4月24日

「先生、見つけましたよ! これですよね?」


 授業終わりに教室を出ようとする俺を呼び止めて目名方あきらが差し出してきたのは、彼女の生徒手帳だった。俺が生返事をしていると、彼女はじれったい様子でそのページをぱらぱらとめくった。


「いいですか? これの……ここ! 生徒会規則、第4条・部活動の新設!」


 そう言って今度は開いた生徒手帳のページを俺の眼前にまで突き付けた。ああ。はいはい。わかったよ。そこまではやると思ってたよ。


「はい、正解。よく見つけたね」


 目名方あきらは嬉しそうに頬を緩めて「へへ!」と言ったが、すぐに表情を改めて手帳を引き戻すと、こう反目した。


「ていうか、なんでこんな見つけにくいところに書いてあるんですか。生徒に読んでほしくないんですか?」


 なんだよ、わかってるじゃあないか。


「しかもこんなに小さい文字で! でももう蛍光ペン引きましたから。残念でした! はいじゃあここ、先生も一緒に確認してください。行きますよ?」


 などと自分の勢いで話し始めるので、俺は一度時計を振り仰いでから、教室前方に掲出された時間割を指さした。


「待て待て。次、移動教室じゃないの? 準備しなさいよ」


「あ。ほんとだ。じゃあ先生、放課後、時間ください」


 素直に認めたはいいものの、彼女は一歩も引いた様子はなかった。あれから少しクラスに慣れたためか、自己紹介の時よりも彼女の目には自信が満ち満ちて見える。まあ、クラスに今のところ不和は見られないので、このぐらい元気な分にはよかろう。


「そういうときは、お時間いただけませんでしょうか、とまず聞くんだ」


 彼女は一瞬きょとんとしてから、また先ほどのはにかんだような顔を半ば浮かべながら、俺の言ったとおりに復唱した。こうした生徒からすれば面倒くさいと思われる指導も、教育的意義が半分、実はもう半分は、生徒のわがままに付き合う自分を許す建前を得るためかもしれない。だから素直に指導を受け入れる生徒には、生徒の望む指導がより与えられる可能性があるというわけだ。

 はい、よろしいよ。と答えて、俺も次の教室へと急いだ。こうして俺の退勤時刻は繰り下がっていくのだあと思いながら。



 さて、目名方あきらが見つけてきた文書は次のようなものだ。


『〈生徒会規則 第4条 部活動の新設〉

 生徒会は生徒の自発的な要望をもとに、部活動を新設することができる。』


 そう、確かに書いてあるのだ。『部活動を新設することができる』と。


 だが、そのあとにはこのような文言が続く。


『ただし、新設には以下を条件とする。

 一、新設する部の活動内容や目的が、現行の他の部活動と重複しないこと。

 二、新設する部の構成員として生徒五名以上を含んでいること。

 三、新設する部の顧問として教職員二名以上の賛同を得ること。

 四、上記一、二、三が確認できる要望書を原案として生徒会顧問が部顧問会議に提案し、出席する部顧問の三分の二以上の承認を得ること。

 五、部顧問会議で承認された原案を職員会議に提案し、全職員の三分の二以上の承認を得ること。』


 これを読んで壁の厚さが真に理解できるのは、おそらく大人だけだろう。たいていの高校生はこの一、二が大事なことは知っていても、三の難しさが想像できる者は多くない。そのわずかな知恵者ですら、四、五のことは、ほとんど計算外だ。


 放課後、俺は職員室までついてきた目名方あきらに教室で待つように伝えて、何をどこまで話したものかと考えながら、デスクの上で冷めきっていた飲み残しのコーヒーを含んだ。


「お疲れさまです! どうですかァ! 1組の生徒はッ?」


 声をかけてきたのは、同じ学年で4組の担任を務める大黒教諭だ。長年運動部を指導している体育会系で、日焼けした肌と常に強い語気がなんとも威圧的に受け取られる。根は悪い人ではないのだが、生徒にどう思われているかは推して知るべしといったところか。


 俺は酸化したコーヒーのまずさに眉をしかめながら、いやあ、まあ元気ですね、などと適当に答える。


「うちなんかねえ、新しい部活を作りたいとか抜かすやつがいてねえ!」


 余りの不意打ちにコーヒーを噴き出しそうになる。


「わけわからんこと言ってないでちゃんとした部活に入れって言ってやりましたよ。まったく、我々の苦労も知らんで、ねえ!?」


 あっはっは、まあ一年生ですからねえ、わかってないんでしょうねえ、ははは。


 はは……。


 いや、ははは、ではないが。ハァ。嫌な汗出たわ。


 俺は適当に会話を切り上げて目名方の待つ教室へ足を向けた。俺が苦手とする空気だった。


 実に、先ほどの四、五の難しさはここにあると言ってもよい。


 学校という場でいくらかの時を過ごした人間なら、その多くが感じたことがあるであろう、同調圧力というものの存在を思い出してほしい。


 声のデカいやつが勝ち、その場を動かす。


 生徒という立場で、毎年の役員決めや文化祭の出し物の話し合いで、感じたことは一度ならずあるであろう、あの、同調圧力。決定の場では同調してもあとで燻り続けいろんなところに火種を生む、あの同調圧力。


 あれは実は教員間にも存在する。それは紛れもない事実であった。


「あ、先生きた」


 教室にはすでに生徒の姿はまばらだった。二人ほど、帰り支度をする生徒が目名方あきらと談笑していたが、俺の姿を見ると「じゃあね」と手を振ってその場を離れた。先日入ったばかりの部活動へ行くのだろう。


