5月8日
ゴールデンウィークが終わる頃になると、これは生徒たちには知る由もないことだが、高校の職員室は微妙な空気感に包まれている。
「先生、やりましたねえ、おめでとうございます!」
「ああいや、これはどうも、ありがとうございます」
たしかに生徒の五月病や、半月後に迫る中間テストの準備など、気にすることは無限にあるのだが、このとき同時に進行している大きなイベントが、多くの運動部の
大抵は6月中旬にブロック大会があるので、その3、4週間前が都道府県大会の決勝となる。参加校が多かったり試合に時間のかかる競技はその前週、前々週、という具合にかなり前から地区予選が始まっていて、その先鋒がこのゴールデンウィーク中にすでに行われているのだ。
ゴールデンウィークが明けると同時に、職員の朝礼では戦勝報告と拍手が飛ぶ。教員に用事があって職員室の外で待ったことのある生徒なら、少しは雰囲気がわかるかもしれない。
「相手がそんなに強いとこじゃなかったんでね、たまたまです」
「またまたあ。次の試合はどことですか?」
つまりここでは、拍手された部活の顧問と、拍手されなかった部活の顧問という存在が浮き彫りになる。それら運動部の主顧問連中と、今は無関係でいる文化部の主顧問、さらには取り立てて指導には役に立たないが顧問として無関係でもいられない副顧問たちとの間に生まれる、微妙な空気感。
「先生のとこは残念でしたねえ」
「ああ、ええ……勝てるような練習、させてませんでしたからね」
それは相手を称賛するようでありながら牽制するようでもあり、自分の指導を誇示するようでありながら自虐するようでもあり――教員同士の複雑な関係性に部活動の戦績の優劣が加わると、その場の雰囲気にはもう手の付けようがない。
というか、手を付けたくない。
一瞬でも早く、そのお気持ちのやりとりから逃れたい。
そんなふうに思っている副顧問の若手教員は少なくなかろう。もう、とにかく関わりたくないのだ。
というわけで例に漏れず副顧問に甘んじている若手の俺は、ここ数日は打ち合わせが終わるや否や荷物をまとめてチャイムの数分前にホームルーム教室へ出向き、暇をつぶし――もとい、生徒らの様子を観察することに努めていた。
「おはよー!」
「おはよ……わ、もう先生きた」
「マジ?」
廊下にいる俺の存在に気が付いて時間を気にする生徒たちに、まだ大丈夫、気にするな、と合図して、俺は教室内の様子をうかがう。
さすがにひと月も経つと、自分のクラスの名前と顔は一致した。今なら出席番号も空で言えるだろう。
近くの席で話す者、黙々と本を読む者、スマホゲームに勤しむ者、立ち歩いてにぎやかにしている者、小テストの予習をする者――。
生徒たちの本来の姿や人間関係は、こうした授業外の何気ない時間に垣間見ることができる。担任教員としては常日頃から彼らの様子を観察し、コミュニケーションを取り、起り得る問題や伸ばすべき能力の芽を事前に見つけておかねばならない。が、結局のところ、多くの生徒の顔を見るのがホームルームと授業と清掃の時間だけになってしまうのは、なんとも情けのないことだ。とはいえこちらも時間がないのだ。
数ある生徒を眺めるうちに、俺の目は自然と飯豊みなを捉えていた。廊下から見やすい窓際の位置というのもあったが、やはりクラスで孤立しがちな印象があって、これまでもたびたび気にかけていたこともある。
この日も飯豊みなは一人でぽつんと座っていた。その手には、図書室で借りたらしい、ラベルの貼られた文庫本が開かれている。
彼女と四月に面談した際、自己紹介資料の趣味欄に「読書」とあったので、文芸部をすすめてみたことがある。しかし、人とのコミュニケーションに自身でも難を感じている飯豊みなは、いかな文芸部といえど作品の発表や批評に伴うコミュニケーション負荷があることを、俺よりも明確に意識していた。(もちろんこれは、質問に対するわずかな返答を綿密に積み重ねた結果得られた、飯豊みなの思考のごく一部だ。)
