#2:解決編・鹿谷天馬

 轍さくらの容体は安定した。

 元より、命の別状はなかった。

「…………ふう」

 そのことに、一番安堵した。

 彼女は病院のベッドに寝かされている。点滴の管こそ腕に刺さっているが、それ以外に病人としての治療は今のところ受けていない。検査でも異常はないと診断されている。

 少なくとも、肉体的には。

「フレデリカ・メルツァ……でしたか。彼女に首を絞められた際、きわめて短時間、窒息状態になったことで気を失ったようです」

 警察ががっちりと警備を固める警察病院の一室で、眠るさくらの隣に座っていた僕に医者が説明する。

「既に一度目は覚ましていますが、やはり疲労が溜まっていたのでしょう。また眠ってしまいました。しばらくはここで入院して様子を見ながら休ませるつもりです」

「そうですか」

「捜査の刑事さんたちは事情聴取をしたがっていますがね」

「それには及びません。彼女は今回の件で、あまり多くの事情を知ってはいないはずです。とはいえ、それでも確認は必要ですが」

「私からも言い含めておきます。そちらからも、事情聴取が最小限で済むよう」

「はい。可能な限り」

 立ち上がり、僕は病室を後にした。

 外では不喫先生が待っていた。そこの自販機で買ったらしい、スポーツドリンクのボトルを手渡してくれる。

 これ、甘すぎて喉に絡むのがあまり好きじゃないんだけどな。カロリーも多いし。でも、今はそれくらいの方が気分転換になっていいか。

 受け取ったボトルを開けて適当に流し込んだ。

「どうだった?」

「命に別状はないそうです」

「それは良かった。すわ死んだかと」

「犯人のフレデリカは数日前、一度熱中症で倒れていたそうです。伏が言っていました。そのときから体力がほとんど戻っていないところを無理していたので、人ひとり絞め殺すだけの力が残っていなかったらしいと医者が」

「犬塚さんが駅で助けたって言っていた人か。あの人が犯人だったとは……。因果なものだな」

「くしくも犯人がわずかな体力をおかげで娘は助かった。これほど因果なこともないですよ」

 娘を守った、か。

 轍さくらは、両親とどういう関係だったのだろうか。まあ、少なくとも私よりは良好だったんだろうな。私は両親も兄貴たちも死んだって何とも思わないだろうけど、さくらは違う、はずだ。

 それを考えると今から、気が重い。

「しかしフレデリカという人の動機はなんだったのか。小学校に入り込んでまで殺害とは穏やかではない」

「人を殺す時点で相応の理由でしょう。彼女も倒れてこの警察病院にいますから、すぐ警察が事情を聞くはずです。それより今は……」

「後始末、か」

 ボトルを先生に返すと、代わりにカーディガンを渡してくれる。そういえばあいつに蹴り込んだボールはどうしたかな。先日店の前で遊んで危うく窓にぶつけそうになっていたクソガキどものボールなのでどうでもいいが。ボールに罪はないのでその辺で朽ち果てさせるのも道理が通らない。

 カーディガンを羽織り、別の病室に向かう。そこはさっきのさくらよりも厳重に警察官が警備している部屋だ。

 なにせ。

 その部屋には。

「ふん。なかなか素敵な顔面になったじゃないか。どうせ性格の滲み出た醜い顔だったんだ。アスファルトで擦って原型を留めないようにした方がまだ見れる。整形の費用は取らないでおいてやる」

 今回の主犯、鹿谷天馬がいた。

「お、おまえ……」

「今回の絵解きが必要だろうと思ってな」

 こいつと長々、話すつもりはない。

 警察がガードを固めているのでこの部屋を出ることもできないし、ましてやさくらと二度と会うことはないだろう。だが、それでも現実ってやつを教えておかないと、何をしでかすか分からない。

 まあ、話して聞かせて、それで理解できるオツムならこんなに楽なことはないんだがな。僕は端から諦めているが、そうは言っても、手続きとして一通りの説明は必要だ。

 それが探偵の仕事でもあるわけだし。

 鹿谷天馬は僕がサッカーボールを顔面にブチ当てたので負傷している。厳密にはボールのヒットではなく、その後バランスを崩して盛大に頭からアスファルトに突っ込んだのが原因だが。肉も焼けそうなアスファルトに顔からダイブして、しかも大根おろしみたいに擦ったのでそれはもう酷い負傷になっている。怪我自体は浅いが、顔面を全体的に擦りむいたのだ。

