった同僚を飽きるほど見てきた」

「な、なるほど」


初めて聞きましたけど?と伺う様にラズさんを見れば、ラズさんはグラードさんには見えない角度で「しーっ」と指を口に当てた。

なるほど。特異体質が関係しているのならグラードさんが忠告してくれることも、ラズさんがそれに関して言及しなかったことにも説明がつく。

ラズさんはこれ以上の言及を避けるためか、詳しくは語らず「さっきのはですね」と顔を横に向けながら話を逸らした。

ラズさんの耳にぶら下がった桃色の魔石がグラードさんの前に晒される。


「これ、魔石で出来てるんですけど、大分魔力を込めたので洞窟に入れる分の魔石だと魔力量で負けちゃってこっちに来る可能性があったんですよ。なので即席で魔石を作ってそれも一緒に洞窟に入れることで状況をイーブンに戻したって感じです。いやぁ賢い弟子を持ってよかったですよ。ホント」

「あぁ、なるほど...ってお前が気づいたわけじゃないのか!?...ラズ、こういうのもあんまりだが...情けないぞ」

「...はは......」

「ふふっ」


何処か見覚えのある、出来の悪い子供を見るかのような目を向けられたラズさんは表面上は笑っているのだが、どこか虚ろな表情をしている。

そのちぐはぐな表情がおかしくてつい声に出して笑うと、ラズさんが不服そうな視線を送ってきた。

このままだとへそを曲げてしまいそうだったので、口の形だけで『冗談です』と言ってはにかむと、ラズさんは虚を突かれたように目を見開いてゴクリと生唾を飲んだ後、どこかぎこちなく頷いて下手っぴに笑った。


無事魔獣も狩り終えてグラードさんと少しばかり話した後、私たちは森を後にして街に戻っていた。

街に着いた頃には昼食の時間はとうに過ぎた所だったのでご飯を求める人足は大分落ち着いている。私もラズさんも待つ事自体は全く苦にならない性分だし、なんならたくさんお話出来るのでそれはそれで嬉しいのだが、とは言っても無いに越したことはないのは確かだ。


「どこ行くー?」

「うーん。何があるんでしょう?」


いつもの様に選択肢を丸投げしてくるラズさんだが、今回に限っては私もその気持ちが良く分かる。

何しろこの街は看板の類がほとんどないのだ。何のお店かを判断するにはガラス越しに中の様子を伺うしかない。

景観は素晴らしいものの、些か不便なのは否めない。

加えて、今の私は先ほどの疲れからか能動的に何かを考えるという事が上手くできない。平たく言えばぼーっとしているわけだ。

いつもならこうして判断を任された時、すぐにあれやこれやと考え始めるのだが、今日はその素振りが一切ない事にラズさんも気づいたらしく、「まぁ」とさも何でもない様に言った。


「適当に見て回って、良さそうな所があったら入ろうか」

「...その、ごめんなさい」


あの程度で疲れてしまった自分への不甲斐なさを責める様に謝ると、ラズさんは少しだけ眉に皺を寄せた。

その瞬間に自分の失敗を悟り、また呆れられることを覚悟したが、こちらを向いたラズさんの顔は、呆れではなく純粋な困りで満ちていた。


「何に謝ってるんだ?」

「い、いや、その、折角のお出かけなのに...」

「別に今日に限らずお前がどっか行きたいところあるなら連れて行ってやるって。だからそんな凹むなよ。な?」

「...はい......」


最近のラズさんは撫で方を変えて意思を伝えてくる事がしばしばある。

今回の、髪に含んでる空気を抜くようにぽふぽふと撫でてくるときは『気にしなくていい』という楽観を促している場合が多い。

ラズさんは私の髪をもふもふしながら何事か思案していたようだったが、すぐに「うん」と恐らく自分に向けた納得をして、私を真っ直ぐに見た。


「多分さ、この街は他の街と違って、色んな店に入ってあれこれ食べたりあれこれ買うっていうよりかは、どっかの喫茶店でも入ってゆっくり景色を見るって方が観光の仕方としては正しい気がするんだよな」

「なるほど?」

「てことで、どっかゆっくり出来るとこ探すか」

「...はいっ...!」


気を遣ってくれたんだろう。

先ほどの思案は察するに、「どこかでゆっくり休む理由」と「観光の方向性」、「その正当性」を後付けで考えてくれていたわけだ。そうでもしないと変な所で頑固な私は罪悪感を払拭することは出来ないから。

いいんだろうか。

ラズさんは私の事をこんなにも理解してくれて寄り添ってくれているのに、私はそれにされるがまま。そんな調子じゃいつかラズさんは私を見限ってしまうのでは―

自責と自問で頭がいっぱいになっていると、するりと、何でもない様に手を取られた。

ラズさんはそのまま何も言わずに歩き始める。


「あ、あの...?」


手を引かれる形でラズさんに付いていき、困った様に伺う私をラズさんは一瞥した後、足を止めず言う。


「お前、さっき魔力を集めるとき、無意識に自分の魔法を使ってたぞ。魔力の集まり方が普通の魔法使いじゃ不可能な速度だった」

「え...」


”さっき”と言うと、恐らく魔石を作る前段階の時だろうか。確かに今考えれば、あの時の集まり方は常軌を逸していたと言わざるを得ない。魔力の収集速度の限界に達しても尚、『集めなければ』という願いが先行した結果、無意識のうちに私の魔法を使って収集の速度にブーストを掛けていたらしい。

そうと分かってしまえば体を支配する倦怠感も、先ほどのネガティブな思考にも納得が行く。

繋がれた手のひらからじんわりとぬくもりが滲んでくるのを意識しながら、今度はへらっと笑って「有難うございます」と言えば、ラズさんは「それでいいんだよ」と鼻を鳴らした。


「気弱ですぐ謝るお前も新鮮で面白いが、やっぱり明るくて真っ直ぐなお前の方が俺は好きだね」




とことこと変わり映えしない美しい景色を見ながら歩くこと半刻弱。

漸く見つけたお店はほぼ崖の様な切り立ったところに立っており、その立地のせいかほとんど客足も無い静かな所だった。高台になっているので、日の光をちかちかと反射する町全体を見下ろすことが出来る。ここまで歩いてくるのに些か苦労したことは否めないが、成り行きでここまで良さそうなお店を見つけられたのだから万々歳だろう。

ラズさんが余り気負いしない様子で扉を開けると、長い年限を経て劣化した蝶番の控え目な悲鳴と、これまた控え目にちりんと鳴るベルにお出迎えされる。ベルの音を聞いてこちらに駆け寄って来たのは意外にも二十から二十五あたりの若い女性だった。オズにどことなく雰囲気が似ているのでてっきりしわしわのおじいちゃんが経営しているものだと思っていたので、一瞬理解が追い付かなくて首を傾げてしまった。

別に若い女性が喫茶店で働いているという事になんの不思議もないと気づいた私ははっと首を戻し、誤魔化すように店内を回し見る。

内装は木材が中心のクラシックで落ち着いた雰囲気の物が多く、白と青に塗れた街の風景とは対照的に、年期の入った木材の黒に近い焦げ茶色と、クッションやライトに使われている深い赤が印象的だ。

『まーたラズさんが穴場見つけてら』と感心や信頼を通り超して最早呆れの域に達した感情を抱いていると、若い女性の店員さんが席に案内してくれた。

通されたのは窓際で、かなり大き目の窓から町が良く見渡せる。


「綺麗ですね」

「ちょっと眩しいけどな」


確かにほとんどが白で構成されている町並みは日の光をかなり反射するので眩しいと言えば眩しい。

それを風情だと訴える大人マリエルとラズさんと同じく眩しいと駄々をこねる子供マリエルの間で板挟みになった私は、確認としてもう一度窓の外の景色を見た。顔を向けた途端にぎらりと目に痛い光が飛び込んできて、やっぱり眩しかったので極々小さな声で「確かに」と賛同した後、店員さんに聞かれるとよろしくないかと思い、人差し指を立ててしー、っと合図する。ラズさんも意図は汲んだ様でちょっと驚いた顔をした後、悪戯っぽく笑った。

艶の消されたボルドー色のメニュー表を開くと、するするとした、手書きでありながら洒脱な文字が並んでいた。余りメニューは豊富ではないらしく、その多くがコーヒーでデザートの類は殆ど無い。

しかし、なんというか。

この文字から滲み出る拘りといい、空気感といい、メニューの数といい。

ちらりとラズさんを伺うと、ラズさんも丁度メニューから顔を上げてこちらを見たところだったらしく、お互いのニヤッとした笑みがぶつかる。


(これはアタリ!)


私たちは意思を確認する様にぐっと頷き合うと、そそくさとメニューに視線を戻す。

軽食でメニューが圧迫されていないおかげで見開き一ページのメニュー表には知っている名前が大方ある。私は左上から右下にかけてゆっくりと眺め、見落としがないかもう一度確認してから注文を決めた。


「俺決まったけど、決まった?」

「カフェモカにします」

「うわぁ、それ俺も気になってたやつだ」

「交換こすればいいんじゃないです?」

「まぁそうか」


言うだけ言ってからふと気づく。


―私たちっていつから食べさせ合いが常習化したんだろう?


盲点に気づいた驚きと羞恥であわあわとしている私を知ってか知らずか、ラズさんは特になんでもない様に呼び鈴を鳴らした。チリンと澄んだ音が店内に響くと、先ほどの店員さんが町並みにも引けを取らない眩しさの笑顔で注文を取ってくれる。


「お伺いします!」

「カプチーノとカフェモカを一つずつ」

「畏まりました!少々お待ちください!」


注文を取り終えた店員さんが、最早駆け足ぐらいの軽快さでとってって、っと奥に引っ込んでいくのを見届けると、二人してふう、と嘆息を一つ。アップダウンの激しい街をああでもないこうでもないと歩き回ったので、なんだかんだ言いつつも最近引きこもり気味なのは否めない私や、言うまでも無い出不精のラズさんはぐったりの一歩手前辺りまで疲弊していた。

対面のラズさんは机に頬杖をついて窓から外を眺めている。

綺麗な瞳が太陽の光を反射し、いつにも増して美しい。美しさの形容に芸術的、なんて物があるが、目の前の宝石はどんな天才だって表現できないと思わせるもので、”芸術”という人為的な枠に留めてしまう事は躊躇われる。

ラズさんと過ごしたこの数か月、この瞳をどうにか形容しようと奮闘したものの、その進捗はお察しだった。

今日も一向に向上しない語彙力に肩を落としながら、諦めて思考を放棄し、私は切り替える様に目線を外にとやった。

少しだけ日が落ちて来たのか、眩しさが軽減された町並みはやはり整然とした美しさを湛えている。それでいてどこか遊びの様な、街に漂うフェミニンな印象の方向性が”綺麗”というより”可愛い”という方に寄っている様な、何とも言えない不思議な二面性がある。

町並みに使われている青色はかなり薄い、水色のその先の様な色をしていて、夏の濃い青の空と混ざる事無く同居している。空の蒼と建物の青と木々の碧が、抜けるような純白の隙間をゆっくりと流れていく様は簡単に時間を忘れさせてしまいそうだ。

まぁ可愛げの無いことを言えば、街の白は光を眩しいぐらいに反射するので”抜けるよう”とはいかないのだが。


「綺麗ですね」

「そうだな。...綺麗だ」


ラズさんの方を見ることなく問いかければ、深い同意が帰ってくる。ラズさんは眩しい眩しいとばかり言っていたのでてっきりこの風景にも見飽きたのかと思っていたのだが、そんなことも無いらしい。『喫茶店で景色を見ながらゆっくり大作戦』を決行するにあたって、ラズさんが退屈してしまわないかというのは一番の懸念点だったので一安心である。

ちらりとラズさんの方を見れば、ラズさんも丁度こちらを見た所のようでばっちりと目が合う。

同じ綺麗なものをゆっくりと共有しているという事実が、珍しいわけでもないのに何処か嬉しくてにまっと相好を崩すと、ラズさんは風景がやはり眩しかったのか、すっと目を細めて、そして笑った。


「お待たせしましたー、こちらカプチーノとカフェモカになります!」

「どうも」

「ありがとうございます」


暫くラズさんと風景を眺めていると、先ほどの店員さんがコーヒーを持ってきてくれた。

思わず目を細めたくなるほどのきらきらした笑みで対応してくれるので非常に気持ちがいい。異国の文化に”チップ”という、接客に満足したときに店員さん個人にお金を支払うものがあるらしいが、それが常習化されていないこの国でも是非渡したいと思えるほど彼女の接客は素敵だ。

どうやらそれはラズさんも同じだったらしく、基本的に店員さんには失礼ではないものの不愛想、というスタンスを貫いているラズさんが、今はしっかりと彼女の目を見て淡く微笑みながらお礼を言っている。


(...?なんか......)


なんだか胸に重たい空気を詰められたかのような違和感と息苦しさを感じて、自分の胸を触ってみたり深呼吸したりしてみたが、改善の兆しは見られず尚も状況は変わらない。


「ハッ...!これが悋気...?」

「何言ってんだお前」


世紀の発明でもしたかのような調子で言う私をラズさんは一蹴し、店員さんは相も変わらず花が咲いたような笑みを湛えながらコーヒーの入ったマグカップを置いた。

私の前に置かれたマグカップには慎重に持たないと簡単にこぼれてしまいそうなもこもこの泡の上にチョコレートソースが格子状にかかっている。ラズさんの物もチョコレートがない事を除けば似たり寄ったりだ。

合図したわけでもなければ、目すら合わせていなかったが私たちは全く同じタイミングでカップを持ち、各々が頼んだ物に口をつけた。

くい、とカップを傾けると、まず滑らかな舌触りのきめ細かい泡が舌に当たる。たっぷりのミルクとチョコレートによってかなり甘めの味になっているが、流石エスプレッソコーヒーと言ったところでコーヒー自体の風味は一切衰えることなく、モカならではのフルーティーな香りが鼻に抜ける。モカに足りないコーヒーらしさや満足感と言ったところをチョコやミルクが出し、モカの風味がチョコやミルクによってくどくなりがちな後味をスッキリさせている様はまさに比翼と言ったところか。


「美味しい...」

「うま」


感想すら同じタイミングな事にお互い驚いて、私たちは少しの間目を見張って見つめ合った後、小さく笑う。


「一口貰っていいですか?」

「あいよ」


ラズさんからカップを受け取り、こちらも渡してから一口飲む。

こちらはチョコソースが無いことに加えてそもそも豆自体がコーヒーの風味が強い物なので、カフェモカに比べると色物感は薄く、正当に甘いコーヒーという感じだ。とはいっても、泡はきめ細かい、ミルクはコク深い、エスプレッソは香り高いと美味しいカプチーノの三拍子がほぼ極限まで発揮されているのでマンネリの類は一切感じず、むしろカフェモカと違って真っ直ぐに正統派なため感動はこちらの方が大きい。