このとき俺は、確かにこの子には部活は難しいかもしれん、としか思えなかった。
ところが、それから半月も経たないうちに、彼女は目名方あきらに引き連れられて先週の宣言に至ったわけだった。俺からすれば寝耳に水だ。
彼女がどう考えてその選択をしたのかは、未だ深く知ることは叶わない。
それでも確かなことは、俺が諦めてしまっていた一人の生徒――飯豊みなの可能性を、目名方あきらは諦めなかったということだった。一教員として思うところがないではない。
しかし、以後彼女たちが一緒に行動しているかどうかは、正直、まだわかっていない。
見れば、教室の反対側では目名方あきらは周囲の生徒と談笑している。にぎやかそうな女子だけではなく、さほど目立たない男子も交えてこの歳で会話が成立しているのは、彼女の類稀なる人徳ゆえといって差支えないだろう。
しかし、仮に席が近くなったとして、その輪に飯豊みなはいられるのだろうか。
飯豊みなにとっては恐らく、学校の中で所属することのできた数少ないコミュニティーが、目名方あきらとの繋がりだった。
しかし、それをもし、目名方あきらが「新しい部活動を作る」という自分の目的に沿ってしか捉えていなかったとしたら。
他者と関わり合えぬ生徒が重要なコミュニティーを失ったらどうなるか、結果は考えるまでもない。それは避けたいことだったが、生徒同士の関係性に教員が介入することは、良い結果が約束されるものではない。
ひとまず俺は、目名方あきらの心掛け一つに賭けるしかないようだ。
始業を告げるチャイムが鳴り、俺は生徒らが席に着く音を聞きながら、ゆっくりと教壇に上がった。
* * * * *
俺の心配は意外なところから崩れかかった。クラスの日直日誌である。
4月半ばに決めた室長から出席番号順に二人ずつで担当していた日直が、今日は飯豊みなとその後ろの伊藤という男子生徒に回ってくる日だった。
日直は、授業ごとの黒板消しとプリント類の配布補助、さらに日誌への一日の授業記録が日課となる。
終業時のホームルームで日誌を提出して終了、となるのが通常の流れだ。ところが、少し前から日誌のコメント欄が別の目的で使われており、その書き込みを見るために日誌が日直の手を離れ、放課後の教室に留め置かれることがしばしばあった。
注目の的となっているのは、生徒が勝手に始めた絵しりとりである。
二人の日直のいずれかが書いたり、二人で合わせて書いたりと、やり方はその日によってさまざまだが、どうも途切れずに続いている。もちろん、最後まで見ていた生徒が職員室へ届けるので、俺も毎日目にしている。高校生の画力というのは、わりとこう、味があるものが多い。下手とは言うまい。俺も人のことは言えないからな。
それでこの日は、主に黒板消しを男子が務めたらしく、飯豊は日誌への記録を担当していたようだった。
放課後、その日誌が飯豊から俺の手に渡されようとしたとき、ざわつく教室の中で、それを遮る声があった。
「飯豊さん、日誌見てもいい?」
指向性スピーカーもかくやという、このよく通る声。
俺と飯豊みなは反射的に声のする方を振り向いたが、声の主自体は、見るまでもなかった。
「先生、あとで持っていきまーす!」
目名方あきらはそう言って、俺が生返事をする間に飯豊みなから日誌を受け取ると、颯爽と自席へ帰っていった。机の上でばらりと開いた日誌に、まだ教室に残っていた数人の生徒の視線が集まり、自然とその体も目名方あきらの方に寄っていく。
俺は飯豊みなの指先を見るともなく見ながら、「見られてもよかったやつ?」と小さい声で確認する。ハンドサインの代わりに、こくり、と頷きが返された。
だが、心なしか、飯豊の指先がそわそわと動いているように見える。
気のせいか――と思うや否や、突然廊下側の一角から、生徒の声がワッと湧いた。
「えっ、うま」
「誰? 誰書いたの?」
俺はまた声を追って目をやった。何人もの生徒の影が重なり揺れるその一角は――やはり、さきほど日誌を開いていた目名方あきらの席らしかった。
