5月1日
ゴールデンウィークの最中に平日が挟まれていても、世に言うホワイト企業であれば有給休暇を取得して十連休ぐらいにできるという噂がまことしやかに囁かれているが、残念ながら地方教育公務員にその味を知る術はない。
誰しもが早く連休に復帰したいと願いながら学校にやってくる、そんな平日の中日のことである。目名方あきらが、目の色を変えて俺を待ち構えていたのは。
「先生! 聞いてください!」
帰りのホームルームを終えてやれやれと職員室へ戻ろうとしているところで、俺はまたしても目名方あきらに呼び止められた。はあいなんですかいと返事をしながら廊下に向かいかけていた身を翻して、教卓の近くまで来ていた彼女に向き直る。
こいつがまだ諦めていないらしいことはなんとなくわかっていたが、とはいえここまで何の進展も耳にはしなかった。職員室での話題も、どの部活にどれだけ入ったかどうかということばかりで、新しい部活をどうこう言う話はついぞ聞かない。
しかし、ここで俺はこれまでとは違う雰囲気に気が付いた。
目名方あきらが自信と期待に目をきらめかせて俺の視界を占領せんとしているのは従前と同じだが、その斜め後ろに、目名方あきらに引っ張られるようにして脇に控えている別の生徒がいたのである。
「ふふん! なんと! なんとなんと、先生!」
目名方あきらは目の前の俺にしっかりと聞こえるよう、しかしクラスの他の範囲にまでは響かないよう、絶妙な声量で自信の程を表していた。
俺は嫌な予感がして半歩後ずさる。まさか、とは思うが……。
「構成員の勧誘に、成功しましたッ」
そう報告した目名方あきらの目は、一段と輝きを増したように見えた。
俺はそれには答えず、黙ったままの脇の生徒に目をやる。普段はこのクラスの窓際の列に座っている女生徒で、名を
「…………」
飯豊みなは俺の視線を受けてもなお黙っている。一瞬だけ目を合わせたかと思うと、すぐに顔を背けた。とはいえさすがに失礼かと思ったのか、最終的には俺の顔を見るような見ないような微妙な位置に視点を置いたようだった。
これが普通の生徒ならおいおい随分な態度だなと思ってしまうところだが、彼女の場合は事情が違った。飯豊みなは出身中学校からの引き継ぎで、場面緘黙とまではいかないが、自発的なコミュニケーションがとりにくい生徒であることを知らされている。先日の面談でもいろいろ気を遣って対応してみたが、ほとんどが俺の質問に対して首を動かす程度で、飯豊からは時々囁くような返事を聞けたぐらいだ。
だから、俺が気にしたのは彼女がしゃべらないことではなかった。
目名方あきらが、無理に飯豊みなを引っ張ってきたのではないかという一点だけが気にかかったのだ。
へえ、そうなのか、と目名方あきらに軽い返事をしながら、俺は飯豊みなに目線を合わせて声をかけた。
「飯豊さん、面談で俺が言ったこと覚えてる?」
飯豊みなは、目名方あきらの脇から動かずに、少しだけ首を縦に振った。
彼女に面談で言ったことというのは、「困ったことがあったとき、きちんと周囲に伝えられるようになろう」ということだった。もちろん、最終的には言葉で伝えられることを目標に。しかし、彼女の話すスキルに今すぐ期待ができない以上、とりあえずのものとして何か別の方法が必要だった。
そこで俺が提案した中から彼女が選んだのが、簡単なハンドサインだ。自分の状況を知らせたいとき、あまり大仰にならないよう、しかしきちんと理解してもらえるよう、事前に示し合わせる小さな合図。
俺たちが面談で決めたのは次の三つだ。
人差し指を立てると、「ちょっと聞いてほしいことがある」。あまり重要でないことなら、これで表せる。
そこに中指を加えると、「大丈夫、問題ない」。ピースサインと同じだからわかりやすい。