...おかしい。絶対おかしい。なぜこうも毎回美味しい所ばかり見つけるのだろうか。

じっと胡乱な視線を投げつけていると、それに気づいたラズさんは「あんまりだった?」と聞いてくる。


「いえ、師匠は美味しい店ばかり見つけるので、超能力の類を疑ってます」

「んなもんねーよ。勘だ、勘」


ラズさんは一蹴しているが実際のところ本人が気づいていないだけで本当に超能力なのではないか。

尚もじっと見続けていると、ラズさんはほんのり探る様な目を一瞬だけ向けたかと思えば、次の瞬間にはニヤッと笑った。


「確かに気づいてないだけで超能力かもな?」

「......。」


―もう多くは言うまい。認識を改めよう。


降参と言う様にひらひらと手を振りながらマグカップを返すと、ラズさんも私のをすいっとソーサーごと滑らせた。


「このカップ可愛くないですか?」

「確かに。言われてみれば」


中身に夢中で気づかなかったが、よく見てみるとマグカップが対のものになっていて非常に可愛らしい。

片方は白のベースに赤の細い花柄が飲み口を囲うようにぐるりと入っている物で、もう片方はデザインは同じで色が黒ベースと青い花で出来ている。


「マグカップ...お揃い......いいなぁ...」

「...ここのは無理だろうけど帰りに買ってくか?マグカップ」

「え!いいんですか!」

「まぁ俺らよくコーヒーだのココアだの飲むからな。持っといて損ないだろ」


とはいっても家にマグカップが無い訳ではない。シンプルな黒の物が家にあるので今まではそれを使ってきたし、特に使いづらさも感じていないのでこれからも十分に使えるものだ。


―まぁ、ここでそれを言うのは野暮ってやつかな。


私は見て見ぬふりをする事にして「そうですね」と淡泊に返した。そこで会話は途切れ、お互いの間に沈黙が流れる。

その瞬間、私はふと、目でも耳でもない何かでそれを判断して確信した。

多分ラズさんは家にマグカップがある事を忘れてなんかないし、私がそれに気づいて尚、黙っている事も分かっている。

この二人の間で頻繁に作られる不文律の様な物は、他の人と話していて作られたことは無く、私とラズさん特有の珍しいコミュニケーションの仕方と言ってもいいだろう。

恐らくは、私はラズさん以外に我が儘を言う事がほとんどないので、まず種が蒔かれず、ラズさんは基本的に私の我が儘に対して非常に寛容かつ全てを明け透けにしてしまう事を避ける傾向がある事から、言葉にはしない許容と理解という不思議な現象が起きている。

お互いがお互いに気を使いながらそれを言葉にすることは無く、かといってその気遣いに気づいていないわけでもなく、なんならこの不文律自体もお互いに認識しているというややこしい体系は概ね私たち以外では完成しない物だろう。

これを認識するたびに私はややくすぐったい思いをする訳だが、全くもって悪い感覚ではないので、今日も今日とてそのむず痒さを少し表情に逃がすことで事なきを得る。


「...なに笑ってんだよ」

「いいえ?なんでも?」

「なんでも、ねぇ...」

「ええ、なんでも、です」

「...くえないない奴」

「師匠も同じようなものでしょうに」




「あの、これもしよかったら貰って行ってください!」

「...え?」


あれからかなりの時間、景色を見たり何でもない話をして寛いだ私たちは、二杯目に頼んだカフェラテを飲み終えたのを機にお会計に進んだ。

カウンターで料金を支払うと、店員さんがおずおずとしながらも勢いのある何とも言い難い様子で二つの箱を差し出した。

どちらも同じぐらいの大きさで、片手には乗るものの如何せん取っ手のない立方体なので手の小さい私は両手で持った方が安定しそうな大きさである。


「これは?」

「マグカップです!先ほどお気に召したようだったので!」


ラズさんから『いや、そうはならんだろ』と言う声にならない声がありありと聞こえて来た。私の心中も似たようなものである。


「い、いや、良いんですか?貰っちゃって」

「はい!このお店は私の祖父が始めたものなんですが、半年ほど前に他界してしまいまして。悩みましたけど、最近は客足もめっきり減ってますし、閉じることにしたんです。どのみち処分してしまうので、ぜひ持って行ってください!」


店員さんはそう言うと、初めて笑顔に影が差した。胸の疼痛を怺えるような表情はこちらまで表情が歪んでしまいそうな、そんな痛々しい物だった。

何かをしてあげたかったし何かを言ってあげたかったが私はその立場にいない。

どうか、彼女の周りの人間が心暖かな人たちであれと願うのが私の精一杯だった。

ラズさんは表情に出そうになるのを固く拳を握ることで誤魔化しながら静かに言った。


「...ありがとうございます。大切にします」

「そうしていただけると祖父も喜びます」


大輪の向日葵のような彼女は、この世の何よりもひっそりとした様子で、静かに笑った。


ちりん、という控え目な鈴の音を聞きながらお店を後にし、乗合馬車の方へ歩く。

取り繕ってはいるが私の心の内はぐるぐるで、一切の思考がまとまらないのが実情だった。こんなにも心が揺られるのは彼女が底抜けに明るかった事が大きいだろう。あれほど眩しい人でも家族を失うとたちまち胸を切り裂かれた様に切なく相好を崩してしまう。

私は今まで家族の事を全く考えなかったわけじゃない。家族は私に対して理解があったし、何より放任とさえ言えてしまう程の絶対的な信頼があったので、私が一人で旅に出たことに対しては責めるどころか心配すらしていないだろう。まぁ、その実こっそり死にかけてはいるのだが。

しかし、それとは別にこちら側から心配に想う瞬間があったりする。お父さんは仕事のし過ぎで倒れていないか、とか、お母さんはお酒の飲みすぎでどこか悪くしていないか、とか、お兄ちゃんはまぁ...平気だろうが。


―元気にしてるかなぁ。


「なぁ」

「はい?」

「家族に会っといたほうがいいんじゃないか?」


やはりラズさんも同じことを考えていたようで、こちらに来てから一度も帰省していない私を少々心配しているようだ。

これに関しての目安はもう決まっている。


「いえ、ここでちゃんと言えるような成果を出してからじゃないと顔向けできませんので」

「...成程ね。具体的には決まってるのか?」

「そこまでは決めてないです。両親に胸を張って言えるようなものがあればいいですが」

「そうだなぁ...」


ラズさんは真っ赤に燃える夕日を見上げながら少し考えた。


「見習いの三級とかでいいんじゃないか?と思ったけどお前の場合は試験受けたら絶対飛び級するから一級になるのか」

「わ、わかんないですよ?」

「いーや飛ぶね。飛ばなかったら飛ばす」


なぜか自信満々に言い放つラズさんだが、実際正規の魔法の扱いはフェリアと同じくらい―


「あ!!!」

「うわぁ、なんだなんだ」

「あの、フェリアの事なんですが、私と同じくらい魔法が使えるんですけど―

「は!?」


フェリアについて気になっていたことを訊こうとすると、言葉はラズさんの驚愕によって遮られた。この調子じゃ内容はお察しである。


「確かいっこ上だったよな?」

「そうですね」

「そりゃもうとんでもないな。将来一級は固いし発想と適正次第じゃ魔導士も全然狙えるレベルだ」

「......とんでもないですね」


最初こそ友人が敬愛する師匠に褒められていてほくほくと顔を緩ませていたが、聞いていく内にそんな生半可なものではないと表情が引き締まった。

ラズさんの話によれば魔導士は二桁も居ないそうなので、そこを狙えるレベルとなれば相当の天才といって差し支えないだろう。加えて、魔力量はある程度遺伝するらしく、多くの優秀な魔法使いは名のある魔法使いの家系だったりするのだが、フェリアは商会の家出身なので己の才能一筋という事になる。この前『自分が誇れるのは味覚だけ』なんて言っていたが、お世辞でも何でもなくとんでもない才能を持っているではないか。...いや、フェリアの事だ。それを指摘したとて、『小さい時からやってるってだけだよ』などと謙遜するのだろう。まぁ、これに関しては責める事でもない。大人になれば自ずと周りの評価もついてくるはずだ。それがフェリアの自己肯定感に良い作用を及ぼすのかは考えるまでも無いだろう。

優秀で可愛い友人を持ったことに喜ぶべきか、壊れていく基準に憂うべきか...


「もう、何の話してたか忘れました...」

「お前の帰省だよ、ま、あんまり長引くようだったら俺が頃合い見て無理くり帰すからな」

「...なんだかんだ言って帰らなそうなのでお願いします」

「おうよ」




「師匠ー?」

「っ...びっくリしたぁ...なんだ?」

「......」


ようやっと厳しい暑さと刺す様な日差しが収まってきたこの頃、なんだかラズさんの様子がおかしい。

今のようにふと声を掛けると過剰に反応するし、何事かを私に意図的に隠してこそこそとやっているようだ。

まぁラズさんに限って私に悲しい思いをさせるような真似をするとは思えないので、単純に私に伝える必要が無いからか、もしくは何らかの理由で口外できないような事をしているのだとは思うのだが、それはそれとして、こうもこそこそとされると人間誰しも気になってしまうし、やきもきしてしまう物だろう。

この事に気づいてからはラズさんが今回の様に過剰な反応をするたび胡乱な視線を送っているので、ラズさんは私が違和感を覚えている事に気づいているはずだが、それでも尚口を割ろうとはしない。

今回も言うべきことを一旦端に追いやって、じっとラズさんを見つめるのだが、ラズさんは気まずげに視線を逸らすだけである。


「......これ、開けてくれませんか?」

「あ、あぁ。任せな任せな」


コーヒーの豆が入っている缶の蓋が固く閉まっていて開けられなかったので、胡乱な視線はそのままにずいっと缶を差し出すと、ラズさんはぎこちなく返事をした後、きゅる、と如何にも簡単そうに蓋を開けてこちらに渡してくる。

「ありがとうございます」とお礼を言えば、「ん」といつもの調子で返してくるものの、様子はやはり上の空だ。

半年程ラズさんと過ごしてきたわけだが、これほどまでにラズさんが上の空だったことは無い。

というのも、ラズさん自体が非常にハイスペックというか、与えられたタスクを効率よくこなす事に長けているため、上の空になるまで切羽詰まる事がそもそも無いのだ。勿論完璧人間では無い、というか、出来る事はとんでもなく出来る代わりに出来ない事はとことん出来ないタイプなので生活していくにあたって壁に当たる事もあるわけだが、ラズさんはそういった出来ない事に対して一切向き合わず放置するので、切迫する状況がほとんど存在しない。

そう考えると今回の上の空は『ラズさんの能力を以てしても解決が困難』且つ『何らかの理由で絶対に投げ出すことが出来ない』問題という事になる。

果たしてそんな事象が存在するのだろうか、とぐるぐる考えながらコーヒーを淹れ、考え事をしながらだったので念のため味見をしてしょっぱくない事を確認した後、ソファの前のローテーブルにそっと並べると、ラズさんはこれまた物思いから醒めた時の様にはっとしてから「ありがとう」と短く言った。

いつもの様に隣に座って少し凭れると、極々自然にラズさんの手が私の頭に伸びてきて、すっかり慣れた手つきで髪を梳く。慣れてきたと言ってもぞんざいになったわけでは全くなく、寧ろ大切に、丁寧に撫でる事に対して慣れたと言った具合だ。

言わずもがな心地が良い。

私が猫であったならごろごろと喉を鳴らしているだろうし、犬であったならぶんぶんと尻尾を振っていることだろう。

こうしてラズさんに凭れながら甘やかされていると、今まで考えていたことがめっきりとどうでもよくなってしまう。実際、今回の件に関してはラズさんからそれほど深刻な音はしていないし、全体的に悪い印象の音ではないので私の杞憂なのだろう。何なら私としても心配、というよりかは何故、という好奇心が大きいので杞憂ですらないと言えばそうだ。

私はどうにかこの不必要で不可避な思考を分かち合いたくて、ラズさんの腕のそっと頬を寄せた。


―まぁ、今は誤魔化されておきますけど、ずっとそんな調子じゃいやですよ?






朝起きた瞬間に、私はほぼ諦念のような感情で今日一日は死んだように過ごす事を察した。

ガンガンと痛む異常に重たい頭を、あまり揺らさない様に慎重に起き上がりカーテンを開けると、案の定天気は最悪で窓一杯に吹き付ける雨粒と遠方から耳を聾する雷鳴が確認できる。立っていた時間はほんの少しだったが、たったそれだけでも酷い眩暈と吐き気に襲われ、私は半ば倒れる様にベットに潜った。

脈を打つかのように内側からずきずきと痛む頭は横になっているだけでもどうしようもなく辛い。目を開けた時、視界が水面の様に揺れていたら、それは今回の様になるという死刑宣告だ。たかだか低気圧如きでなんだってこんな辛い思いをしなくてはいけないのかと訴えたかったが、生憎の事、私には信じる神も居なければ訴える神も居ない。

痛みと吐き気と不安でどうしようもなくて、ただひたすらに痛みが収まるか寝てしまえる事を望んだが、現実は拷問の様な時間が刻々と続くだけ。

私は余りの理不尽にさめざめと泣いた。一年に一度か二度、私は低気圧による片頭痛でこうして臥せるのだが、何度経験してもこの痛みにはなれないし、この仕打ちを受け入れる事は出来なかった。

布団の中でひたすら痛みに耐えていると、部屋のドアがこんこんと控え目に叩かれた。

二度叩かれた音は本当に本当に控え目で最低限の物だったが、私の尖り切った感覚には劇物と言うほかない代物で、脳みそを直接針で刺されたかのような痛みが私を襲う。

微かに呻く私を見て、ラズさんは只事ではない事を悟ったのか、珍しく駆け寄ってきて、「大丈夫か?」と私の顔を覗き込んだ。

どうやら私は酷い顔をしているらしく、私の顔を見た途端にラズさんの顔も悲壮げに歪んだ。


「...あたま......いたい.........」

「分かった。ガブの所から薬貰ってくるから、待ってろ」


なんとか絞り出すように訴えると、ラズさんは意味を捉えるやいなや踵を返して外を目指す。

私は反射的にその翻ったローブの袖をギリギリ掴んだ。

この雷雨の中、外出するのは危険だという理由もあるが、何より一度ラズさんが来たことによってマシになった不安感が、一秒も惜しいといった様子のラズさんを見てぶわりと溢れ出してしまったのだ。

本当に微弱な力だったと思う。

実際、ラズさんは私が袖を掴んだことを私の手が離れてしまうまで気づかなかったわけだが、それでも五感ではない何かで私の声にならない悲鳴を聴いてくれたようで、ちらりとこちらを振り返り私と目が合うと、安心させるように柔和に微笑み、私の手を少し撫でた後に「すぐ戻ってくる」とだけ言って外に出て行った。


――――――――


扉をなるだけ音を立てない様にそっと閉め、蹴破らんばかりの勢いで玄関のドアを開けた俺は、自身に雨を弾く球体の風魔法を展開しながら、同じく風魔法を足元に炸裂させ宙に躍り出た。この半ば空中歩行の様な移動の仕方はコンマ数秒単位で変化する足元の魔力を捕えて自分が過ぎ去ってしまうまでのわずかな時間で魔法陣の形成、魔力の収集、発動までを行わなければいけないので非常に難易度が高く、今の所俺以外にできるやつはいない。忘れもしない半年前のちょうどこんな天気だったある日、死にかけている弟子のもとに飛んで行ったときもこれを使った。

自身の周りに展開している雨よけの魔法は傘の様に雨を物理的に弾くものではなく、ベクトルを捻じ曲げて俺を避ける様に移動させるもののため、傘や雨具を着ている時特有のぼつぼつという響くような音はしないが、それでも吹き荒れる雨と怒る轟雷がこれでもかと俺を急き立てる。


『...あたま......いたい.........』


あいつにしては珍しく敬語が外れた、混じりけのない悲痛な訴えが耳にこびり付いて中々離れない。

今まで精神的に不安定になったり、体に無理を言わせてガタが来ている様な姿は何度か見たが、今回の様にひたすら痛みと苦しみに藻掻いている様子を見るのは初めてだ。

朝っぱらからぐらりぐらりとあたりの魔力が乱暴に揺られるものだから何かと思えば、普段は制御している周辺魔力への干渉がままならなくなっていたらしい。勿論あんな風に魔力を振り回すこと自体も異常なのだが、何より普段はあんな物を平気な顔で完璧に制御しているという事実に、俺は驚愕すら通り越して畏敬の念を抱いた。