「え、伊藤くん?」
「いや、あいつこんなの書けないよ」
「じゃあ……」
そのざわつきの間隙を、割り入って押し広げるように、目名方あきらの声が中心から飛び出る。
「これ飯豊さんが書いたんだよー。すっごい絵うまいんだから!」
そうして付け加えた「ねっ?」という声は、人ごみをものともせずぽーんと教室を飛んでいき、その声に呼応するように、幾人もの顔が一斉に飯豊みなを探す。
そうして教室の前方にその姿を見出した彼らの奥から、目名方あきらのにやりとした顔がのぞいた。
飯豊みなは俺の横で少しびくっとしながらその視線を受けたが、何が起こったのかわからないといったような驚き方ではなかった。さきほどのそわそわとした様子は、これを予期していたからかもしれない。
飯豊みなの袖口の指に、きゅ、と力が入るのが分かった。
しかし彼女は一呼吸だけ置くと、しかし控えすぎない程度に、ぎこちないながらもすばやく、二本指を彼らに向けて立てて見せたのである。
準備していたのだろうか。まあ、笑顔までは、作れなかったが。
「へえー!」
「すごいね。え、美術部だっけ?」
「それが違うんだけどさー、すごいでしょお?」
「いやなんであきらが偉そうなの」
「飯豊さんシャイだからね、その分私が偉ぶるの。ハイみんな飯豊さんに注目」
目名方あきらは周囲の生徒と言葉を交わしながら、その話題と視線を飯豊みなに向けさせた。常から注目されることに慣れていない彼女は、当然、おどおどする格好となる。
確かに二人の間で事前に何かしらのやり取りがあったのかもしれないが、しかし、これはどうか――と俺が飯豊みなの心境を判断しかねた。
しかし間もなく、全く慮外なことに、飯豊みなは目を細め、小さな笑顔を見せたのである。
今、何があった?
という驚きと同時に、俺の目は自然と目名方あきらを捉えていた。
何があった、というより、何かがあったに違いないという、勘が働いたのだ。
そしてそう。やっぱりそこでは何かがあった。俺の目に映ったのは、飯豊みなに向けてまっすぐに放たれた、目名方あきらの渾身の、きたねえ変顔であった。
「はい、可愛いー。萌えー。萌えですわこれは」
目名方あきらは周囲がそれに気が付かないうちに元の顔に戻ると、わざとらしい言い方で場を賑やかした。目名方への指摘や便乗で、周囲にはまた言葉が湧く。飯豊みなは恥ずかしそうに口元を手で隠したが、
「飯豊さん、また絵、書いてね!」
というクラスメイトの声がその一角から届くと、顔の下半分は隠したままではあるが、彼女は確かにうなずいて見せた。
その後はまたページを戻って絵しりとりを追っていたようで、生徒らの話題が再び飯豊みなに戻ることはなかった。飯豊みなも自席で帰り支度を始めている。そのうちに一人また一人と生徒は部活へ向かい、各々挨拶を交わしながら教室を去っていく。
最後に教室に残ったのは、やはり目名方あきらと飯豊みなの二人だった。
何か言いたげな表情をしているので、俺は目名方あきらに話を振った。
「今度は何を企んでるんだ?」
「たくらんでる、なんて人聞きが悪いですよ! でも、そんなに聞きたいなら教えましょう、私の――飯豊さん人気者計画を!」
まじかよこいつ、ろくでもねえな。
……いかん、心の声が口を突いて出るところだった。
「なにがどうなってそうなったんだ?」
俺は呆れながら、にやにやする目名方あきらに問いかけた。飯豊みなは自席に着いてこちらを見ていたので、その指先の位置を横目で確認しながら。
目名方あきらは待ってましたとばかりに答えた。
「前に、一緒にやってくれる人が必要って話はしましたよね。その続きです。一緒にやってくって、よく考えたら私だけじゃなかったんですよ。今は飯豊さんもいるから、飯豊さんとも一緒にやってくれる人じゃないと、ダメじゃないですか」
俺はまた腕組みしながらこの話を聞いていた。
ちらりと見ても、飯豊みなの指は特に形を作ってはいない。目名方は続ける。