「……ん?」

 見ると、病室の片隅に例の黄色いサッカーボールが転がっている。どうやら警察か救急か、こいつを運んだ人が持ってきたらしい。この馬鹿の荷物と間違われるとは、ボールもいい名誉棄損だろう。

「最初に言っておくと、高校生探偵だから僕がサッカーを得意にしているわけじゃない」

 ボールを足で引き寄せて、蹴り上げる。病室なのでリフティングはせず、キャッチしてそのまま抱えてから、椅子に座る。

「順番は逆だ。ただのサッカー少女だった僕が、いろいろあった先に高校生探偵をやっている。『レオーネ』の近くに味の素スタジアムがあって、そこで二年ほど前に起きた面倒な事件がきっかけだ」

「じゃあ、あのときの……」

「ふん。知っていたか。ま、おおかた雪駄屋だったか下駄屋だったか、あのクソ間抜けが関わった事件だと勘違いしたんだろうが。そのとき不喫先生と知り合って、麗人学院を紹介された。そのときはまだ女学院だったが、僕が入学するころには共学になっていたな」

「じゃあ、さくらのクラスメイトってのは嘘だったのか!」

「僕は最初から何も言っていないぞ。勘違いしたのはお前だ。確かに僕はさくらと同い年の11歳だが、11歳は必ず小学生という法もない。僕は正真正銘、麗人学院の二年生だ。ってやつだよ。お前の妄想劇にそういう情報開示パートはなかったのか?」

 おそらく鹿谷天馬の勘違い、その最初がそこだ。

「まあいい、順を追って説明してやる。時系列に沿ってな。それが一番簡単だ」

 解決編を始めよう。

「さて、最初にまず指摘しておくべきは、鹿谷天馬と轍さくらの関係についてだ」

「天馬くんいわく、彼女を保護したという話だったね」

 病室の壁にもたれかかって、不喫先生が合いの手を入れる。先生はもう慣れたものだ。

「警察の人から聞いたよ。さっきまで一通り聴取を受けていたと。そこで言っていたことによると、数日前、飼い犬を連れて散歩中のさくらさんを保護したと」

「犬の散歩のどこに保護が必要な要素がある? 熱中症か? 伏の話を聞くなら、フレデリカの救助に入ったときでさえ伏の呼びかけがなければ目の前で呆然としていたやつだぞ? そんな甲斐性あるわけがない」

 そもそも、熱中症の子どもを保護するなら救急車を呼んで引き渡せばいい。家に連れ帰る必要はどこにもない。

「事実は単純。鹿谷天馬は轍さくらを

「ま、まて――――」

「お前の言い訳を聞いている暇はない」

 なにせもう夜も遅いのだ。さくらを僕たちが救出したのは昼前だが、そこからなんのかんのあってもう日が沈んでいる。早くしないと面会時間をオーバーするし、いい加減僕も疲れている。

「轍さくらはすぐに逃げ出そうとはしなかった。もし逃走に失敗すれば、どんな仕打ちを受けるか分からないからだ。お前に都合のいい振る舞いをして信頼を得つつ、隙を伺う作戦に出た」

「でも……さくらは」

「でももストライキもあるかド間抜け」

 おそらく、この馬鹿の目には本当に自分を信頼しているように見えたんだろう。馬鹿らしい。それこそさくらの狙いだ。加えてストックホルム症候群。たとえフリでも、人間は犯人に親和的な態度を取り続ければその素振りに精神を引っ張られる。演技でもなんでもなく、さくらが誘拐犯に親和的だったタイミングもあったはずだ。

 ストックホルム症候群が酷くなればいろいろ面倒だったんだがな。幸か不幸か、両親の死という事態のおかげで犯人への親和的な感情も全部吹き飛んでくれたらしい。

「実際、玄関扉の上部に紙テープが貼られていた。さくらがお前に隠れてこっそり外に出たとき、それを察知するためだ。だからさくらは外に出て様子を伺うことすらしなかった」

「…………」

 あるいは。既に一度それでバレて、手酷くか。

「だが分からないな」

 先生がため息をつく。

「そこから何をどう間違えば存在しない毒殺事件に飛び火するんだ?」

「そこまではさすがに僕も分かりませんよ。鹿谷天馬の様子を見て、轍さくらがその嘘をついた方が逃亡の隙を作れると判断したのだろうとしか」

 実際、夏休みだというのにそのおかげでこいつは家を空ける時間が長くなった。逃亡のチャンスをうかがえるし、何より恐ろしい誘拐犯と同じ家にいる時間が短くて済む。そういう事情を加味しての嘘だったのだろう。