いつかの時に何か他人と違う特性を持っているなら洗いざらい吐けと言ったはずだが、何か理由があったのか、それとも単に忘れていただけか、あれほど酷い片頭痛を持っていたなど聞いてない。

空を駆ける事数分、俺はようやくガブの勤務している病院に到着した。

正面から入ってあれやこれやと話を通すのも面倒だったし、何より時間がかかるので、俺は最近こっそり習得した魔法を展開する。

まず感覚が一人称から三人称に変わり、魔力を持たないものが全て視界から排除される。ぼんやりと残った光は魔力そのもので、その光度によって持ち主の力量が大方分かるようになっている。数ある光の中でもひときわ強い光を放つ所を記憶の地図と照らし合わせると、そこは丁度俺とガブが休憩に使う部屋だったのでガブはそこで一休みしていると見ていいだろう。そこにもう一つ、そこそこ強い光も確認できるので恐らくは誰かと一杯コーヒーでも飲んでいるはずだ。魔力探知を辞め、驚いたり咎めたりする視線を振り切って休憩室に向かって真っ直ぐ走り、勢い余って魔法で扉を吹き飛ばしそうになったのを何とか差し戻しながら、それでも力の限りでドアを開け放つ。


「おわぁ!なんだラズか...」

「え?ラズ?」


大げさに体を跳ねさせて、持っていたカップから零れたらしいコーヒーで出来たシミを忌々しそうに一瞥しながら呻くガブの正面には、普段であればなるだけ会いたくない部類の人種だが、今この状況においてはそれこそ一級の医者であるガブよりも頼りになる女が座っていた。


「...セシリア、頼みがある」

「あのさぁラズ。それが久々に会った友達に向ける顔なわけ?」


顔いっぱいに渋面を作る俺に、彼女―この世界唯一の治癒魔法の使い手であり数少ない魔導士であるセシリアは呆れた様にこちらを覗き込んだ。

こちらを不満げに覗き込むやや色素の薄い碧眼と、心底驚いた様に見開かれた翠眼を見ながら、俺はどう説明したものかと思案する。

弟子の頭痛は命に関わるものでこそ無いものの、状況を見るに耐え難いものであることは確かだ。

ガブはともかく、セシリアに弟子のことを説明するとなると、余りに突っ込み所が多すぎる。そのような問答をする時間はなるだけ削りたい。

どうしたものかと考え込む俺を見て、ガブは何かを察したらしく、途端にしたり顔になる。


「ラズがそんなに焦るってことは、マリエルちゃんに何かあったんでしょ?」


弟子の名前を出されて一瞬焦ったものの、この様な問答はガブの方が上手い上に、セシリアの扱い自体、ガブの方が圧倒的に手馴れているので、概ね状況を察したガブが助け舟を出してくれたのだろうと分かればこちらに乗っからない選択肢は無い。


「そう。偏頭痛っぽいんだけど、あんまりにも辛そうだから薬もらってこようと思って」


どちらかと言うとセシリアではなくガブに状況を説明する目的で、ここに来た理由を話すと、ガブは参ったように眉を八の字にして、「よりによって...」と呟いた。

ぽつりと零された呟きの内容には全面的に賛同するが、なってしまったものは仕方がない。あいつだってなりたくてなった訳では無いだろう。

俺とガブの間で、不運に対する言いしれない無力感を共有していると、『マリエル”ちゃん”』という言葉を聞いた瞬間からピタリと時を止めていたセシリアがようやく動き出した。


「待って待って、マリエルちゃんってのは!?」

「弟子、半年ぐらい前に採った」

「弟子ぃ!?あのラズが弟子!?それも女の子!?あのラズが女の子!?」


身を乗り出して、問い詰めるでもない純粋な驚愕をぶつけてくるセシリアに、俺は反射的に半歩下がった。

青い瞳に金髪の髪を持ち、黙っている時に限られはするが、かなり整った容姿をしているのに加え、猫をかぶるのも上手いらしく、治癒魔法を扱う姿と合わせて「女神様」なんて呼ばれているこいつだが、俺とガブの前では些か直球過ぎると言うか、感情をそのまま、いや、ややオーバーに伝えてくるので騒がしい人間が得意では無い俺からすると少々扱いに困る。

それに、今回のような状況下では、根掘り葉掘り聞いてくるので鬱陶しいことこの上ない。いつもであれば鬱陶しいだけで済むが、今日に限っては余りもたもたしていられないので非常に厄介だ。

身を乗り出すに留まらず、こちらに歩み寄ろうと腰を浮かせたところで、いつの間にか背後にたっていたガブが、勢いを落ち着かせるように、すとんと肩を押してセシリアをソファに差し戻した。


「まぁまぁ、それはマリエルちゃんを治してからゆっくり話せばいいでしょ?今は治療が先」

「...ぐ......ごもっともデス」


宥めるようにガブが言うと、医者としての矜恃に訴えかけられたのか、セシリアは渋々といった様子で引き下がった。さすがガブと言ったところか。

セシリアは医者として動く事を決めた瞬間から、ぱきりと雰囲気が変わって、今までのおちゃらけた様子から一転、真剣な顔で少し考えると、よく通る声でこれからの事について話し始めた。これは彼女の美点だろう。


「様子にもよるけど、私が現地に行くなら偏頭痛そのものを治しちゃった方がいいかな。でもその場合だと即効性がないから、今の症状はガブエラに薬貰って対処して、根本の原因は私が直すって方向でやろうと思う」

「わかった。鎮痛剤でいい?」

「うん」

「じゃ、持ってくるからちょっと待ってて」

「行ってらっしゃい」


驚くほどテキパキと今後の流れを決めた二人は、話終えるやいなや各々の準備に取り掛かった。

ガサゴソと自分の荷物を纏めているセシリアをなんとも言えない気持ちで眺めていると、急にぴたっと手が止まり、こちらに振り返った。


「後でちゃんと説明してもらうからね」

「...おう」




流石にセシリアを抱えて飛ぶわけにもいかなかったので、雨弾きの魔法だけかけた俺たちは速足で弟子のもとに向かった。

この時間にも弟子が苦しんでいると思うと気が気ではなかったのだが、一方セシリアはというと自分を避ける様にして落ちる雨粒を物珍しそうに眺めていたと思えば、今度はどうにかして触れないかとバタバタし始めていた。

一見すると呑気な様だが、これは本人の特性に寄るところが大きい。

コイツはこう見えて案外器用で、他人との感情や思考量の差や総量を常に把握し、それに合わせたり、はたまた均衡を保ったりする。誰かに相談をされた場合は相談者に感情を調整して共感を生むし、今回の様に非常事態の時にはかえって冷静になったり、それこそ呑気になったりして場を落ち着かせるのだ。

そういった点も含めて「女神」何だろうが、他人との付き合いがお世辞にもうまいとは言えない俺から見れば、疲れないのかと時折心配になる。

気温が落ち着てきた事によって、かなり速足で歩いたものの、汗一つ掻かずに家に到着した俺たちは、そっと扉を開けて中に入った。


「おじゃましまーす...案外綺麗にしてるんだねぇ。もっと散らかってると思ってたけど」

「優秀な弟子がいるんでな」


『案外うちの弟子もその節があるんだよなぁ』なんて考えて、はやる気持ちを落ち着かせながら、なるべく音を出さない様に部屋に入ると、ベットに横たわる弟子の姿が確認できる。

残念ながら寝ることは叶わなかったようで、隣まで行くと悲痛な顔をした弟子と目が合った。


「薬、飲めるか?」


小さく問うと、弟子は声を出すのですら億劫なのか口は開かずに、こくんと頷く。

水を取りに行こうと部屋の外に足を向けると、コップを持ったセシリアがぶん殴りたくなるドヤ顔で扉の前に立っていた。

腹が立つことこの上ない顔だが、やっている事は非の打ちどころのない気遣いに満ちたものなので、感情をぐっと飲み込んでコップを受け取り、弟子に向き直る。

寝たままでは薬を飲ませられないので「起こすぞ」と一言断ってからなるべく頭を動かさないよう、ゆっくりと体を起こしてやると、弟子の視界にもセシリアが映ったのか、痛みに歪む眉が疑問を表す様に下げられた。


「あいつはセシリア。...まぁ、医者だ。後で説明する」


今の弟子に細かく説明しても半分以上は聞けないだろうし、説明自体、急を要する事でもないので後回しにして、ざっくりとしたことだけ伝えると、弟子はどう解釈したのか、俺の腕を抱き寄せてじっとセシリアを見た。

行動の意図がまるっきり分からず硬直する俺を尻目に、セシリアは何かを察したらしく、したり顔で手をひらひらと振り、リビングに引っ込んでいく。

既視感のある光景にやや頭痛を感じていると、つい先ほどまではぎゅっと抱き着かれていた右腕が開放された。

このまま抱き着かれていたら薬を飲ませられないところだったので、好機と言わんばかりに弟子の口に薬を放り込み、ゆっくりと水を飲ませると、今までは苦痛によって細められていた目が、段々と眠気によって閉じられていくのが分かる。

どうやらガブは鎮痛剤と睡眠薬を調合してくれたらしい。本当に気の利くやつである。

うとうととしている弟子をそっとベッドに寝かせ、呼吸が安定して眠りについたのを確認してから部屋を出ると、我が物顔でコーヒーを飲んでいるセシリアと目が合う。

口の形だけで『寝た?』と聞いてくるので、声を出しても大丈夫だという意味も込めて、「寝た」と返すと、今度は有声で「じゃ、私も仕事しますかね」と言い、ぐっと伸びをした。

お世辞にも伸びているとは言い難い背筋で、スタスタと言うよりかはとぼとぼと部屋に入っていったセシリアを見送った後、俺もコーヒーのためにお湯を沸かし、少し考えてから常備してある茶菓子も幾つか準備する。

食卓にクッキーやらマドレーヌやらを並べて、お湯が沸くまでそれをつまみながら待っていると、弟子の部屋から「うげ」という何とも言えない声が聞こえてきたが、声の響きと長年の付き合いから、弟子の症状が見るに堪えないものだったのだろうと判断して見に行きはしなかった。

げっそりした顔のセシリアが戻ってきたのは、丁度珈琲を淹れ終えた時だった。

目を凝らしてみると、魔力も相当消費しているし、中々の難敵だったらしい。


「お疲れ。悪いな、今日休日だったろ?」

「まぁラズの頼みだし良いんだけどさぁ...ありゃ中々ヤバかったよ...」

「まぁ、だろうな」


どかっと正面に座ったセシリアの前にすっとスコーンを滑らせると、セシリアは無言で受けとって口に放り込む。

少し大きかったのか、些か苦労して飲み込んだ後、コーヒーで潤いを取り戻したセシリアは「まぁ」と口を開く。


「ラズにも相手が見つかったようで安心したよ」

「ごはっ......」


突拍子のない発言に、飲んでいたコーヒーが気管に入り激しくむせる。

当のセシリアは特別気にした様子もなく、髪をひと房指に絡めてくるくると弄びながら、窓の外を見ている。

咳も収まってきて、頭が回る様になってから、形だけでも否定するか悩んだが、どうせこの女には筒抜けなんだろうと結論を出し、否定はしない事にした。代わりと言っては何だが、一つ、注意しておくことにする。


「あいつに余計な事言うなよ」

「言わないよ。というか、あんまり関わる機会もないんじゃない?」

「...まぁ、そうか」


言ってみれば、確かに弟子とセシリアが関わる機会はそうないのだろう。

しかし、どこか引っかかる。

事実がどうであれ、セシリアはこのような事をハッキリと言うタイプではない。

基本的にセシリアは人間の事が好きだし、関わりを大切にする性質なのでこうもばっさりと関係が希薄である事を指摘するのには違和感を覚えるのだ。

訝し気にセシリアを伺うと、セシリアはちらりとこちらを一瞥した後、困った様に眉を下げつつ、どこか悲し気に小さく笑った。


―――――


さらさらと髪を撫でられる感覚で少しだけ意識が浮上する。

何も見なくとも、何も聞かずとも、大切されている事が分かる様な、心地よい感覚に思わず甘えるような声が出る。

されるがままになっていると、暫くして頬を軽くつままれた。


「んん...あ、ししょー...」

「起きたか」


ぱちりと目を開けると視界いっぱいにラズさんのご尊顔が飛び込んできて「ひゅっ」という声にならない声が出た。

基本的に私はラズさんより早く起きるし、ラズさんはあまり私の部屋に入ってこないので、このように寝起きから顔を合わせる事はまずないのだ。最近は見慣れてきたとはいえ、ラズさんはちょっと油断すると見惚れてしまう程の容姿の持ち主なので、不意打ちで、それも寝起きから顔を合わせると言うのは些か心臓に悪い。

ばっと起き上がり、乱れている髪を手櫛で梳かしながらラズさんを伺い、記憶を辿る。

そういえば、今日はいつもの片頭痛に見舞われて寝込んでいたのだ。

ラズさんが持ってきてくれた薬が効いたのか、今はすっかり良くなっているし、心なしか肩があり得ないほど軽い。それに視界もかなり明瞭というか、前は視界の端にあるものは歪んでいたのがはっきりと見える様になっている。


―薬一つでこんなにも良くなるものだろうか?


余りの快調ぶりに首を捻っていると、ラズさんが「良くなったか?」と聞いてくる。


「はい。頭痛も良くなりましたし...なんというか、体も軽いです」

「そっか。よかった」


んん?