 せんせーさようならあ。と間延びした声が廊下から届いて、はいさようならあ、と俺も気の抜けた返事をする。


 そうして教室には俺と目名方あきらの二人だけが残された。


「先生、こっち!」


 目名方あきらは自分の席に座って、俺を手招きした。どうも高校一年生は教員のことを友達か何かだと思っている節がある、中学校ではどういう関わり方をしているのか、という声はどこからでも聞こえてくる。まあ、義務教育には義務教育の大変さがまたあるのだろうがな。


 俺は目名方あきらに「ん」と短く返事をし、しかしそのまま近くへは寄らず、先ほどの生徒が閉めて出て行った引き戸をがらりと開け、半開きだった廊下側のカーテンを全開にし、しかる後に彼女の近くに腰を下ろした。


「なんですか、いまの?」


「いや、空気の入れ替えだよ」


 嘘である。これは規則の一つだ。


 教員と生徒の間に起こり得る問題については、誰もが想像力を十分に働かせることができるだろう。実際年に何度かは全国ニュースを騒がせることがある。言わずもがな、そのうち最も重大なものが体罰と性加害だ。

 

 こうした事態を防ぐため、教職員には生徒と関わるにあたってのいくつかの規則が設けられている。その一つが、密室を作らないこと。その場に複数の教員あるいは複数の生徒がいる場合であればこの限りではないが、一対一の指導を行わざるを得ない場合、慎重な教員は必ず密室を崩すところから始める。中の会話が外に聞こえてもよい、二人の様子が外から見えてもよい、という状況ができて初めて、生徒と、場合によっては教員側が守られることになるのだ。非常に少ない事例ではあるが、密室内で被害に遭うのは生徒に限った話ではない。


 しかし、だからといってそれを直接生徒に伝えていい場合と悪い場合もある。この場合私はまだ出会って1か月にも満たない異性の生徒と相対しているのであって、その情報が彼女を安心させるのか、逆に何をされるのかと不安にさせるのか、生徒の性質を見極め切れていない段階で安易に発するべきではない。もちろん、本人から重ねての疑問が生じれば真摯に答える必要があるが。


 目名方あきらは少しだけ考えたあと、「あ!」という顔をして、「ありがとうございます」と言った。そしてそれ以上は言わなかったので、俺も「どういたしまして」と短く答えるにとどめ、本題に入った。


「見ました? 第4条。こうやって書いてあるってことは、この条件を一つずつクリアしていったらいいんですよね?」


 目名方あきらは生徒手帳の当該ページを指でなぞりながら聞いてくる。


「まあ、それはそうなんだけど。でもそれが簡単じゃないのよ」


 あまり深くは掘り下げないまま溜め息交じりに答えると、


「先生~、簡単なことやっても楽しくないじゃないですか!」


 と言って、彼女は目を細めた。


 いやあ、俺は難しいと思うけどね。

 

 そんなことを口に出さずに態度で示していると、目名方あきらは少し机に身を乗り出して、今度は神妙な顔つきになった。


「難しいことをやってみたい、っていうのは、いけないことですか?」


 俺はどきりとした。そんな顔をされると困る。非常に困る。


「もちろん、だめじゃあない」


 まず発した一言で、目名方あきらは乗り出した身を少し後ろへ引いた。しかし、目には変わらず、こちらを試すような、静かな期待が込められているように見える。


 俺はそれに応える言葉を探した。


「だめじゃあない、し……うん、それは本来褒められるべきことだな」


「はい」


 目名方あきらは頷き、まだ次の言葉を待っていた。


 沈黙が訪れた。俺は癖で腕組みをしながら天井を仰いで、考えるともなく考えていた。学校では苦手なことでもやってみろとか限界に挑戦しろとかいろんな言葉で指導をするのに、確かにそれはこちらが用意した枠の中だけの話なのだった。


 俺は視線を戻して一言、「……やりたいの?」と聞いた。答えはわかりきっていたが。


 目名方あきらは張りのある声で、「はい!」と答えた。実にいい返事だった。


 そんなにワクワクした目で見られては、俺には為す術がない。


「わかったよ、相談には乗る」


 負け惜しみのような言い方で両手を上げる俺の前に、「やった!」と小さな勝ち鬨の声が降り注ぐ。


「でも活動内容がちゃんとしてないと話にならないからな。まずはそこからよく考えろ」


「えー先生一緒に考えてくれないんですか」


「いやだよ、なんでだよ」


 俺は席を立ちあがりながら軽く彼女の言葉をあしらっていたが、続く言葉に背中を突きさされることとなる。


「だって先生、顧問だから」


 それ見たことか。そう来るに決まっているのだ。


「勝手に決めるんじゃあないよ。絶対断る。そんな得体のしれない部の顧問なんて……」


 言いながら去ろうとする俺を、目名方あきらの声はしつこく追いかけてきた。


「いや、絶対、先生にお願いにいきますから、ね!」


 その声はもう笑いを含んでいたので、俺ははいはいと言ってその場を後にする。


 そんな、得体のしれない部の顧問なんて……。


 職員室に戻って、まだデスクに残っていたコーヒーを手癖で引っ掴み、口へ運んだ。飲み残しをそう何度も飲むものではない。酸味が口に広がって、またこれは渋い顔になっているな、と思いながらコップを給湯室の流しに運ぶ。


 しかし給湯室の鏡に映った男の顔は、俺の自覚とは少し違う、口元の緩んだ顔をしていたのだった。

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