5月15日

 テスト期間が始まったが、ホームルームの終わりに目名方あきらが呼びかけた勉強会は、ものの見事に滑っていた。


 放課後に俺が教室を覗きに行くと、窓際の机を向かい合わせて目名方あきらと飯豊みなが教材を広げていたわけだが、他の生徒の姿は誰も見られなかったのだ。


 これはまたしょっぱい現場に来てしまったぞ。


 俺はどうしようか思案した挙句、ちょっとかわいそうなので声をかけることにした。


 扉を開けると、真っ先に飯豊みなが顔を上げて俺を見た。


 が、やはり何も言わない。


 少し遅れて、向かいに座っていた目名方あきらが振り返り、二人っきりの割には存外明るい顔を見せた。


「あ、先生! もしかして勉強しにきたんですか?」


「なんでだよ、君らの様子見に来たんだよ」


「なーんだ」


 なーんだとはなんだとかなんとか言いながら、俺は扉は半分開けておいて、二人のもとへ近づいていく。


「数学か?」


 俺は飯豊みなの方にも目を配った。机に開かれた二人のノートの中身は、同じ問題に取り組んでいるようでも明らかに飯豊の方が整っていて、そこにはできる者の余裕を感じさせる景色が広がっている。


「飯豊さんはきれいに書いてるなあ」


 そう言うと、飯豊みなは二本指を立てて見せた。というよりこれは一般的なピースサインだろうか。使う頻度が増えるにつれて、本人も気に入ってきたのかもしれない。最近飯豊は目が合うと、笑顔の代わりにこっそりピースしてくれるようになった。友達扱いされても困るが、まあ彼女に限ってはいいだろう。


「飯豊さん『は』ってなんですか『は』って。私も十分きれいですよ! ほら!」

 

 目名方あきらは食い下がってノートを指さしてきたが、俺はそれをハイハイと適当に受け流して本題に入った。


「それで、誰かほかに来た人は?」


「うッ、それは……」


 と、目名方あきらは俺から目を逸らして廊下の方を見やったが、すぐに「あ!」と声を上げて目を見開いた。


 またそんなUFOを見たようなポーズをして、俺をからかって煙に巻こうというのだろうか。


 まあ女子高生のポージングに乗ってやるのも大人としての嗜みといえば嗜みか……。


 などと考えながら俺が振り返るよりも早く、背後からは別の生徒の声が聞こえてくる。


「えっ、あっ、すみません、入っちゃダメなやつですか?」


「――けいちゃん! 入って入って!」


 目名方あきらがそう呼んだのは、同じクラスの出席番号18席、三之内さんのうちけい。


 確か、今頃はバスケット部の練習中のはずだが――なぜか彼女は制服姿のままで教室に入ってきた。


「ほら先生、来たじゃないですか。これで勉強会は三人ですよ!」


 目名方あきらはどうだと言わんばかりに胸を張ったが、三之内けいは動きを止めて、大げさなほどに首と手を横に振った。


「いやいや、わたし忘れ物取りに来ただけだから」


「なんで⁉ 数学全然わかんないって叫んでたじゃん!」


「それはそうだけどお……ああ、あったあった」


 目名方あきらがすがるように見つめる間、三之内けいは教室後方の机から目的のものを見つけたらしかった。


 なお飯豊みなはというと、三之内の登場にこそ顔を上げたようだが、すぐに次の問題に取り掛かり始めていた。自由だな。


 その後もなんのかんのと言いながら、目名方あきらが三之内けいを引き留める時間が続く。


 しばらくしてふと気が付いたのは、三之内が自分から帰ろうとするそぶりをまるで見せないことだった。忘れ物を取りに来ただけなら、先生と別の生徒たちが何か会話していた空間には本来居づらいはずだ。


 俺はクラブのことも気にかかったので、タイミングを見て口を挟んだ。


「三之内さんは、今日部活オフなの? バスケ部も大会前でしょ」


 三之内けいは、その問いを待っていたかのように即座に反応した。


「そう、先生、そのことなんですけど! もう部活やめます」


「……え~」


 いかん、声に出た。


 いや、だって。だってだよ。こんなに早くから部活を辞めるやつがクラスから出たら、絶対に職員室でまた何かを言われるに決まってるんだよ。なんで引き留めないんですかーとか。せっかく入ったのにもったいないーとか。