音から判断するに、ラズさんは何かを隠しているらしい。体が異常に軽い事について何か知っているが意図的に詳細を伝えていないようだ。

なにかとんでもない薬でも飲ませたのだろうか。いや、私が自らやるならまだしも、過保護も過保護なラズさんがそんなことをするとは到底思えない。いつもの調子でいけば、前提として私には不利益が一切ない事を、私の為を思って隠した、と言ったところだが、今回の音は”私のため”と言う訳でもなさそうだ。

まぁ、今日一日私を苛んでいた痛みがすっかり晴れた事に比べれば、そんな事は些事だろう。ラズさんには訝しむよりも先に言わなければいけない事がある。


「師匠。ありがとうございます」

「―あぁ。どういたしまして」



「食欲はあるか?」


ベットの上でぐいっと伸びをしていると、ラズさんがそう切り出した。

正直に言って体調は万全なのでご飯を作れないなんてことはないのだが、ラズさんの口ぶりから察するに私が創ると言う選択肢は端から無いようだ。私の食欲があれば私の分も買ってくるか否かという違いだろう。

『何時なんだろう』と窓の外を見ると、今日を惜しむ様な夕焼けが窓を赤く照らしていた。耳を澄ましてみれば、遠くの方で烏が寂寥にないているのが聞こえる。

それらを見ていると、ふと、今日という日があっけなく終わろうとしている事に、言い知れない無力感を憶えた。どうしてか、心が虚しい。

窓のほうを見て呆けている私を見て、ラズさんは自らの問いを追求する事もせず、私の頭をそっと撫でた。


「弟子」

「はい」

「誕生日おめでとう」

「............あ...」


言われて初めて気づいた。

そういえば今日は私の誕生日ではないか。

殊更に意識する事さえ無かったが、流石の私も自分の誕生日を忘れるほどではないので、前日までは誕生日の事がふわふわと思考の隅にあった。

しかし今日に関しては起きたその瞬間から緊急事態だったがために失念していたようだ。


「あ、ありがとうございます...その、何で知ってるんですか?」


私が自分の誕生日を忘れていた事も中々看過しがたい事実だが、それと同じ位ラズさんが私の誕生日を知っていたことも特異な点だろう。

私はラズさんに誕生日を教えた記憶はないし、なんと言ってもここは以北地域なので、私が教えなければ情報が流出する事は無いはずだ。知られて困るような情報ではまったくないが、情報の経路には些か興味がある。

首を傾げてラズさんを伺うと、ラズさんは少しだけ得意げな顔になる。


「弟子の登録するときに書いただろ?こう見えても案外記憶力は良くてな、それを覚えてたってだけ」

「ええぇぇ...」


弟子の登録なんて出会った当日だったと思うのだけど、一体今日まで何か月経過していると思っているのだろうか。大切な情報ならまだしも、私の誕生日なんて言う不要な知識を、それもちらっと見ただけで記憶して見せたというのだろうか。


「......ええぇぇ...」

「驚きすぎだろ...てかちょっと引いてない?」

「い、いえ、そんな事はこれっぽっちも。ははは...」

「ほんとかよ...」


正直、引くどころの騒ぎではないのが本音だ。凄まじいとしか言いようが無いが、何より、これまででラズさんの記憶力が特筆して良いという事を意識したことがほとんどなかったのが不思議でならない。

いや、よく考えてみれば、様々な場所の美味しい店を何が美味しいのかという所も合わせてしっかり記憶しているのだから記憶力は相当いい方なんだろう。それに、何度か買い物に出かけた時も、私がかなり前にちらっと言ったようなことを覚えていて、服飾店や雑貨屋に連れて行ってくれることもしばしばあった。

なるほど、と納得していると、ラズさんが口を開く。


「本当だったら今日どっか連れてく予定だったから、予定無いなら明日埋め合わせようか」

「良いんですか?」

「勿論。むしろお前が自分の誕生日を言って無かったのを責めたいくらいだね」

「え、えっと...す、すみません」

「なんか事情が?」


こちらを伺う様に聞いてくるラズさんにほんの少しだけ居心地が悪くなる。というのも、私は心の底から自分の誕生日を重視していなかったのだ。

この気遣いに既視感を感じてざっと記憶を辿ると、そういえば前、確か初めて居酒屋に行った時だったかに、私の出自を聞く声音がまさにこれだった。

基本的に私の以南地域での生活は充実していたので、そのように気を遣う事も無いのだが、やはりラズさん視点ではそうもいかないのだろう。ラズさんの家族の事に関して私が触れないようにしているのと似たり寄ったりだろうから気持ちは分かる。


「いえ、ただ単に、言う程の事では無いと思っていましたので」

「お前の所じゃ誕生日は祝わなかったのか?」

「そんなこともないです。プレゼントを渡したり、ちょっと豪華な食事をしたりしました」

「だったら何で―」

「どうしてなんでしょうね。私も分からないです」


出会ってから間もない頃であれば、恐らく私の動機は”遠慮”という事になるが、それに関して今はもう半分ぐらいは諦めているし、そんなもので遠慮したところで恩が大きすぎる事実は変わらないという事に気づいたため、恐らく私は遠慮をしているというわけではない。かと言ってそれ以外に何か考えられる理由があるかと言われれば...本当に無い。

んん?と首を傾げると、全く同じタイミングでラズさんも首をぐいっと傾けた。ラズさんも気づいたようで私たちはばっちりと目を合わせる。


「...っふ...ふふっ」

「っ...はははっ」


完璧に連動した私たちは、その可笑しさに堪らず笑いあった。

私一人では少々持て余す広めの部屋に、堪えきれなかった笑い声が二つ、響く。

身を震わせるほどの予感に起こされ、その後半日の間痛みに耐えながらベットに臥せる、というのは普通に考えれば、幸せな誕生日とは言い難いだろう。

しかし私にはラズさんがいる。

こうやってラズさんと空間を共有して、感情を分かち合って、他愛もない話をする。ただそれだけの事が、何より楽しくて、何より温かくて、何より尊い。


―あぁ、私はこのために家を出て、ここまで来たんだなぁ。


「師匠」

「ん?」

「覚えていてくれて、ありがとうございます。今考えれば、理由も無く独りで誕生日を過ごすのは少し悲しい事ってわかりましたから」

「...おう。大したことじゃない。大事な...弟子の誕生日だからな」


そう言ってラズさんは私の頭をさらりと撫でる。

いつもはそれだけで十分すぎる程満足できるのだが、今回は少し違った。私は撫でられて嬉しいが、今回は”私が”ラズさんに感謝を伝えたいのだ。

...いや、やめておこう。

これをするのは、もっと、ずっと、後が良い。

私はいつも通り満足している様にしながらも、こっそりと、心の内の大切なノートに夢を一つしたためた。




酷い頭痛に悩まされながらも、溢れるぐらいに幸せに過ごした誕生日の翌日。私は鏡に映る自分の姿を入念に確認していた。

昨日、昼間寝込んでいたこともあって中々寝付けなかった私は、折角だからというラズさんのお誘いに乗って、ココア片手に今日行く場所を話し合った。

新しくできたパンケーキ屋さんや、夜景が綺麗と噂の国立公園など、魅力的な場所がずらりと書かれた雑誌を二人でああでもないこうでもないと言いながら眺める事二時間弱。最終的には、各国を旅する様に訪れる劇団が偶々グラン王国にいるとの情報から、昼間はその劇を見に行き、帰りはこの時期恒例の魔法使いによる大規模な花火を見ることになった。

どちらも非常に楽しみなのだが、劇の方に少しばかり問題がある。

件の劇団、名を「流浪劇団」と言うが、彼らは非常に高い技術を誇る劇団であり、様々な国を転々とする形態も相まって、市場価値がとんでもないことになっているのだ。それに伴って、訪れる客層もおのずと富裕層になっていくため、私の様な田舎者が居て場違いではないかと恐縮してしまう。

着て行く服はどうすればいいかとラズさんに聞いたのだが、曰く『基本的には質のいいものを買ってるし、何を着て行っても問題は無いと思うぞ』との事。ねぇラズさん、ラズさん。そういう事じゃないんだな、これが。

夜更かししてしまうのは不可抗力で仕方が無いとして、それはそれで睡眠時間が少なくなってしまうのは宜しくないからと、今日はお昼過ぎから活動しようと決めていたのだが、結局私はいつもよりは遅いものの予定を考えれば幾分か早い時間に起きてしまい、暫くの間、服装について悩んでいた。

何通りか試してみたものの、最終的に選んだのは以前ラズさんと出かけた時に選ばなかった方の服だ。季節的にも最近はめっきり涼しくなってきたのでぴったりだし、何より私が持っている服の中で最もお洒落で可愛いのはこれだった。

鏡の前で体を少し捻ってみると、それに追従する形でやや硬めのスカートが揺れる。

可愛い。可愛いのだが、やはり行くところが行くところなので少しばかり心配になる。自分のセンスは人並みかそれよりちょっとだけ気を遣った程度だと思っているので、真剣に考えたこの服も、悪すぎるなんてことは無いはずだ。...無いはずだが、やはり不安は拭えない。

尚もうだうだもたもたとしていると、リビングの方から「準備できたか―?」とラズさんが呼ぶ声が聞こえる。

幾ら不安があった所でこれ以上何か出来るかと言われれば答えは否なので私は半ば諦めてリビングの戸を開けた。


「お、来たか」


中に入るとラズさんが準備万端といった様子で私を出迎えてくれた。

ラズさんは私を見るなり少しだけ目を見開いたかと思うと、ふわっと柔和に笑って言う。


「似合ってるじゃん」

「...え..................っあ!あ、ありがとうございます...」


まさか真正面から、それも自発的に褒めてもらえるなんて露ほども思っていなかったので、私の服装について言及しているのだと理解するのに長い時間を要してしまった。

いつ振りかの顔を茹で揚げる様な羞恥にスカートの端を握って俯くと、ラズさんが近くに歩いてきて、驚くほど愛おしそうに頭を撫でた。


「んじゃ、行こうか」

「は、はい」



馬車をいくつか乗り継いで着いた街の中心部。そこには距離感が狂う程の大きさの建物が鎮座していた。

何人がかりで並べば埋められるのだろうかという幅の階段が徐々に形をすぼませながら伸びる先には、真っ黒の扉が重々しく外界を拒んでおり、その両脇から真っ白の大理石でできた柱が数え切れない程連なる様にして外周を囲っている。高さはあまり無く、全体を俯瞰してみるとホットケーキの様な形をしている。


「わぁ...」

「...デカいな」


私たちは門の前で余りの迫力に呆けてしまった。

流浪劇団は各国を転々とする関係上、特定の舞台を持たない。かと言って路上でおいそれと劇を行うような安上がりな劇団でも無い。ではどうするのか。

流浪劇団は各国で最も優れた劇場で劇を行うのだ。聞いた話によると、その劇場の雰囲気に合わせて劇の内容が変化する事もあるらしく、”演目”と”劇場”は完全にランダムなので同じ組み合わせを見る事は殆どできないという理由から”流浪の劇に二度は無し”と言われているそうだ。

ぼけっとしているとラズさんがすたすたと中に入っていってしまうので、私は慌てて後ろに引っ付き、ふと、思い出せなくなってしまった事を訊いてみる。


「...あ、今日の演目って何でしたっけ?」

「確か......なんだっけ...」


どうやら丁度ラズさんも忘れてしまったようだ。演目名さえ出てこないのは何事かと思う反面、全く同じ事が自分に返ってくるので少々反省する。

あれ?と二人そろって首を傾げていると、私たちの左前を歩いていた男性がこちらをゆっくりと振り返った。


「”憧憬のリコリス”だ」

「「あぁ!!」」


楽器の様に滑らかな中音域で告げられた答えに、私とラズさんは声を揃えて納得した。

肩越しに覗く顔を見ると、ラズさん程ではないが端正な顔立ちをしているのが分かる。


「お客人。今日は是非楽しんでいってくれ」


お礼を言おうと口を開いた瞬間、それを制する様に言った彼は、ちらっと時計を確認した後、此方を待たずしてさっさと歩いて行ってしまった。


「なんだったんでしょう...」

「んな。口ぶりから察するに劇団の人なのか?」

「でしょうか?」


確かに劇団の人と言われれば、あの端正な顔立ちや弦を弾く様な声にも納得が行く。

半ば呆然とそんなことを考えていると、前から「イケメンだったな」としみじみした様子で言われたので、特に考えもせずに「そうですね」と返した。......あ。

誰に何を言ったのかを遅ればせながら理解した私は、ばっとラズさんの背中に飛びつき「違います!!」とあまりに手遅れな言い訳をする。


「そうかそうか。お前はああゆうタイプが好みか」

「い、いや!違いますって!私は師匠一筋です!!」


ぐいぐい引っ張りながら必死に弁解すると、堪えかねたかのようにくつくつと背中が揺れた。


「は...計りましたね!?いけないんですよ!そうゆうことしちゃ!!!」

「いやいや、はははっ。ごめんごめん。つい、な」


良いようにされていたことに気づき、顔を真っ赤にしながら今度は別の訴えで背中を引っ張る私を、ラズさんはおかしそうに笑って、されるがままになっていた。




―――


―――――


―――――――


ずっとずっと昔のお話。ある森の奥の奥、美しいエルフが住んでいました。

いつもの様に小鳥と戯れ、千変万化の森の風を諳んじていると、すぐ後ろの草がカサリと不満を漏らします。

幾年ぶりかの来客でした。その青年は森のエルフより少しばかり小さい体で、丈に合わない大弓を担いだ狩人でした。

狩人は言います。「...何してる、こんなとこで」

エルフは少し考えました。「私は...何をしてるんでしょう?」

こんな実のない会話がエルフと狩人の出会いでした。

狩人は定期的に森へ通いました。狩人としての仕事が無い日も、仲間には適当な用事を言って、足しげくエルフに会いに行きました。

エルフは不思議な人間だと思いながらも、胸躍る森の外の話をしてくれる狩人を、毎日、毎日、何より楽しみに待っていました。

いつかの時に狩人がエルフにそっと尋ねます。「森の外を一緒に旅しよう」

エルフは悲し気に眉を下げて、しかし毅然と首を振ります。「私はここから出られないの」

「どうして?」狩人の疑問は彼にとって余りに当然です。しかし、当然であるという事がこの問題の何より厄介な所です。「どうしてって...」エルフは言い淀みました。

「私はエルフなの。森に息づき、森を愛し、そして森に呪われた種族。森からは離れられない」

「...そうか」

伏せられた瞳に、エルフは心を掬われた様な心地がしました。エルフは慌てて手を振ります。「私だって、森から離れられるならそうしたいのよ。これは本当に」

狩人は少し考えた後、また「そうか」と言って、不器用に笑いました。

それから何度か、エルフはまん丸の月を物寂し気に眺めました。狩人は暫くの間、姿を見せませんでした。エルフにとっては欠伸をしている間に過ぎ去ってしまうはずの月日は、寝ても覚めても過ぎ去りませんでした。

転機があったのは二十回目か、三十回目の新月の日でした。

草を踏み分ける音が聞こえてきて、エルフはばっと振り返り、脇目も振らずに音のなる方へ走ります。その時間さえ、今まで生きて来た何十の年月より長く感じられました。

鬱蒼とした木々を掻き分けた先に懐かしい姿を認めて、エルフは肩を切らしながら狩人の前に立ちました。

『久しぶり』『元気にしてた?』『なんで顔見せてくれなかったの?』聞きたいことは山ほどありました。しかし、狩人の鎖骨から首を通って顎まで侵食した、どす黒い茨の様な模様にエルフは言葉を失いました。

呆然とするエルフとは対照的に狩人の顔は晴れやかでした。

「森の呪いを解除したんだ。これでお前も外に出れる」念願適ったかのように言う狩人に、エルフは全てを察します。森の呪縛は強固なものです。いかにエルフと言えど彼がどの様な方法を用いて呪いを解いたのかまでは分かりませんでした。しかし、首元の痣を見るに、それを彼が肩代わりしたという事は明白でした。そして、人間である狩人が呪いを肩代わりした代償は、酷く単純で、残酷であるという事は代えがたい事実としてエルフを襲います。

エルフは足元から崩れ落ちました。エルフは狩人に縋り付き、声を殺して泣きました。何が何だか分からないといった顔の狩人を見て、エルフは懇願するように言います。「私はあなたと旅がしたかったの...あなたが居ない外の世界なんて見てみたいとは思えない......あなたさえ...あなたさえ居てくれれば...この退屈な森だって、外のどんなところよりも輝いていたのに...」

狩人はすぐに失敗を悟りました。同時に、すべてが手遅れである事も。

狩人は悲し気に目を伏せながらも、何より、エルフのために笑いました。

「聞いてくれ。呪いは誰かが引き受けなきゃ解けないものだった。遅かれ早かれ、誰かがこの役目をやらなくちゃいけなかったんだ。...俺は、お前のその人になれて嬉しい」

「私は...私は誰かを犠牲にしてまで森から出たかったわけじゃない...。それがよりにもよってあなただなんて...」

「いいんだ。俺はもう十分外の世界を楽しんだ。俺の身一つで足りるなら、それが一番良かったんだ」

「十分なんて事、絶対ない。あなたには...あなたには―」

「俺はさ。確かに、もう永くないのかも知れない。けどな、お前と過ごすなら遅かれ早かれ俺はお前を残して死んじまう。それがちょっと早まっただけなんだ。それに永くないとは言ってもすぐ死ぬわけじゃない。...後生の願いだ。それまでは、一緒に居てくれないか」