「いや、別に私は、学年みんな仲良しこよしとか、そんなことは考えてないですよ? 無理な人って多分誰でもいるし。でも、相手を知らないのに、勝手に壁を作られてるとしたら、やだなーって思って。先生、飯豊さんって、喋ってみたらすごい面白い子なんですよ! 絵も上手だし、いろんなこと知ってるし――」
俺は一瞬聞き流しそうになったことに、すんでのところで気が付いた。
「待って待って。飯豊さんと喋れたの? 目名方さん」
「はい。L〇NEで――」
LI〇Eか――――――――。
俺は思わず天井を仰ぎ、軽く目を閉じた。
「最初は文字とかスタンプのトークだけだったんですけど、連休中はちょっと電話もしたんですよ。ねー!」
促されて、飯豊みなは目名方あきらに向かって頷きを返す。今度は手首だけ上げたピースサインをこちらにも向けた。
「なるほどね……」
一般に利用されている連絡手段とはいえ、基本的に教職員が生徒とSNSで連絡を取ることは厳しく制限されているため、俺は飯豊みなとの意志疎通の手段として最初から排除してしまっていた。筆談自体は提案もしたが、確かにスマホの入力の方が筆記より抵抗は少ないだろう。
「それで、私が橋渡しすればみんなに飯豊さんのこともっとわかってもらえるかなって思ったんですよね。いや、もちろんこれ、本人にも相談してますからね?」
ちら、と飯豊みなを見ると、以前のように二本の指を振って見せてくれた。
ああ、まあ、ならよかったよ。
「つまり、私たちと何かやろうかなって思ってくれる人をね、こっちから作っていこうぜってわけなんですよ。私ももっと人が寄ってくるような人間になりますから。目標は、今月中にあと3人確保です!」
そう言って目名方あきらはにこにこと俺に笑顔を向けてくれた。
だがこいつは重要なことを忘れている。
「それはいいけど、来週からテスト準備期間だぞ」
「えッ」
「再来週からテスト本番」
「えーッッ! 飯豊さん知ってた!?」
飯豊みなは当然のようにこくこく頷いた。余裕の表情だ。
「テストが明けたら次は県予選が控えてるし、だいたい部活も活発になる。今月は暇なやついないかもなあ」
「ぐぬぬ……」
俺はなんでもないふうに事実だけを述べたが、頭を抱えた目名方あきらが絵に描いたように歯噛みする様子に笑いを必死でこらえていた。
「うう~~……わかった!」
しかしあまり間を置かずに、目名方あきらは何か別事を思いついたかのように表情を明るくした。
「先生、来週からここで、放課後勉強会をやります! みんな誘います!」
ほう、と俺は腕を組む。
「そして先生役は……飯豊さんです!」
「!?」
何を言い出すかと俺と同じように目名方を眺めていた飯豊みなは、突然の指名にガタガタと椅子を鳴らして身動ぎした。
目名方あきらはまっすぐな視線を飯豊みなに向けると、半分笑ったような顔で手を合わせる。
「飯豊さん……いや、今なら言える。みなちゃん。みなちゃん先生……私は教わりたい……主に数学を……」
そのままゆっくり席を立って、飯豊の方ににじり寄っていく。そういう妖怪かこいつは。
飯豊みなは困った風に迫りくる目名方あきらと俺を交互に見ていたが、机の上で握られた手が三本指を立てることは、ついぞなかった。
やがて飯豊みなは、ためらいがちな一つの頷きで、目の前まで来た目名方あきらの懇願に答えたのだった。
「ほんと? やった! しかも名前で呼んじゃった。いい? やったー! はいありがとうのハグー」
近くまで来たのをいいことに、目名方あきらは飯豊みなに軽く抱き着いた。飯豊みなは慣れていないのか、手を背中に回せず微妙な位置で上下させていたが、俺の視線に気が付いて、目名方あきらの背中でピースを二つ作って見せてくれた。
俺はその様子を、ひとまずは微笑ましく受け取りつつ、浮かんできた疑問は口に出さないことにした。
なあ、どうする飯豊みな。クラスメイト相手に、ちゃんと喋れるのか?
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