 その嘘がとんでもない事態を引き寄せることになったが、彼女に責任は一切ない。責任があるとすれば、目の前のクソ間抜け誘拐犯と…………。

 高校生探偵を騙ったあいつだ。

「ともかく。さくらは嘘をついて鹿谷天馬を動かした。後は先生がご存じの通り、こいつは脳髄書館に向かい、ミステリのトリックを探ることで事件解決の手がかりとしようという侮蔑的なことをおっぱじめるところだった」

「その途上で君や犬塚さんのビラ配りに出くわしたんだったね。そこで君を見て、さくらさんのクラスメイトと勘違いしたと」

「あの時点でだいぶ怪しかったからな。こいつは児童の失踪事件になんて興味を持つタマじゃない。ましてやボランティアのビラ配りなんて『無駄なことを』と鼻で笑うタイプだ。それが不自然なほど興味を引いていた」

 この時点ではまさか轍さくらを誘拐した張本人とは思いもしなかった。

 ただのロリコンだと思ったからな。僕にも随分いやな目線を送ってきていたし。誘拐犯と同好の士だと思ってしまったので、鹿谷天馬への追及が遅れた。

 最も、この時点での僕はただのボランティアだ。さくらの失踪も、誘拐ならこいつのようなロリコンが絡んでいるだろうと考えてはいたが、事件性のない家出という可能性もあった。事件性がないなら僕の出る幕じゃない。どっかの馬鹿と違って、出しゃばらないようにしているからな。

「脳髄書館でお前は頭脳髄読子と会い、タカオという高校生探偵につないでもらった。ここからが最大の不幸だ。頭脳髄読子は不喫先生経由で僕に連絡を取った。だから僕は午後に麗人学院へ戻ったが、それより先にお前は雪駄屋貴雄と出会っていた」

 何が起きていたのか。これはついさっきようやく整理できた。

 不喫先生から連絡を受けた僕は麗人学院へ向かったが、その時既に鹿谷天馬は雪駄屋貴雄と出会っている。青井勝美という粗野にもほどがある教師が勝手に入場許可を受理してしまい、挙句自分たちの客だと勘違いして引き合わせたからだ。

 葵不喫と青井勝美。同じ読みの苗字がいるんだから確認しろよと言う話だが……。不喫先生は司書教諭だ。つまり図書室の先生。一般的な教職員の人たちとも交流が薄いので、存在感がない。不喫先生の方が青井何某より長く勤めているんだがな。

 肝心の不喫先生はこのとき、図書室で警備から鹿谷天馬が来たという連絡が届くのを待っていたが、その連絡を青井先生が受けてしまったので当然届かない。

 さらに悪いことに、僕とこいつが別のところで面識を持っていたので、後日『チャーチグリム』で僕とこいつが話していたのを見て先生は「別のところで面会できていたのか」と早合点してしまった。それで事態の把握が遅れたのだ。

 もっとも、『チャーチグリム』の時点で僕は何か面倒が起きているというのを察していたが、これは後に回して……。

「そ、そうだ……あの貴雄先輩は結局何だったんだ?」

「高校生探偵を自称する頭のおかしいやつだ。いや正確には相談役だったか? まあどうでもいい。さほど重要じゃない」

 その重要じゃないやつが今回の事件で一番のノイズなのが酷い話だ。この一点に関してだけ、鹿谷天馬に同情はしないが理解はしておいてやる。

「後はお前も理解しての通り、高校生探偵を自称する頭のおかしい馬鹿に振り回されながら捜査をしていたわけだ。架空の事件のな。お前も馬鹿もなんで事件について検索すらしないんだ。調べればすぐに轍さくらの父親が毒殺されたなんて事件がないことくらい分かったはずだ」

「どうだろうな。警察が事件性なしと判断した事件、という設定だろう? 調べて見つからなかったら、それはそれで嘘を信じ込んでいたんじゃないか?」

 不喫先生の想定の方が正しいかもしれない。いずれにせよ、さくらがついた嘘の中で「警察が事件性なしと判断した」という要素がクリティカルだったわけだ。

「だがお前が捜査と称してうろついたおかげで、僕も事態を把握できた。『チャーチグリム』にお前が来た時点でな」

 なにせ僕は伏と一緒にビラ配りのボランティアをしていたからな。轍さくらの父親が死んでいないことは当然知っている。そもそも『チャーチグリム』の関係で一年くらい前に会っている。そう、事件が起きたとされる一年ほど前にだ。