エルフは口を噤みました。彼女は分かっていたのです。自分がどれだけ嘆こうと、漕ぎ出されてしまった運命を巻き戻す事は出来ないと。

顔を上げたエルフの目は、諦念でも、悔恨でもなく、決意によって燃えていました。

エルフはゆっくりと立ち上がり、狩人を抱きしめます。そして一言、「またね」と言い、狩人に凍結の魔法をかけました。絶対的な魔法です。エルフの魔法は体を凍らせるだけに留まらず、存在そのものを今の時点で固定しました。漕ぎ出された運命は、その運路ごと凍り付いて停滞したのです。

そしてエルフは狩人からもらった手帳に、今までの事と、これからすべき事を書きました。エルフにとって最も恐ろしい事は、悠久の時を生きる内に、彼を思う気持ちが薄れてしまう事でした。ですから、エルフは彼を忘れないために、そして感情を擦り減らさないために、自らの記憶も凍らせ、封印しました。

翌日、エルフは太陽が丁度真上で輝く時間に目を覚ましました。傍で凍り付いた人間を見て不思議に思いながらも、エルフには手元にある手帳がそれを解消してくれるのだろうと言う漠然とした確信がありました。手帳を読み終えたエルフは他の誰でもない自分に言い聞かせるよう呟きます。


「行かなきゃ」



―――――――



―――――



―――


「...悲しい話でしたね」

「...そうだな」


お互いにしみじみと呟く。

幕引きの後、劇場を出るまでは一言も話さなかった私たちは、照り付ける日差しと冷ややかな風を浴びて、漸くぽそりと感想を言い合った。

私が目元を擦り、零れかけた涙を拭くと、ラズさんはズビっと鼻を鳴らす。

次の予定までは大分時間があったので、私たちは劇場の裏手にある、こじんまりとしたカフェに入ることにした。

見た目よりもふかふかの椅子に座り、一枚のメニュー表を見てそさくさと注文を決めた私たちは、感傷に浸るのも程々にして、本格的に感想や解釈を話し始める。


「エルフは呪いを解く方法を見つけに行った、って事でいいんでしょうか?」

「うん、俺もそう思った」

「だとしたら複雑ですね...狩人は残された短い時間を一緒に過ごしてくれればそれでよかったのに」

「んな。結局エルフはその短い時間すら一緒に居れなかった訳だし。それに狩人としてはもっと自由に外の世界を楽しんでほしかっただろうしな。自分の呪いを解消するために奔走させるってのは狩人からしたら本望じゃない気がする」

「ですねぇ...」


ああでもないこうでもないと感想を言い合っていると、頼んでいたコーヒーとココアが届いた。私とラズさんがそれで喉を潤しながら、他の考えも纏めていると、扉に付けられた鈴が控え目に来客を知らせる。

入って来た人の顔を見て、私は危うくココアを噴き出すかと思った。

軽く咽る私を心配そうに覗くラズさんを、何とか身振り手振りだけで振り向かせると、ラズさんもその顔を見るなり目を見開き、すぐさまこちらに顔を戻した。


「開いているお席にどうぞー」

「あぁ、ありがとう」


聴こえてきたのは楽器の様な中音域の声。劇場の前で話しかけてきた謎の人物であり、同時に憧憬のリコリスで狩人役を務めた人物の物だった。


「あっ」


余りの驚きに目が離せなくなっていると、こちらに気づいた彼と目が合った。気まずい。

何を思ったのか、主演様は無表情でこちらに歩み寄ってきて、威圧感と誤認しそうな程の存在感で机の前に立った。


「”憧憬のリコリス”はどうだったかな。お客人」


題名の部分だけ強調するように言っていたので、やはり劇場前で出会った人物と、舞台の上で素晴らしい劇を披露してくれた人物は同じだったようだ。

折角だし彼もいたほうが楽しいだろう。ちらっとラズさんを見て、良いですよね、と確認を取ると。勿論、と言う旨の頷きが帰ってくる。


「凄く面白かったです。...その、折角だしお話聞かせてくれませんか?」


言いながら、ソファのとなりをポンポンと叩くと、彼はほんの少しだけ考える素振りを見せた後、「では、失礼する」と言って、壁に詰めた私とかなりの距離を取って座った。


「主役だったんですね...あの、お名前は?」


狩人さんと呼ぶわけにもいかず、なんと呼べばいいか聞くと、彼も虚を突かれた様な顔をした後、答えた。


「シュラスと言う。名乗りが遅くなってしまってすまない。お二方はなんと?」

「私はマリエルと言います」

「ラズだ」

「そうか。覚えておこう。実の所、二人は少々印象に残っていてな」


そういわれてギクッとする。やはり演目の名前すら知らない状態で劇上にいるなど言語同断だったのだろうか?

私とラズさんがわたわたと慌てるのを見て、シュラスさんは「あぁ」と手を振った。


「そうではない。舞台上から見ると、案外最前列ではなく中ほどの所が良く見える。二人はその辺りに居たから演技中も良く見えたのだが、二人の泣き始めた所が他とはまた違ってな」

「え...?」


何でもない様に泣いていたことが暴露されてラズさんは若干気まずそうにしていたが、ここは見て見ぬ振りをすることにして、シュラスさんの続く言葉を待つ。


「大体の観客はエルフが狩人に縋り付くところで泣いていた。けれど君たちはエルフが狩人を抱き、凍らせたところで泣いていただろう」

「あ、はい。そうですね」

「参考までに、どうしてか聞いてもいいかな」


あの時は反射だった。じわじわと凍っていく魔法操作の技術など意識もできない程、反射的に泣いてしまって視界がぼやけ切ってしまったのを覚えている。

ただ、理由が分からないわけではない。決定的に悲しい場面だった。


「あの場面は、二人が決定的にすれ違ってしまった瞬間でした。お互いがお互いの事を何よりも想っているのに、その全てがすれ違ってしまうなんて、...悲しすぎます」

「なるほど...ラズ殿は?」

「......大体は同じだ。ただ、俺はどちらかと言えば狩人に同情して、だな。長い時間と、それよりもっと長いこれからの時間を犠牲にしてでも叶えたかった悲願が、狩人視点からすれば無下にされた瞬間に見えた」

「ほう?それはとても面白い見解だな。気に入った」


シュラスさんは満足そうに頷くと、狩人の時とはまた違うニヒルな笑みを浮かべた。


「こちらはかなり満足した。礼と言っては何だが、聞きたいことがあれば時間の許す限り聞くといい」


こうして始まったシュラスさん、私、ラズさんの質問会兼考察会は花火に間に合うギリギリの時間まで終わらなかった。



「師匠!早く早く!」

「おま...足速すぎ...」


結局、ギリギリの時間まで話し込んでしまった私たちは、シュラスさんとのお別れもそこそこに、全力ダッシュで乗合馬車に向かった。

私が走り始めると面白いぐらいあっという間にラズさんが置いてかれてしまうので、ラズさんの手を引いて半ば無理やり走らせたのだが、普段から運動をしない性質のラズさんには相当堪えた様だ。途中ぼそっと「飛ぼうかな...」と言っていたのは聞かなかったことにした。

滑り込みで馬車に飛び込んだ私たちは、開いている席にどかっと座って、私は「ふぅ」と、ラズさんは「ふううううぅ...」と一息つく。

久しぶりの運動で、体が芯から温まり五感が開く様な感覚が懐かしい。ラズさんの事も一応気遣って全力疾走はしなかったので心拍も心地よいリズムを刻んている。

満足気な私と対照的に、ラズさんの肩で息をし、若干苦しそうに眉を寄せている様子は”げっそり”をこれでもかと体現していた。


「大丈夫ですか?飲み物いります?」

「いや、ダイジョブ...」

「大丈夫にはとても見えないんですが...」

「舐めるなよ...これでも歳的には運動盛りだからな...」

「左様ですか...」


全身で満身創痍一歩手前だと言う事を語りながら口ではその逆言うので、そのちぐはぐさが可笑しくて私は心の中で少し笑った。顔には出さない様に務めたはずだが、何故か明敏に私の心中を察知したラズさんが、若干の不服と供に胡乱な視線を投げてくる。...多分ラズさんが教えてくれないだけで心を読む魔法があるんだろう。じゃなきゃ説明が付かないと思うの。

私は最早誤魔化す事を諦めて、話をそらしてしまう事にした。


「花火って私見たことないんですけど、どんな感じなんです?」

「魔法使いが空に爆発魔法を使うんだよ。それもただ爆発させただけじゃなくて、色やら形やらが色々ある」

「はぇー」


爆発に色やら形を設定すると言うのは考えもしなかった。言わずもがな高度な技術なのだろうが、なんというか、難しさのベクトルが違う気がする。

魔法使いにおいてはギフテッドであるラズさんが最高の技術者なのは覆りようのない事実だが、ラズさんは果たして花火を出せるのだろうか?何の根拠もない感覚的な話ではあるが、どことなく厳しい様な気がする。


「師匠は花火出せるんですか?」

「無理」


予想していても埒が明かないので訊いてみると、ラズさんは即答、というか最早語尾を食らう様な形で否定してきた。


「花火は代々受け継がれてる魔法でな。なんつったっけな...ベルトースだかベルカースだかって家が継承してて、その技術は門外不出なんだよ」

「なるほど...他にも家で継承している魔法ってあるんです?」


純粋な興味から何でもない様に訊くと、ラズさんは口を噤み、やや目を伏せた。


「あるよ」


聴いてすぐに分かった。

恐らくラズさんの実家であるオルゼルド家がそうなのだろう。ラズさんがこの色を出す事は殆ど無いし、出す時は決まって家族もとい家の話をする時なため分かりやすい。

私はそこそこ後悔しながらも、いつかは向き合う事だろうとあまり深刻には考えないようにして、隣に座るラズさんの手をそっと握った。

複雑な色だ。膨大な量の怒りや憎しみ、トラウマなんかがごちゃごちゃになったような暗い色。しかし、はっきりと見える色が一つある。

寂寥だ。

それに気づいてからは、ラズさんがこうして胸の疼痛と向き合っている時、可能な限り体に触れて存在を主張するようにしている。『私はここにいます』と伝わる様に。

恐らく古傷と見合っている最中のラズさんは私が手を握っている事に気づいていない。毎度毎度、ふと意識が戻った時に何故か握られている手を見て、ラズさんはものすごく不思議そうな顔をするのだ。今だってきゅっと手を握ってあげてもラズさんの目はどこか遠い過去を見つめたままだ。

しかし、だからと言って全く効果が無いと言う訳では無いらしい。ラズさんは余り思い出したくない事を思い出してしまっているせいか、毎回呼吸が薄くなるのだが、私が手を握ると平時と同じように戻るのだ。心臓の音もあわただしい物から幾分落ち着いたゆったりとしたものになるので、意識されているかを置いておけば、それなりに安心してくれているらしい。

私がラズさんを拠り所にしているように、ラズさんの一部も私が背負えている様で嬉しいものの、やはりこういった問題は解決してしまうに越したことは無い。それはラズさんが折り合いをつけるのか、はたまた家族と話し合う機会が必要なのか。それに私は関わるべきなのか、そもそも関わる事が出来るのか。関わったとして、私に出来る事はあるのか、あったとして、どれだけの事が出来るのか。

正直、とても私などでは推し量れない程の溝がある気がしてならない。それほどまでにラズさんの声音は酷いものだ。

考えれば考えるほど心配になってきて、知らず知らずの内に眉を寄せていたらしい私に、いつの間にかこちらの世界に帰ってきていたラズさんが「大丈夫か?」と聞いてくる。そっくりそのままお返ししますよ、本当に...。


「何がです?」

「いや、ちょっと深刻そうな顔してたから...考え事?」

「いえ、ただ花火の大きさを変えられるのなら爆発魔法にそのまま転用できそうだな、と考えていただけです」

「物騒な事いうなよ...」


全くこの人は...。

これだけ一緒に過ごしてきて、極めつけには人の感情を読み取るのは得意とまで言ってあるのにも関わらず何故隠し通せてると思っているのだろうか。いっその事、洗いざらい話してくれたら楽なんだけどなぁ。

まぁこれに関しては聞こうとしない私にも幾らか非がある。触れてほしくないところは誰しもあるが、その線引きは事の重大さや親睦の深さ、種類で大きく変動するものだ。いつまでもビクビクと怯えているのが必ずしも賢明とは言えないだろう。

私は決意を嘆息に込め、口を開こうとして、辞めた。

今日はラズさんが態々私の誕生日のお祝いをしてくれている日だ。ラズさんとしても湿った話をするのはまた後日の方がいいだろう。

...しかし私はどれだけ理屈で固めようとしても、『こうやって手遅れになるまで引き延ばすのだろうか』という一抹の不安を拭えなかった。




馬車を降り、少し歩いたところにある河川敷を北上していくと、太鼓やら笛やらの楽し気な音と人々の賑やかな歓声が聞こえてきた。どうやら花火というのはお祭りも兼ねているらしい。


「結構人多いですね」

「そうだな。前に見に来た時に良い感じの場所見つけたからそこ行くか。そこなら多分人もあんまり居ないはず」

「行きましょう行きましょう。人混み苦手ですし...」


あんまり人が多すぎると流石に情報を塞ぎきれなくなってしまい、頭痛や吐き気を起こしてしまうので、ラズさんの申し出は非常にありがたい。ラズさんの『前に見に来た時』発言が、主に一緒に行った人という観点で気になりはするものの、それを今ここで聞くのは無粋だろう。

私たちは花火の種類や構造の予想を話しながら、川べりに沿って暫く歩いた。

人混みを抜け、少しだけ奥に行った所で河川敷から離れ、近くのちょっとした山道に入る。人の喧騒が離れ、代わりに森の冷ややかな静けさが背筋を撫でる。太陽は馬車に乗ってる内にすっかり落ちてしまっていて、辺りはかなり暗い。夜の森と言うのは、どことなく私の後ろめたいものの全てを把握して、責め立ててくるような妙な威圧感がある。あぁ、丁度海と真逆なのかもしれない。

木々がわずかに残った葉を揺らす音と、枝の隙間を風が通り抜ける音に耐えかねて、私はラズさんの腕にしがみついた。すると、ラズさんがピタッと足を止める。

何事かと思い、暗闇で見えないだろうラズさんの顔を見ると、辺りが月光によって照らされている事に気づいた。どうやら私は知らず知らずの内に目を瞑っていたらしい。

そこは不思議な場所だった。

狙ったかのようにそこだけ木々がぽっかりと無くなっていて、眼下に広がる河川敷が一望できる。月明りも遮るものが無いため、かなり明るくなっていて、隣に立つラズさんの顔をしっかりと見ることが出来る。


「...穴場すぎません?」

「まぁ、なんせ迷ってたら見つけた所だしな。見つけようと思って見つけられる場所じゃないんじゃないか?」

「迷った...?」

「そうそう。野暮用でこの森の奥まで入ったことがあったんだけど、迷いに迷ってたどり着いたのがここ。当時は感動ものだったなぁ...何時間もひたすら歩かされて、ようやく出れると思ったら丁度花火が空にドカンってな」

「おぉー...それは...良くも悪くも思い出ですね」

「そうだな。花火は確かに綺麗だったけど、森で迷うのはトラウマだ」


月明りに照らされながら話していると、人混みの歓声が高まったらしく、こちらまではっきりと聞こえて来た。


「そろそろみたいですね」

「だな」


期待からか、二人で息をのんでいると、細い火種が空向かって打ち出された。

十分な所まで上昇した所で、火種はお腹を底からひっくり返す様な音と供に真っ赤に花開いた。なるほど。だから花火なのか。

ぱらぱらと花火の残滓が下に落ちていく軌跡すら夜の空にはくっきりと見え、その姿はさながら裕福な実をつけた稲穂の様だ。余りの迫力に感動する暇も無く、今度は何発も何発も空に向かって火種が上っていく。