 俺が知るかよ~~そんなん顧問の仕事だろうが~~~。


 俺は視界の端で目名方あきらが目をキラッキラさせるのを感じながら、そちらは見ないようにして三之内との会話を進めた。


「何かあったの?」


「いや、何もないっていうか、一年に何もさせてもらえないんですよ、バスケ部」


 三之内が語るところはこうだ。


 バスケット部は県大会に臨むための地区大会を勝ち上がる途上にある。大会メンバーは三年生の全員と、二年生が少し。コートでの練習はメンバーたちにのみ許されていて、それ以外の部員は屋外でひたすらパス練習と走り込み。ボールに砂を付けてはいけないのでドリブルもできない。主顧問はメンバーしか見ていないし、副顧問もたまにしか来ないので、ゴールデンウィークの合宿を経ても顔も名前も覚えてもらえない。


「しかも髪切れっていうんですよ、ありえなくないですか、今時?」


 その言葉を聞いて、俺は血の気が引いた。


 生徒の頭髪への制限は昨今の校則改正の動きの中で全国的にも撤廃が進んでいる。もちろん文言からの撤廃であって、事実上の生徒指導としては依然として「高校生らしい髪型」を求める風潮はある。しかしある種の部活動内ではその域を出て、「活動の特性に鑑みて」という名目の下、部員の頭髪に関して部顧問が一定の「提案」をする実態がまだ残っている。


 その「提案」こそ名ばかりであるのは言うまでもない。


「え、誰に言われた?」


「なんか先輩から言われました。コートに出るまでに切っとかないと先生の機嫌が悪くなるって」


 顧問の口からではないと知って、俺は心の中で胸をなでおろした。でも間接的指示だからって保護者からのクレームを受ける窓口は俺なんだからな。マジでやめろ。


「結べば邪魔にならないって言っても聞いてくれなくて……一年の他の子たちともどうするか話し合ってて、何人かはもう切っちゃったんですけど、わたし、切りたくなくて……」


「そうかあ、いやだったねえ……」


 まあ事情はどうあれひとまず生徒の気持ちに寄り添うのが担任の務めである。俺は態度を和らげて質問から傾聴の姿勢へ切り替えようとした。


 しかし、次に三之内けいの口から出た言葉は、少し、いやだいぶ俺の気持ちを躊躇わせた。


「だって先生、JKはポニテが一番可愛いじゃないですか! わたし、ちゃんとモテたいんですよ!」


「はあ~?」


 もう声に出る自分を許してしまいたかった。


「はあじゃないですよ先生、女の子が髪を切るのは覚悟がいるんですよ?」


 三之内けいはぷんぷんと口をとがらせて言った。


「ああ、いや、ごめん。そうだよな」


 いや、それはそうなんだが。


「この先モテるかモテないかの、大事な勝負の分かれ目なんですよ!」


 それはどうだろう。俺は知らんが。

 

 俺が唖然とした顔を整えらえない横では、目名方あきらがうんうんと頷いている。


 飯豊みなは、なにやらまだ筆を動かしていた。


「まあそういうわけなんで――」


 満足したのか、ひとしきり喋った三之内けいが教室を去ろうと鞄を持ち上げた。そうして半開きになっていた扉に手をかけたところで、しばらく黙っていた目名方あきらという号砲が、立ち上がって声を上げた。


「じゃあさ! 部活作ろうよ、けいちゃん!」


 廊下へ一歩踏み出しかけた三之内けいが、足をとどめて振り返る。


「……作る? これから? 何すんの」


 三之内が会話に乗ったことで、目名方あきらの眼光は燃えるように輝いて彼女を捉えた。俺は二人の間に挟まらないように、じりじりと体の位置を動かして飯豊みなの方へ移り、二人の行く末を眺めることにした。


