5月29日
「テスト返すぞー」
考査期間が終わると、次の週のうちに答案返却が行われる。いたるところで阿鼻叫喚が巻き起こる教室を眺めながら廊下を歩いていると、普段との雰囲気の違いにこちらまでそわそわしてしまう。
果たして、うちのクラスの連中はいかほどのものであったか……。
採点自体は考査期間中から行われているので、席の近い教員が担当者であればその様子を窺いながら「うちのやつらはどうですかねえ」などと合間合間に情報交換が挟まれる。
やはりというべきか、この時点で飯豊みなの名はちらほら出てきた。そのたびに俺は、放課後勉強会や自分への提出物として見た飯豊の授業ノートを思い出す。
ノートが美しい生徒には二種類ある。ひとつは、授業の内容を書き取る中で自分の中でも再解釈が行われ、授業の理解度を高めた結果としてノートが美しくなる生徒。もう一方は、真面目ゆえにノートを美しくすることが目的化してしまい、蛍光ペンと付箋の嵐で内容は一見充実しているものの、その実自分でも何が重要かわからなくなっている生徒だ。
もちろん、後者は頑張りどころを間違えているので、成績はあまり良くならない。幸い、飯豊みなは前者の生徒だった。飯豊の名は高得点者の例としてよく挙がったのだ。
一方で、目名方あきらと三之内けいの名は全然挙がってこない。
おい、大丈夫なんだろうな……?
俺は結構心配した。だからといって採点途中の同僚にあれこれ余分に詮索するわけにもいかないので、あとは結果を座して待つしかない。
チャイムが鳴って生徒たちが廊下へ溢れ出す。次の時限で採点した答案を返すべく、俺は教材を整えて職員室を出た。ちょうど次は自分のクラスだ。ひとつ早めに行って教室の様子を見てみるも一興……いや素直に言えばやはり心配だ。結果を聞きたくもあり、聞きたくもなし。ただ足は教室へ向かうようだった。
二分前の予鈴が鳴る頃に教室へたどり着いた俺は、廊下の壁に背を預けて生徒たちの様子を見た。ロッカーで教科書を出し入れするところを見るに、前の時間は数学だったらしい。もう答案は返ってきたのだろうか?
「あ、先生。聞いて聞いて!」
そう言って高めのポニーテールを揺らしながら近づいてきたのは、三之内けいだった。その顔は明るい。
「数学さあ、めっちゃできた! すごくないですか?」
「おお、よかったな!」
俺は素直に喜んだ。彼女も興奮しているようだったし、調子を合わせようとも思った。ただ気にかかるのは、本人は「めっちゃできた」という割に、彼女の名を職員室では一向に聞かなかったことだ。それは本当にめっちゃできたのか?
「で……何点だったんだ?」
「え? 52点」
…………ほらなーーーーー!
「いやすごくはないだろそれは、逆に大丈夫か」
俺は先ほどの心配を大急ぎで取り戻して三之内に尋ねた。しかし三之内けいはどこ吹く風で、笑顔を崩さない。
「いや、違うんですよ先生。めっちゃできたんですよ、因数分解が!」
そう言われて俺はハッとした。思い返せば三之内けいは、目名方あきらの言葉を借りれば、「数学全然わかんない」からのスタートだったのである。
それが、目名方あきらと飯豊みなとの勉強会を経て、「因数分解はめっちゃできる」状態にまでなった。因数分解しようと誘われて、三之内けいは実直に、ひたすらに因数分解に向き合って、ついにそれができるようになったのだ。これは、大きな躍進ではないか。
「まあ、他はズタボロだったからこの点数なんだけど……」
三之内けいはやや声の調子を下げて言った。それはそうなのだろう。だからこそ彼女の名は数学教師から挙がらなかった。52点。恐らく平均よりも下。確かに褒められた点数ではないが――、
「そうか、じゃあさっきのは間違いだ」
これはしっかりと訂正せねばならなかった。三之内けいは何かと目線を上げる。
「因数分解よくできました、だな! やったじゃないか」
「……へへ、そういうこと!」
少しはにかんで、彼女はそれきりもう用は済んだとばかり自分の動きに戻った。ばたばたと皆が教科書を手に教室へ戻っていき、やがて本鈴が鳴る。最後まで残っていた三之内けいは「やば」と口にしながらバタンとロッカーを閉め、待っていた俺の前を通って教室の前扉からぱたぱたと入っていく。
だがその直前で、半分真面目な顔をして振り返り、チャイムの裏でこんなことを言った。
「次、二次関数もできたら、わたしモテると思いません?」
俺は笑って親指を立ててやってから、後に続いて教室へ入った。少なくとも勉強会の価値は大いにあったようで、これは俺にとっても、おそらく三人にとっても、素直に嬉しいことだった。
彼女らが次にどう動くのかは、俺はまだ知らない。
目名方あきらは諦めない 望月苔海 @Omochi-festival
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