ドン、ドドン、ドン、と時間差で炸裂していく花火は、事前に説明を受けた通り多種多様な形や色をしていて、私は初めてカラフルに染まった夜空を見た。

花火の合間を縫ってちらりとラズさんの方を見ると、満足気な顔で、明るくなった夜空の影を見ていた。

私は何も言わず、空に向き直る。

一度離した手は、いつの間にか固く繋がれていた。


どこか現実離れした幻想的な時間は、今までで一番大きな花火がドンと空を彩る事でその幕を閉じた。

私はすっかり寂しくなった夜空に、暫く花火の面影を探して呆けていたが、群衆が楽しそうに帰路に着く音で我に返り、興奮も露わにラズさんに向き直った。


「師匠!綺麗でしたね!!」

「そうだな」


未だに夜空を見上げているラズさんに感謝の意も込めて感想を言うと、どこか呆けているラズさんは生返事気味に返した。いや、呆けていると言うよりは、別の事を熱心に考えているといった方が正しいか。

ラズさんは少しの間、空を見上げて何かを決めあぐねているようだったが、少し心配になった私が声を掛けるよりも早く、小さく一息ついてポケットから小さな箱を取り出した。

ベルベット生地の小箱から出て来たのは、小ぶりながら美しい淡い桃色の宝石が乗った指輪だった。完全に思考が止まってしまった私に構うことなく、ラズさんはそっと私の手を取り、左手の中指に嵌めた。

私は頭を真っ白にしながら、月明りを浴びてきらりと輝く指輪を見る。ラズさんはそんな私を見て、やや緊張した面持ちで話し始めた。


「プレゼント。お守りにもなるように宝石には魔法を掛けてある。悩んだけど......どうでしょうか」


最後は冗談めかすように言うラズさん。多分気恥ずかしかったのだろう。

もう一度、指輪を見る。ラズさんの言葉を、噛み締める様にもう一度、頭の中で繰り返す。左手で光る小さな宝物が、この世で何より愛おしくなって、体を目いっぱいに使う様にして抱きしめた。

言葉一つでも発してしまえば、今まで頑張って抑えてきた想いの丈を吐き出してしまう気がして。

私はラズさんの胸に飛び込んだ。体を駆け巡る甘い痺れの様な幸福に、どうにか折り合いをつけるために力いっぱいに抱き着いて、それでも足りなかったので、ぐりぐりと頭を押し付ける。そうして、酷く心配そうなラズさんを他所に、心が落ち着くのを待った。気づいた時には顔がぐしょぐしょで、どうやら私は泣いているらしかった。

少しして、ラズさんがこちらを伺う様に訊いてくる。


「で、弟子...?」


漸くほんの少し余裕ができた所だったので、間違っても口を滑らせないように気を張りながら答える。


「...嬉しいです。あんまりにも幸せで、どうにかなってしまいそうでした。......本当にありがとうございます。大切にします」


湿った声で有り余る感謝を伝えると、ラズさんは安心したように一息つき、やがていつもの様に私の頭を撫で始めた。


「...失敗したかと思ったぞ」

「そんなわけないでしょう。私が師匠からもらったものに感謝しなかった事がありますか?」

「いや、感謝されるのと喜ばれるのとじゃ微妙に話が変わってくるだろ?」

「言っておきますけど、私はいつだって師匠に感謝していますし、何かして貰う度、何より喜んでるんですからね。私は師匠が思っているよりずっと―...とにかく!そんな心配はいらないってことです!」

「お、おう...そうか」


ラズさんが鈍感でよかった。少しでもその辺りに敏い人なら、乱暴に隠された感情にすぐに気づいてしまうだろう。...いや、違うか。


―ねぇ。もう、とっくの昔から気づいてるんでしょう?




グラン王国以北地域東区の大森林。噂によれば魔力量こそ大したことないものの、魔法、それも攻撃魔法では無く幻惑魔法を扱う魔獣が生息しているという王国屈指の危険地帯。言わずもがな国から直々に立ち入り禁止が言い渡されている場所なのだが、一介の魔法使い見習いの私がたった一人でここに立っているのは深いような浅いような理由がある。


その日は私の魔法によって傷ついた諸々が改善しているか確認するための定期健診に行っていた。

使い方や何を調べているのかが皆目見当のつかない機器であれやこれやと診察を受け、些かげっそりしながらラズさんの待ついつもの休憩室に戻ったのだが、ラズさんは何故か心ここにあらずといった様子だったので、私はコーヒーを二人分淹れてガブエラさんを待った。

カルテらしきものを持ったガブエラさんから、症状のほとんどは回復していて、無理に特異魔法(仮の名前として私の魔法をそう呼ぶことにした)を使わなければ精神状態も簡単には追い込まれなくなった、という事を聞き、一安心していると、見計らったかのようにラズさんが口を開いた。


『そろそろ頃合いだし、魔獣駆除の段階に行こうか...』


ラズさんが絞りに絞った残りかすの様な声で言うものだから、私もガブエラさんもけらけらと笑ってしまった。ガブエラさんによれば、ラズさんは私を信頼していないわけでは全くないが、それはそれとして心配し過ぎて長らく魔獣駆除へ移行するのを先延ばしにしていたらしい。道理で過剰な程魔法が扱えるようになるわけだ。正直、私の感覚的には夏あたりの実力で大抵の魔獣は討伐できるようになっていたはずだ。一方今の実力は、慢心するわけではないが、どんな魔物が来ても負けない自信がついてしまう程に鍛え上げられている。昔、路銀を稼ぐために特異魔法で魔獣を狩っていた時よりも、恐らく今の方が魔獣を狩る効率は遥かに良いだろう。...心配症というか、過保護と言うか...。


と言う訳で魔獣駆除の依頼を受けた私だが、ここにきてまた問題が発生したと言う訳だ。無論、私がこんな危険な場所に立っている、いや、立たされている理由そのものなのだが。

依頼を受けるために私は魔法院に向かったのだが、身の丈に合わない依頼を受けられない様に依頼を初めて受ける際には魔力の簡単なテストをしなければいけなかった。はい、と良い笑顔の受付さんから受け取ったのは透き通った球体の魔道具。

その後の展開はお察しだ。

何とか必死に誤魔化そうとするラズさんと、『規定ですから』と尚も良い笑顔で毅然と首を振る受付さん。仲裁する私。流石のラズさんも『私はそんなに不出来でしょうか』という殺し文句には耐えかねたようで、渋々、いや渋渋渋引き下がってくれた。その時の泣きっ面で口いっぱいに苦虫を頬張りながら蜂に刺されたようなラズさんの顔は、正直言うとちょっとウケたが私を心配しての事なのでひっそり心の中に留めておいた。

さてと、と私は鬱蒼と木々が茂り、ろくに見れない空を仰ぐ。


「...にしたって難易度高くない?」


依頼の内容はグラン王国と北東部に位置する隣国”スレヴァータ”とを繋ぐ森林に厄介な魔獣が現れたから討伐して欲しいというものだ。

厄介な魔獣は、確認されている物で言えば”方向感覚と地形を操作する魔獣”、”大切な人間に化ける魔獣”、”倒せど倒せど無限に湧く魔獣”の三種類らしい。...多くない?......強くない?

ちらりと左手の中指に光る桃色の宝石を見る。花火を見た日にラズさんがくれたものだ。ラズさん曰く”私を世界から守り、私から世界を守る”との事。後半の、人を何だと思っているのかと問いたくなる文言は一旦スルーするとして、この指輪がある限り、余程の事が無い限りは私の身の安全は担保されていると考えていい。

とはいっても、今回の目的は生還ではなく討伐なので、どう考えてもかなりしんどい戦いになるだろう。まぁ、順当にやれば、の話だが。

私はすっかり板についた動作で魔力を集め始める。日々の特訓が功を奏して、最近は新たなイメージを構築できるようになっていた。周辺の魔力を集めるのではなく、魔力検知で感知できる魔力を一続きの物として認識し、それを近場から手繰っていく様なイメージ。

あっという間に臨界点ギリギリまで集まった魔力を、今度は森に等間隔に分散させる。

強い魔獣が跋扈する森。それが無くとも、国同士の貿易路として非常に邪魔な森。要らない事は確認済みだ。


―だったらやる事は一つでしょう?


私は掲げていた手をいつもの様に握りこんだ。同時に先日の花火の様な、お腹をひっくり返す様な爆発音が各地で多発的に起こる。住んでいた動物には申し訳ないが、特筆して珍しい生き物がいない事も確認にしているので、うっかり種が一つ消えるなんてことはないだけマシだろう。

収まったのを確認して、今度は自分の周りに魔力障壁をはり、かなり近場で爆発を起こす。魔力障壁の方に力を割いたため余り威力は出ていないが、それでも私の周りにちんまりと残った木々を吹き飛ばすには十分だった。

土煙が収まり、晴れた視界には、見渡す限りの平原がかなりの距離続いていた。

流石に魔力を一気に使った反動で、無視できない疲労感がずっしりと頭を重くしている。

巻き込んでしまうと冗談じゃない事態になるので、森の中心部まで行く必要があった関係上、帰り道はそこそこ長い。

私は無事に達成できたことの達成感と疲労感を七対三程で感じながら、恐らくは褒めてくれるであろうラズさんの顔をあてに帰路についた。


依頼の森から家までの道のりにガブさんの病院がある事と、もし何か怪我でもした時に都合がいいからと、依頼の後は例の休憩室で集合する手筈になっていていたので、私はすっかり顔を覚えられたらしい受付さんにぺこりと会釈をして休憩室に向かった。


「戻りまし...たぁ!?」


ガラガラと扉を開けて中に入ると、ギュンと近づいてきた影に両脇をがっしり持たれて抱えあげられた。突然の事に完全にパニックになっている私を検査するように、右に左にと傾けて確認して満足したらしく、ラズさんは私を降ろし、頭を撫でた。


「良かった...無事だな?」

「は、はい......その......いえ、何でもないです...」


余りの過保護っぷりに小言でも言ってやろうかと思ったが、ひたすらに心配しているのが痛々しいほど声音から伝わってきて、私は言葉を飲んだ。実力如何に関わらず心配なものは心配なんだろう。

そこそこに疲労が溜まっていたのもあって、いつもの五割増しで心地良いなでなでを堪能していると、ラズさんの後方、部屋の奥からくつくつと堪えかねたような笑い声が聞こえた。


「ふふっ...いやぁ、本当に仲が良いね、君ら」


ラズさんとしては痛い所を付かれた形らしく、ほんのり顔を赤らめながらフル無視を決め込んでいるので、私は依然として撫でられたまま、ラズさん越しにピースを出した。


「ほら、マリエルちゃんも疲れてるだろうし、そんなとこで睦んでないで座るか帰るかしたら?怪我も無いみたいだし、医者としては『今日はゆっくりしてください』ぐらいしか言えることないと思うよ?」

「...それもそうか。じゃ、帰るわ」

「はいよ、お疲れ」

「お疲れー」

「お疲れ様です。お仕事頑張ってください!」


各々挨拶も終わらせたところで、私とラズさんは連れたって帰路についた。


「どうだった?初依頼」

「初って言っても魔獣狩り自体は昔からやってましたし、特別感みたいなのはあんまりなかったです。ただ自分の成長は感じましたけど」

「まぁ、実際無茶苦茶なぐらいには成長したもんなぁ」

「誰がやり過ぎたせいでこうなってると?」

「す、すまん...けどなんかあるかもしれないだろ?心配なのは心配なんだよ」

「...まぁ、悪い気はしませんけど」


左手の指輪を見ながら言うと、ラズさんも意を介したらしく、ぽふりと頭を撫でてくれる。

心配するのはそれが大切だと言う事の何よりの証左だ。家にある巨大な熊のぬいぐるみや、初めて買ってもらった参考書、右耳に光るピアスのどれもが私にとって大切なものだが、この指輪はそれらよりも少しだけ、ラズさんの想いが籠ってるような気がして愛おしい。

ラズさんの魔法とは別に、自分の魔法で指輪自体を守るのもありかもしれない、と思いながら深紅に輝く宝石を日に翳すと、応える様にきらりと光った。




「うぅーん.........さむい...」


布団の隙間から流れ込んできた悪戯な冷気に起こされて瞼を持ち上げると、冬の朝特有のぎらっとした朝日にお出迎えされた。

暫くは太陽の輝きから目を逸らし布団で縮こまっていたが、二度寝してしまう訳にもいかないので私は渋々布団から這い出る。

最近は本格的に寒くなってきたが、私が冷え性だという事を知ったラズさんが厚手の靴下ともこもこのスリッパを買ってくれたので、ちゃんと支度さえすれば寒さに煩わされることはほぼ無い。ラズさん様様である。

とはいうものの、冬というのは無条件に体が温まるような行動をしてしまいたくなるものだ。なんなら体中完全武装でぽかぽかにしながら温かい物を飲んで、汗を掻く一歩手前ぐらいになるのが望ましい。

私はいつものように手鍋でお湯を沸かし、普段であればマグカップと手鍋でお湯を入れたり戻したりして温度を少し下げるところを、今日はそのままマグカップに入れてココアの粉末を溶かした。

淹れたココアを片手にソファに戻り、気休め程度に息を吹きかけて一口飲む。


「あっつ...」


本当は様子見がてら少しずつ飲むつもりだったのだが、勢い余ってそこそこの量を口に含んでしまい、直に当たった舌と無理やり嚥下した喉をやけどしてしまった。ひりひりする舌を、べっと出して外気に当てながら、昨日読んでいた本が丁度いい所だったことを思い出し、私は部屋に本を取りに戻る。

昨日寝る前に布団で読んでいたのでベットにあるはずなのだが、パッと見ただけでは見当たらない。布団を引っぺがしてみると、どういう訳か布団と毛布の間に入り込んでいたようで、ばさっと言う音ともにあられもない姿の本が姿を現した。折り目ついてたら凹むなぁ...