「なんでもする! これから決めるの!」


「なんでもって……いいかげんだなあ、あきらは」


 三之内けいは目名方あきらから少し視線をずらし、俺がいる方――つまり飯豊みながいるところへ目を向けた。


「飯豊さんも一緒なの? わたししゃべったことないよ」


「それは――」


 瞳の燃えた目名方あきらが、珍しく言い澱んだ。


 これは、まずいか――


 俺は助け舟を出そうか逡巡し、一瞬固まる。


 しかしその一瞬の静寂を、ある音が切り裂いた。


 びりっ。


「!?」


 何かと見れば、飯豊みなが自分の書き込んでいたノートのページを破り始めたのだ。


 びりりりり、びりりりりりり――


 いつの間にか取り出されていた定規を使って、ページが丁寧に破られていく。その様子に、その場の誰もが注目してしまう。


 飯豊みなは破り取ったページの端を強く握って立ち上がった。そうして自分の顔が隠れるほどの目の前に掲げると、そこに書かれた文字を目で追いながら、息を吸って、口を動かし始めた。


 俺が一瞬見たことには、それは先ほどまでの数式とは違う言葉が書かれていた。


「は、は、『はじめまして』」


 それは決して、目名方あきらのような大きな声ではない。


 喉から絞り出すようにして出されたその細い声は、しかしその場の全員が聞き取れた、飯豊みなの叫びだった。


「さ、『三之内さん』、よ、『よかったら』こ、こ、『こっちで』――」


 飯豊が。飯豊みなが、人前で喋っている! その驚きは、立ったまま彼女を見ている目名方あきらも共有しているようだった。

 

 俺は息を飲んでその続きを待った。

 おそらくは目名方も。もしかしたら、三之内も。


 飯豊みなの喉が、震えた。

 

「い……『一緒に』、い『因数分解しよう』……?」


 言い切った。飯豊みなは、自分で用意した一文を言い切ったのだ。


 俺の中で言い知れぬ思いが込み上げてくる。飯豊、お前……飯豊ェ!


 ただ俺は、三之内がどう答えるかが気がかりだった。本人の言う通り、これまでクラスの中で班になったこともなければ、個人的な接点などあるはずもない。


 飯豊みなは顔を覆っていた切れ端をおずおずと下げ、目から上だけ出して三之内けいを見た。目名方あきらも、再度熱い視線を送る。


「飯豊さん、わたしが因数分解できたらさあ――」


 三之内けいは、一歩、二歩、と教室の中へ進んで、その少しだけ出た飯豊みなの目をじっと見つめて、こう聞いたのだった。


「――――――――モテる?」


 飯豊みなは、目名方あきらと目を見合わせる。


 そして二人ともが三之内に向き直ると同時に、右手の指を二本立て、黙ってピースサインを見せつけた。


「……よっしゃあ、飯豊さん教えて! わたしポニテで数学もできるJKになる!」


 そんなJKはごまんといるが。


 三之内けいはそのままこちらへ歩を進め、近くの机を引っ掴んでがたがた引きずった。


 目名方と飯豊も座って、三之内が入れるように机をずりずりと動かした。


「けいちゃん、因数分解もいいけど、部活もやろうよ」


「えーどうしよっかな」


 二人の会話に、飯豊みなはタイミングを見て筆談を試みているようで、何事かをかりかりと新しい紙に書き始めていた。成長したもんだ……。


 俺は三人の様子を横目に見ながら、その場から退散することにした。まだ見ていたい気もするが、こういう場合の教師は邪魔者であることぐらい心得ている。職員室に大量の仕事も残していることだしな。


 俺は会話に聞き耳を立てながら扉へ向かい、大きな音を立てないようにゆっくりと閉める。


「新しいことやったら絶対モテるよ」


「ホントに~? じゃあ……いっちょモテるか~!」


 そんなことでモテはしない。


「あとほら、先生が顧問になってくれるし」


「先生が? ウケる」


 俺はうっかり閉めかけた扉を少し音を立てて開けた。


「いやそこでウケるな」


 ほらもう会話に混ざっちゃったじゃねえかよ。


 その後も何のかんのと言いながら、俺は三人に別れを告げてやっと教室を出た。


 そんなわけで、目名方あきらは二人目の仲間を得たようだった。

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