そこにさらに薬指を加え三本指になると、「困っている、助けてほしい」。これは逆に普段ならしない形をとることで、よりわかりやすくした。
だから俺は彼女の頷きを受け取ると、視線を飯豊みなの手の、目名方あきらに握られていない方に集中した。
体格より少し大き目の袖を握っていた指の力が、少し緩むのがわかった。そしてためらいがちに、袖の中から細く白い指が顔を覗かせる。
その本数は――
「……そう、ならよかった。目名方さんはちょっと変なこと言い出すかもしれないから、飯豊さんが見張っててくれると助かるよ」
俺の言葉に、飯豊みなはあまり表情を変えなかったが、代わりに袖から突き出した二本の指を少し振って見せた。俺は今、新しい感情表現の誕生に立ち会っている……。
「ちょっと、変な印象植え付けるのやめてくださいー」
目名方あきらは心外だと言う顔で俺をぱしぱし叩こうとしたので、軽く身をよじってそれを避ける。
「いや実際変なこと言ってるだろ君……飯豊さんはいったいどの部分に賛同してくれたわけ?」
これについては、目名方あきらが答えた。
「それはもう、私がずばり言ったんですよ。このクラスでまだ部活に入ってないの飯豊さんだけって聞いたから……一緒に新しい部活を作らない? って」
ね、と目名方あきらは飯豊みなに振り返って同意を求めた。飯豊みなの首は縦に動くが、やはり表情はあまり変わらない。
「じゃあ、内容はまだ決まってないわけだな」
話すうちに、教室からはぱらぱらと人がいなくなっていく。窓から射す西日が、二人の女生徒の顔の影を濃くした。
「はい、やっぱり私思ったんですけど、私が楽しいだけじゃだめかなって」
そう口にした目名方あきらの顔は、先ほどまでの単なる自信家のそれとは少し違っていた。自信の中にも、不安や迷いを含み、それでもやりたいからやるのだという、意志を宿した目だった。彼女は言葉を続けた。
「だから、何やるかも大事だってわかるんですけど、まずは一緒にやってくれる人を探して、少しずつ話し合えたら、それが一番いいかなって。時間はかかるかもしれないけど……」
最後は、へへ、と小さく笑いながら言った。不安を誤魔化すような、寂しい笑みだ。そうしている間にも、目の前の二人は片方の手を握り合ったまま、立っているのだった。
何と声をかけるべきか。その判断を遅らせることはできないのが、この仕事だ。
「まあ、いいんじゃないか?」
俺は少し声を明るくして言ってみた。目名方あきらの顔が上がる。
「人を大事にしない事業はいずれ潰れるからな。君のやりたいことに人が必要な以上、そこから始めるのは妥当なとこだろ」
俺は言いながらある確信を強めていた。
目名方あきらの計画が、完遂されるかはわからない。しかし、彼女が計画を進めるとき、そこには必ず人を巻き込む。そして巻き込まれた人には何らかの動きが生じる。例えば目の前にいる、飯豊みなのように。
飯豊みなは後ろから目名方あきらの肩を指でつつくと、振り返った彼女に、己の指を控えめに立てて見せた。
西日の中で燦然と輝く、ピースサインをである。
数日前に面談した時点では、俺が想像もしていなかった光景だった。目名方あきらもそれを見て少し驚いたようだったが、やがてはにかみ、不安を払うようにして再び俺を見た。
「じゃあ先生、私たち、頑張るんで」
その眼の光は、見るたびに力を増すようだった。
「ああ、わかったわかった。やるだけやんなさい」
じゃあ、と別れの挨拶をして、俺は廊下へ出た。最初に思った通り、目名方あきらは、周りを動かす人間だ。あとはその綱取りが、俺に務まるかという問題だが……。
しかし意外と飯豊みなも綱を取ってくれるのではないか、などと淡い期待を抱くぐらいには、俺は二人の変化を素直に嬉しく思っていた。
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