少々緊張しながらソファに戻り、恐る恐るページをばさばさとやって確認してみると、幸運な事に折り目や破れ目などは見当たらなかった。僥倖僥倖。

昨日読んでいたページを開きながら、片手間にココアを飲むと、熱めに作っておいたのを完全に忘れていて、また少しやけどした。熱めココアなぞ二度とやるまい。

ぱらぱらと開かれたのは魔法の極限、”概念魔法”について言及されているページだ。

いつかの時、雷の発動が苦手だった私にラズさんが言っていた事が、より詳しく書かれている。

五つの属性にはそれぞれ、”破壊の不可侵”、”侵入と支配”、”指向性の指定”、”停止の強制”、”時空無視の破壊”という原初の概念を持ち、魔法の創設者であるセラフはこの概念に後付けで火やら水やらの目に見える分かりやすいイメージとしての属性を付与したとの事。魔法史によればセラフは属性に縛られず、魔法使いをもってしても魔法の如き所業を行使できたらしいので、そもそも属性という概念自体あまり重要なものではないのだろう。事実、炎魔法は対象以外を燃やさないし、水魔法は飲めない。

どうやら魔法というのは、より高位な魔法になればなるほどセラフの魔法に近づくらしく、最高位たる”概念魔法”は原初の概念をそのまま現世に反映する絶対的な魔法らしい。当時見た時からなんとなく察してはいたが、ラズさんの扱う”ジャッジメント”は雷の概念魔法とのこと。

概念魔法の習得自体、稀代の天才が恵まれた環境と血のにじむ様な努力、万に一つの幸運を以てしてようやく取得できる可能性が出てくるか否か、という次元の話らしい。ただこれには例外もあり、ギフテッドはこの五属性の概念魔法を一つだけ使える様になるらしく、”ギフテッド”の語源はそこから来てるそうだ。現代ではあまりの習得難易度の高さから、ギフテッド以外には使えない、という本質的には誤りではあるが実質的には正しい物が定説となっているらしい。この本の著者は、やがて概念魔法がギフテッド以外でも使えるという事実を人々が完全に忘れてしまう可能性を指摘し、憂いている。

私は本から顔を上げた。

少し前に読んだ本によれば、王家は、この前の花火の魔法と同じく相伝の魔法を持っているらしく、詳しくは明かされていないものの、国防という点で非常に重要な役割を果たしているらしい。このことから、ギフテッドが存在する世で王家が今なお存続している理由は明確になったが、私としてはまだ一つ疑問点があったのだ。その逆はないのか。つまり、王家と国民がギフテッドを殺そうとしたことは無いのか。

結論から言えば、隅から隅まで読んだ魔法史の本にはそのような事例は一切乗っていなかった。しかし、ギフテッドによる目を覆いたくなるような圧政は何度か記述があったので、少々不思議に思っていたのだ。

しかし今回のもので大方説明は付くだろう。魔法の存続という観点から考えればいいわけだ。

魔法の最高位である概念魔法は現実的に習得するのが不可能に近い。ギフテッドが居なければその代の世界は概念魔法をすっぱりと失う。この世界は、魔獣の対処で精一杯と言う訳でも無いが、人間同士で小競り合いをするほど余裕があるわけでもない。ギフテッドと王家はそれぞれ権力的な意味で拗れつつも、お互いの力が国にとって必要で、替えが効かないからこそ、この歪な支配体制が何千年と続いている、というわけだ。


「なるほどねぇ...」


私はマグカップを持ち、ココアを一睨みして念のため息を吹きかけて飲んだ。...ちょっとぬるい。

時計を確認すると、そろそろ朝食の準備をし始める時間になっていた。私は本をしおりを挟んで閉じ、ソファから立ち上がってぐいっと伸びをした。

すると玄関の方で、かこん、というポストに何かが入った音する。もともとはアウトドアだった私も誰かさんの影響で今ではすっかり引きこもり気味なので、郵便物は気づいたときに取らないと暫くの間そのままになってしまう。ふわぁと欠伸をしながらドアを開け、外の郵便受けを覗くと、どうやら手紙が一通届いたらしい。紺色の封筒に金色の蝋で封がしてあり、高級感甚だしい。恐らくは公的な機関からの手紙なのだろう。

戸締りをし、ついでに持ってきていた本を自分の部屋に戻してから、リビングの戸を開けて食卓に手紙を置く。

ふと目に入った宛名は『マリエル・グランシェル様』。


―私じゃん...


こんな格式高そうな手紙を寄越してくるような場所から直々に指名されている事実に軽い腹痛を覚えながら、恐る恐る封を開けると、どうやら内容は魔法院からの昇級試験の案内らしい。変なものでなかったことにひとまず安心しつつ、それはそれとして『いよいよか』という緊張が走る。視線を文面に滑らせると、今回の昇級試験は特例で、見習いの三級と二級をすっ飛ばして一級の試験をするらしい。三級は魔力を量ったり魔法に関する知識テストをするだけ、二級は簡単な魔法を使えるかどうか確認するだけなので、魔獣駆除の実績からしてもどちらも必要ないと判断した、との事。

肝心の一級の試験内容は海岸に巣食う魔獣の討伐だ。この試験内容も特例で難しくなっているらしい。なんでも、見習いを全てスキップする事は規定で出来ないため、表面上は見習い一級の試験だが合格後には魔法院の名簿に特例記述がされ、魔法使い三級になった時に一足飛びで一級にまで昇格できるようにしてくれたようだ。融通が利かないんだか利くんだか良く分からない組織である。

試験は一週間と三日後。

準備をするには十分な時間だ。だからと言って余裕があるわけでもない。なんせ私は泳げないのである。万万が一海に引きづりこまれでもしたらその時点で詰みだ。

もし海に引きずり込まれたら風魔法で海を割るのはどうだろう、などともしもの対策を練っていると、リビングの扉がぎいっと開かれた。


「おはよー...」

「おぉ。おはようございます。今日は早起きですね」

「なんか起きちゃったんだよなぁ。普通に眠い...」

「膝枕でもしますか?」

「いい。重いだろ」

「...恥ずかしいとかじゃ無いんですね」

「それもある」


他愛もない会話をしながら水を一杯注いできたラズさんは、食卓に座っていた私の正面に座る。これはお互い様なのだが、私たちの習性として、どちらかが先に座っていたほうに座ると言う物がある。私がソファに座っていればラズさんはその隣に来ただろうし、はたまたラズさんが先に食卓に座っていたら、私のその正面に座る、といった様に。

ガブエラさんから小言を頂いたらしく朝一番だけは水を飲むことにしたというラズさんは、おおよそ水を飲んでいるとは思えない表情で一気に飲み干した。マグカップを食卓に置いた際に手紙に気づいたらしく、やや目を見開いて「あぁ」と一言。


「ついに昇級試験か」

「あれ、なんで分かるんですか?」

「封筒が魔法院のやつだからな。宛名も俺じゃなくてお前のだし」

「あぁ、なるほど」


ラズさんともなれば頻繁に魔法院から幾度か手紙を貰っているのだろう。ただでさえ高級感溢れる気品高いデザインなので覚えやすいし、何度も何度も貰っていればそりゃ覚えもする。ただ、ラズさんとしてはあまり良いイメージはないようで、声音も若干辟易している物だし、ほんのり眉が寄っている。恐らく緊急だのなんだのといって厄介ごとを持ってくる媒体と認識しているのだろう。


「見ていい?」

「どうぞ、なんか色々特例だそうで...」

「まぁそりゃ普通にやるわけにもいかんわな......っておいおい、やけに気前いいじゃねーか」


するすると手紙を読んでいったラズさんはかなりの好待遇に気づいたようで、驚きに目を若干見開いている。


「あ、やっぱりそうなんです?”特例”の方向性が結構プラス向きですよね」

「うん。それだけ認められてるって事だろうな」


まるで自分の事のように誇らしげなラズさんだが、実際に自分が誇らしいという事は眼中にないらしい。


「だって師匠の弟子ですもの」


それを聞いたラズさんは一瞬だけ不服そうな顔をしたが、ふと何かに気づいたようで、にやりと不敵に笑った。


「そうだよなぁ、弟子は取らねぇって聞かなかったあの頑固野郎の弟子だもんなぁ。そりゃ優秀さね」

「...もぅ......」


一本取られた。

私は『いつか絶対に逃げられない状況にして褒めちぎってやる』と決意を再確認しながら、表面上は”してやられて引き下がった”という様にとぼとぼとキッチンに引っ込み朝食を作り始めた。





「...不安か?」

「......はい。少し」

「そうか」


食卓の上でごく微かに震えていた手をラズさんがそっと握る。


「良い事だ」

「そうですね」


つい先ほどまで温かいコーヒーの入ったマグカップを持っていたというのに、私の手指は氷の様に冷え切っている。私の頭には無視できない死のリスクがこびり付いていた。


「大丈夫」

「...だいじょうぶ」


安心させるように私の手を握るラズさんの手は少し震えている。ラズさんも分かっているのだろう。明確な負け筋が、今回はある。


「...そろそろ出ます」

「おう。頑張れ。お前なら出来る」


ラズさんの激励に私は強く頷く。

ラズさんから受け取った応援は、いつもとは違い無条件で安心できるようなものでは無かった。

けれど今はそれが良い。今回は一瞬の油断で命を落としてしまう危険を孕んだ難敵だ。用心に越したことは無い。それほどまでに海辺の魔獣というのは恐ろしい。

私は態々玄関先まで見送りに来てくれたラズさんに、ラズさんと、何より自分を安心させるために笑いかけ、件の海岸へと向かった。




以前訪れたことのある西の主要都市から馬車でもう一時間程西に進んだ辺境の地。

活気があった主要都市とは打って変わって、寂れたような雰囲気のある静かな町を抜けた先には、見渡す限りの海と、それを封鎖する鎖、その鎖に等間隔に付けられた『立ち入り禁止』の文字と王族の紋章が押されている看板があった。

不可避の背徳感を味わいながら鎖を潜り、一見すると何の変哲もない海を魔力探知で確認する。


「いるなぁ...」


海に巣食うだけあって体がとんでもなく大きい。綺麗な球体の底を平に切り取った様な形をしていて、平たくなった底面には恐らく吸盤のようなものがあり地面と密着している。そこから触手が三十本ほど生えていて、無意味にうねうねと動いている。今回最も警戒すべきはこの触手だ。

どうやら感覚が非常に敏感な生き物らしく、私の魔力探知を肌で察知したようで、すべての触手がこちらに向かってくる。いよいよ戦闘開始だ。

速度こそ速すぎると言う程ではないものの、ぱっと見ただけでは数えきれない程の触手がわらわらと水面から飛び出し、私を襲う。

私は自分に届くであろう順番を見極め、当たる直前まで待ってから、触手を風魔法で切断し断面を炎魔法で炙った。今回の対策の肝はここだ。どれほど優秀な魔法使いだろうと思考がままならない状態では魔法は使えない。その点、海というのはその状況を作られやすい事から非常に危険な場所である。実際、数々の魔法使いが海岸付近に湧いた魔獣を狩ろうとして失敗し、命を落としている。

今回の魔獣の概要を調べた時に、順当にやれば何が一番怖いのかを考えた。普通に戦えば、私は魔獣の触手が海から数十本出て来た時に、片端から切り落としていくのだが、遠隔に意識を向けすぎて忍んでいた触手に足を絡めとられ、海に引きずり込まれててしまう事を危惧した結果、自分に極々近い所に来た触手を切り落としていくことにした。断面を火で炙っているのは単に止血のためだ。あれほどの巨体が失血死する程の血を流せばここら一帯の海の色が変わってしまいそうだったからである。

目で判断するとややこしいどころの騒ぎではないので、魔力検知で触手の場所を把握し、刻んでいく。

やってみるとこれはこれで案外楽しいのだが、なんせ触れられたら終わりの物体が目前までくるものだから少々肝が冷えるのは否めない。かなりの判断力と、見誤った時の反射神経が求められるので、魔力の消費量とは裏腹にかなり疲れる。

このまま何事もなく触手を刻んでいって、弱った所をどかんとやって終わりにしたいところなのだが、やはりというか案の定というか、一筋縄ではいかないようだった。

ほぼ目の代わりとして魔力探知を使っていた私は、魔獣の本体に当たる場所にかなりの量の魔力が集まっていくのを確認した。これだけ巨大化するまで生き残った訳だし、魔法を扱える魔獣だったという事に驚きはない。それに魔法の出力に関しては、普段修行で相手にしている人がこの世界の天井なので基本的には殆ど防げるという自負がある。そのため、恐ろしいのはこの触手のような物理攻撃であり、魔法の攻撃にいくらかシフトしてくれるのならこちらとしては有難い限りだ。

迫りくる触手を逐一捌きながら、海底で集まっていく魔力を読み取り、すぐに対応できるよう準備しておく。やはり私の読み通り、魔力自体は私が十分防げる量で収集が止まった。


「ん...?」


いや、待てよ?

魔力は取集を終えても尚、海底に沈んだままだ。あれでは周りの水圧で魔法の威力は著しく落ちてしまう。ともすればこちらまで届かないなんてこともあり得る。

魔獣はより高位になればなるほど頭も良くなる。そしてより生き残っている魔獣こそが高位の魔獣だ。生き残っている年数は見ればわかる。大きい個体は無条件にその傾向がある。とすれば眼前の魔獣は高位魔獣であり、それなりに頭も良いはずだ。そんな魔獣がこの局面で無意味な行動をするとは考えにくい。

もう時間が無い。海底の魔力は今にも発動されようと秩序良く並んでいる。何が来る?いや、具体的に分からずとも何が一番怖い?可能性として挙げられるものは?視野が狭まっている可能性は?


―!!


私は集めた魔力を属性に変換せず、魔獣の攻撃に合わせて障壁として前方に突き出した。

刹那の予想は的中し、飛んできたのは直前に確認した風魔法ではなく、圧倒的な物量を誇る海水だ。この魔獣は海底で風魔法を炸裂させ、周囲に余りある海水を恐ろしい勢いで飛ばしてきた。

前方でそこらのあばら家なんぞ吹き飛んでしまいそうな爆音が鳴り響く。どうやら私の魔力障壁の方が勝ったらしく、飛ばされた海水はおとなしく元の場所に戻っていった。海底から引きずられた砂が分散し、海面が少しばかり汚い色になったことに目を瞑れば完璧な防御だろう。緊急事態で大量に分泌されたであろうアドレナリンの高揚感に肩を揺らしつつも、背筋を撫でる死のリスクにひやりとする。風魔法を馬鹿正直に相殺しようとすればこちらが使う魔法は同じく風となるわけだが、慣性を伴った大量の海水という物量の化身と風魔法とでは相性が最悪だ。これを見破られなかったっからこそ、コイツはここまで生き残ってきたのだろう。

大技による消耗が激しいのか、あれほど激しかった触手の猛攻はすっかり也を潜め、辺りには最初と同じような静寂が流れた。

さて。

炎魔法による海の蒸発や雷魔法による感電。それらで早期決着をつける事が出来なかったわけでは無い。今回私はそれをしないという選択をしたのだ。

前回の森と違い、この海は近隣の住民からすれば大切な資源なのだ。海に住む魔獣以外の生物をなるだけ殺したくはない。それで変化する生態系なんて魔獣が変えてしまったそれと比べれば余りに些事だが、その些事が気になって仕方無いのが私の性分だ。

私は海辺に近づき、水に指を浸した。そこから徐々に”魔法の効果自体”が侵食していくようなイメージをする。イメージが魔獣の本体がある場所まで行き渡ったのを確認して、私は氷の魔法を起動する。速度はいらない。威力もいらない。ただゆっくりと凍らせるだけでいい。

徐々に海は凍り付いていき、ラズ邸程の範囲が海底まで続く氷の塊となった。

私は氷の上を時々すっ転びそうになりながら歩いていき、魔獣が凍り付いている場所の真上まで行く。右手を持ち上げ、いつもの様に魔力を練り、今度は風魔法を起動した。今回は威力も速さも要る。

目いっぱいに振り下ろした手と同時に、巨大な風刃が凍った魔獣をすっぱりと真っ二つにした。これで氷が解けた後、他の生物にそれほど影響を与えないまま、魔獣は死んでくれるだろう。


「...おおぉ」


初めて見る”血がしたたり落ちている海底”に感慨を覚えながら、十分な量の血が出たことを確認したした後で、それらを風魔法で包み上げ、海面より上の場所で炎魔法を使い、すべて蒸発させた。


「よぉぉし......」


終わったぁ...。

私は達成感を味わいながら氷上に寝ころんだ。

若干の眠気にまどろみながら空を眺めていると、曇った空の隙間から覗いた太陽光が、ふいにきらりと不安定に揺れた。耳を澄ますと、ばさばさと言う巨大な翼の音。渋々魔力検知を起動すると、げんなりする程大きな魔力が空中で集まっていた。


「勘弁してくださいよぉ...」


魔獣の最高位。空の支配者たるドラゴンが、獲物が弱ったと見て吐いてきた全力の火炎ブレスを私は滅入った気持ちで迎え入れた。


「―マギア」




視界の殆どを埋め尽くす劫火をどこか他人事の様に眺めながら、私はこれからの身の振り方について考えた。

正直に言えば尻尾を蒔いて逃げ出したい、というのが本音ではあるが、なんせすぐ近くには人の住む町があるため、私だけおいそれと逃げてしまう訳にもいかない。

私は劫火が収まるまでの間、選択肢を整理することにした。

まず一つに私だけでさっさと逃げてしまう択。これは前述したようにナシだ。

次、一人で逃げるのがダメなら村の人全てを逃がすという択。これはパッと思いつく限りの全ての選択肢の中で最も期待値が低い。ナシ。

次、考えるだけでも億劫だが、私があのドラゴンを討伐してしまうという択。どれだけ考えてもこれ以上の選択肢が見つからないため、消去法的にこれをするしかない。...やるかぁ。

倒すにしてもやり方ってものがある。しかし今回のドラゴン討伐に関しては如何せん猶予時間が少ない。最適解を最短で見つける必要がある。

まず、援護を呼ぶ事は出来ないのか。これはかなり厳しいだろう。

なんせ私のいる場所は国が直々に立ち入り禁止にしている場所なのだ。外界と半分隔離されてしまっているため、これに関してはドラゴンを街の人が偶々見つけて、偶々応援を読んでくれるという非常に薄い線で見たほうがよさそうだ。

ほぼ単独での討伐が決定したところで、今度は討伐の仕方について考える。

ドラゴンに関しての情報は、無いと言えば嘘になるが、”有益な情報”となると殆ど無い。というのもドラゴンは大きな翼で空を飛び、魔法を扱う魔獣、という事しか共通点を持たないのだ。火を使ったり、水を吐いたり、或いは魔法の耐性が異常に高かったり、反対に物理の耐性が異常に高かったりと同じドラゴンと言っても十人十色で、同じ様な特徴を持つ物が居たとしても、それを間接的に把握する事はほぼ不可能らしい。傾向がある事にはあったと思うのだが、流石に使わないと思って詳しくは覚えていないのが悔やまれる。

その点から考えると、まずは情報収集から入って、徐々に対応策を編んでいくのが丸いだろうか。...その逆となるとどうだろう?

対応策を全く考えない、つまりは短期決戦という事になるが、やはり特性が分からない以上は危険な気もする。

いや。

肯定できる材料を考えてみよう。...そうだ。

ドラゴンは頭が良い。私と海の魔獣の戦闘に割って入るのでは無く、漁夫の利を狙ってきた時点でそれはお察しだ。じゃあその漁夫の利をする時、私たちはまず小手調べをするだろうか?

答えは否だ。漁夫の利の肝はそのタイミングと即決着にある。”弱った所を一息にどかん”が正しい漁夫の利と言う物だ。とすれば、ドラゴンは今、最大火力のブレスを完全に無効かされた形となるわけで、ドラゴンと私のどちらが弱っているか、という天秤は今が一番傾いている。


「使うかぁ...」


ふと、私の帰りを待つラズさんの心配そうな顔が浮かんだが、事が事だし仕方が無い。

いつ振りかも分からないほどの感覚に懐かしさを感じながら、私は”攻撃用”に特異魔法を起動しようとした。


――!?


その瞬間、私は世界の大切な秩序の様な物がぐらりと不安定に揺れたような、そんな眩暈にも似た感覚を味わった。

体が変な方向に曲がった時の様な、『これ以上やれば壊れる』という予感を多分に孕んだ世界からの警報。いや、世界じゃない、魔力だ。世界に満ちている魔力が、これ以上やれば決定的におかしくなってしまうと言う確信が私を襲う。

一瞬にして変な汗を大量に掻きながらも、何とか警告の示す未来だけは回避した私は、いよいよ劫火の煙が晴れていくのを見ながら肩で息をし、なんとか平静を保とうとした。


「何なの...」


これは他人事には出来ない。いわば”魔力の張り”の様な物は、私が特異魔法を起動した瞬間に発生したし、発生源は明らかに私だった。特異魔法なら今までにも何度か使っていたというのに、今になって何故。

いや、考えても仕方が無い。

今は対応策をすっかり失ってしまった脅威について集中しなければいけない時だ。


「グラアアァァァァァァ!!!」


広大な空を我が物顔で飛んでいるドラゴンは、ブレスを受けても生きている私を視認し、威嚇するように咆哮した。

耳を劈く爆音に眉を寄せながら、私は状況把握を簡単に行う。私が立っているところは先の魔獣戦で凍らせた海だ。あれだけの熱を何の防御もなしに受けというのに、私から離れていてマギアの範囲外だった氷は何事もなかったかのように水の流れを停滞させていた。とすれば、あのドラゴンは魔法、もしくは魔力の通った物には有効な打撃を与えられないのかもしれない。魔法使い側からすれば、まるで対ドラゴンの入門のような特性である。

ドラゴンはやがて叫び散らすのに満足したらしく、今度は翼を使って私が用いたような風刃の魔法を撃ってきた。念のためよく観察してみると、やはり魔力がかなり粗い。先ほどのブレスはそんな余裕が無かったため確認していないが、海の魔獣のように魔法を使って自然現象を誘発させるタイプらしい。

同速同量逆方向の風魔法をぶつけると、ぱっと見は物々しい風刃は呆気なく霧散した。

翼の攻撃は無意味と考えたのか、ドラゴンは大きく口を開け、中に魔力を集めていく。先のブレスを使うらしい。


「させないよ」


私は掲げた手をぐっと握りこんで渾身の雷魔法を翼に命中させた。

ドラゴンは「ギャアァアァァ!」とけたたましく鳴きはするものの、墜落には至らないようだ。というか外傷がほぼ無い。...厄介だ。

一瞬にして長期戦へと思考を切り替えた私は、今度はドラゴンが口元に魔力をため切るのをしっかりと確認し、防御の準備を整える。

やはりというか何というか、最初の予測通り、一番最初に撃って来たブレスは渾身の物だったらしく、それとは比べるべくもない威力の熱線が飛んできた。私はそれをギリギリまで分析してから魔力障壁で相殺する。これまた予想通りで、ブレスに関しても魔力の粒が粗い。というかむしろ、魔力を体内の機関で本物の炎に変換しているようだ。この粒は変換しきれなかった分の余りだろう。

反撃と言わんばかりに、今度は炎の魔法を辺りに被害が出ない程度にドラゴンにぶつけてみる。


「ガァァァ!」


やはり不愉快そうに吠えるものの、大したダメージは入らない。

しかし、先ほどと比べると本当に微々たるものではあったが手ごたえを感じた。『これは抜ける』という確信がある。

ここまで情報を整理して、油断こそ出来ないものの、ほとんど勝ちを確信した私は、本当に、心の底からげんなりしていた。

ドラゴンの無意味な攻撃を捌き続け、私のほぼ無意味な攻撃をドラゴンが倒れるまで撃ち続ける。至極簡単で何よりも面倒な攻略法。


「何時間かかるのさ...」





「ギィアァァァァ...」


ドラゴンが無念に嘶きながら地面に落下するのを確認し、私は疲れきった四肢をほっぽり出して寝転がった。


「づがれだ...」


ハードなんてものじゃない。唯一の救いがあったとすれば、当初の予定よりもだいぶ早く狩れたということだろうか。

最初の手応えから順当に考えれば、私は夜な夜な騒音被害を撒き散らしながらドラゴンと戦う羽目になるはずだったのだが、どういう訳か途中から魔法の通りが格段に良くなっていったので何とか夜なべは回避出来た。

それにしたって今回の海の魔獣、ドラゴンの連続討伐は辛いものがあった。

海の魔獣は私にとって最悪な死に方を提示してくる相性最悪の敵で、ドラゴンは相性こそ良かったものの何と言っても魔獣の最高種だ。実際、私はドラゴンの攻撃を一度を除いて全て防御した訳だが、ほんの少しでも調整が甘ければ漏れ出た魔法の余波で大惨事になっていただろう。食らってしまった一撃も、ほんのわずかに迎撃が遅れたと言うだけで凄まじい勢いの風が飛んできたものだからなかなか肝を冷やした。幸い切り傷がいくつかできただけだったので良かったのだが、これの威力がもう少し強ければ四肢の一本どころか体がバラバラになっていてもおかしくない。魔法において人間の肉体的な防御力など誤差の範囲だ。危なかった危なかった。

特に問題が無かったのでそのまま氷の上で戦っていたのだが、寝転んでみると案外悪くない。どんぶらこどんぶらこと波の揺れを感じられて、かなり眠気を―


「あれ...?...不味くない!?」


生み出した直後は氷は揺れていなかった。それも当然で、海岸部分の砂に潜り込んでいる水諸共全て凍らせたため、氷塊は地面に固定されていた。それが揺れているということは即ちこの巨大な氷塊ごと海に流されているということになる。

私は慌てて浜の方に行き、案の定切り離されている部分を凍らせ、急いで渡った。


「...帰ろ」


なんだかどっと疲れた。いや、元から疲れきってはいたのだけど。

こういう時にダラダラしているとろくな事にならない。

私はドラゴンの死体に氷魔法をかけて腐敗を防いだ後、やることはやったと言わんばかりにそさくさと帰路に着いた。




馬車に揺られ、足を引きずるようにして家にたどり着いた時にはすっかり日も落ちていて、辺りは街灯の光が無ければ少し先も見渡せない程暗い。

家に着いたと言う安心感が返って疲労感と眠気を強調して、私はふらふらになりながらドアに手をかけた。

ドアノブを回し、開けようとした丁度その時、ドアが内側から思い切り開かれ、ドアの前に立っていた私はそこそこ強めに頭を打つ。


「いっ...たぁ...って師匠?」


ドアを開け放ったのはラズさんだったようだ。というかラズさんは家に人を呼ばないし入れないので当たり前と言えばそうなのだが。

何処か呆然としているラズさんに、「どうしたんです?こんな時間に」と聞いて、そういえばもう夜ご飯の時間だった事を思い出した。粗方夕飯を買うか食べに外に出た所で鉢合わせた様だ。

先ほどまでの疲れはどこへやら。いとも簡単に『今から作りますね』なんて言いかけた所で、ラズさんがくしゃっと破顔して、あろうことか抱きしめて来た。


「んぇ!?あ、あの!?」


突然の事に頭の中が真っ白どころか色んな感情で真っ黒になり、所在をなくした両の手をゆるゆると揺らす事しか出来なくなってしまった。 

いつもは優しく優しく、壊れ物を扱うかのように丁寧に触れてくるラズさんが、今回ばかりは少し苦しいぐらいに抱きしめてくる。 


「...良かった......」


微かに震えた、絞り出した様な声に、ようやく頭が整理されて事の次第を理解した。

そりゃ手塩に掛けて育てて来た弟子が試験に行って、こんな時間まで帰ってこなければ心配の一つや二つするだろう。ラズさんの場合は大分過保護なので拍車がかかっていても何ら驚きはない。

やり場のない手の行き先は決まっていた。


「遅れてごめんなさい。無事に帰りましたよ、師匠」




「んじゃ、弟子の昇級を記念して、かんぱーい」

「かんぱーい!」


昇級試験が終わったその翌日、早々に合格通知を貰った私は、当の本人より若干テンションの高いラズさんと供にレストランに来ていた。

豪勢とまではいかないが、かなり綺麗な内装をしていて、高級なレストランと違ってかなりの人数が自然な声量で話しているので、店内は静まり返っているという程でも無く、私たちがあれやこれやと話していても目立つことはなさそうだ。つまるところ、今回のような祝いの席にはぴったりと言う訳である。

珍しく、というか私の前では初めてなのだが、今回はお酒を頼んだラズさんと、折角だからと酒気の入っていないお酒擬きを頼んだ私は、キンと高い音を響かせ互いのグラスをぶつけた。

表面がしゅわしゅわと泡立っている黄金色の飲み物を一口飲んでみると、何時ぞやに飲んだ炭酸と同じような刺激的な感覚と、林檎とオレンジ、ベリーを混ぜたような楽しい味わいが口に広がった。


「美味しいです!」

「そりゃ良かった。美味いし賑やかだけどある程度格式高いとこって言うとここぐらいしか思いつかなくてな」

「ピッタリじゃないですか。ほんと、美味しいお店なら幾らでも知ってますよね」

「まぁ、あんまり同じところに通わないってのもあるかもな」

「というと?」

「美味しい店を見つけても何度も何度も行くことはあんまりしないんだよ。だから必然的に回る数が多くなる」

「なるほど...」


どちらかといえば、私は美味しい店を見つけると足しげく通ってしまうタイプなので、そもそも「美味しい店を見つけても通わない」という概念が無かったため少し驚いた。


「まぁんな事は置いといて、だ。改めて、昇級おめでとう」

「ありがとうございます!師匠のお陰です!」


心からの本心だったが、どうせラズさんはうねうねと『俺のお陰なんかじゃない』と逃げる気がしていたので、先んじて全力の笑顔を浴びせて黙らせておくことにする。

にかっと笑って見せれば、案の定ラズさんはややたじろいだ後『やれやれ』という様に首を振って「まぁ、それでいいや」と笑った。

ほれみろ。この数か月でラズさんの扱いも相当上手くなったような気がする。


「あぁ、そうだ。昇級したんだし、一回親御さんに報告しに行こうか」

「んぁ...完全に忘れてましたよそれ...行きましょう行きましょう。忘れないうちに」

「忘れんなよ...」


そういえばそんな話もした気がする。

家族がかなり放任だったこともあって、私の中で家族というものは、こちらから接触したり、求めたりしない限りは、凄く凄く後ろの方で私を見守ってくれている存在なのだ。この期に及んでも私は自分の昇級を家族に報告する必要性についてあまりピンと来ていないが、まぁ、お母さんの体も心配だしこの際帰るのも悪くないだろう。お父さんもお父さんで周りが止めない限り働き続ける筋金入りのワーカーホリックなので数少ないストッパーである私が顔を見せるのは中々効果的なはずだ。


「ちょっと楽しみになってきました。久しぶりに両親に会うの」

「...あんまこういう事明け透けに言うもんじゃないとは思うが、俺は胃に穴が開きそうだよ」

「緊張ですか?」

「...俗に言うと」

「大丈夫ですよ。お母さんはゆるゆるな人ですし、お父さんも私を信頼してくれる良い人ですから。私が敬愛している人をどうこうするような人たちじゃないですよ」

「なら良いんだけどね...」


尚も緊張が抜いけない様子でそわそわとしているラズさんに少し苦笑しつつ、私ももうじき来るその時の情景を想像してみた。

懐かしい木造の家。あまり広いとは言えないリビングに両親と、私と、その隣にラズさんが居て。多分ラズさんは緊張でガチガチになっている事だろう。お母さんが作る料理はとっても美味しいのだけど、ラズさんがそれを味わえることはなさそうだ。

私はそんなラズさんを尻目に、久しぶりに再会した両親と他愛もない会話をするのだろう。『体は大丈夫?』『そっちでは上手くやってるの?』多分こんな事をお互いに言い合うはずだ。

夜も更けて来たら、両親は一つの部屋で、私は自室で、ラズさんは客間で寝るのだろう。そうして朝、自分の家で寝ているラズさんを起こしに行く。私はそこで感慨を覚えるかもしれない。


「ふふっ」


少し考えただけでも笑みがこぼれるような未来に、私は俄然楽しみになって来た。

正面でやや死んだ顔で鶏肉をむさぼっているラズさんは、私とは対照的に、少し胃の痛む未来を想像しているらしい。私としてはそれはそれで面白いのだが。


「師匠」

「ん?」

「やっぱり、すっごく楽しみです!」


私がえへへ、と心のままに笑うと、今までとは打って変わり、ラズさんもにっと笑って「そうか」と応えた。




つづく

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イレギュラーはギフテッドに夢中です(改訂版) Nem @Nem0630

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