「先日、ビラ配りに変な興味を示したやつが後日、存在しない毒殺事件を引っ提げてやってきた。しかも轍さくらに関連する事件。そして推理を滔々と披露したが、どうもこいつにそれほどの知恵があるとは思えない。背後に別の探偵役の存在を嗅ぎ取った」

 だから『チャーチグリム』の時点で、不喫先生が余計なことを言わないよう会話の主導権を握って情報を制限した。状況を確かめる前にさらなる混乱を呼びたくはなかった。

 鹿谷天馬が店を出た後、先生から話を聞き出して状況を完全に把握した。頭脳髄読子ともそこで情報を共有し、鹿谷天馬が連絡してきても僕の存在は隠すように伝えた。

 認知の歪んだ誘拐犯に、実は高校生探偵は別人でしたという意味不明な情報を与えてパニックを起こせばどうなるか分からない。それに僕の存在が隠されていれば、その分自由に動けるからな。

「しかしさくらさんはよく短時間で、そんな嘘の事件をでっちあげられたね」

 不喫先生は感心したように息を吐く。ああ、そういえばこの人、元は作家志望の純朴な文学青年だったな。

 なんだよ純朴な文学青年って。

 先生の受け売りをそのまま話したが、自分の舌を滑っていく言葉はぞっとしない。嘘だったり、受け売りだったり、その場しのぎの言葉ってのはその人の血肉になっていないから案外それと分かるものだ。

 鹿谷天馬には分からなかったらしいが。

「誘拐されてから事件を騙るまでが三日。そう短くもないですけどね」

「でも混乱と恐怖の中で冷静じゃいられなかったはずだ」

「ええ。だから彼女は手っ取り早く、元ネタのある事件を使うことにしたんです」

 さくらが自身の父親の毒殺事件と偽って出したのは、まったく別の話だ。

 現実の事件ですらない。

 北小路あいろ『サイゼリヤの殺人』。

「レストラン『レオーネ』で起きた毒殺事件で、一番不可解だったのはプラスチック製のグラスが使われたという指摘だ。サイゼリヤじゃあるまいしと思ったらサイゼリヤだったわけだ。おそらく、状況説明の臨場感を出そうと深く考えず、小説のシーンを轍さくらが語ったんだろう。それが鹿谷天馬の印象に残り、事件の謎と化した」

 今朝、尋常小学校で鹿谷天馬がグラスの材質について言及したときはよく理解できなかった。だがすぐにさくらの机の中から『サイゼリヤの殺人』を見つけたので、事態は明快になった。

「そもそも、尋常小学校や『チャーチグリム』でのこいつの喋りはあまりに馴れ馴れしい。轍さくらと面識があるかのようだった。だからこいつの手提げ袋の中へ僕のスマホを投げ込んで、先生のアプリで追跡して住居を特定した」

 僕が親元を離れて麗人学院へ通う際、一応体裁上、両親の許可を得るために提示された条件。万が一に備え、アプリで必要があったら僕のスマホを追跡できるようにするという措置だ。麗人学院の教師として不喫先生が代表して、あと居候先の保護者とついでに伏も追いかけられるようにしてある。

 一度埠頭区へこいつが移動したせいで追いかけるのに苦労したがな。不喫先生のバイクで取って返したおかげで最悪の事態は免れた。

 最悪の事態、ね…………。

「天馬くんがさくらさんと以前から知り合いだったらどうするつもりだったんだい?」

「その場合は明らかに、ロリコンが犯罪のために下準備していただけです。いずれにせよ一顧だに値しません」

「同感だな」

「ま、待てって!」

 鹿谷天馬が抗議の鳴き声を上げる。厚顔無恥にもロリコン呼ばわりに対する抗議かと思ったら、どうも違うようだ。

「じゃあ小学校で君と一緒にいた大人は誰なんだ!」

「轍さくらの両親に決まっているだろ。まだそこで足踏みしてたのか」

 やはりこの馬鹿に現状を理解させるのは困難だな。これなら小学一年生に因数分解を教える方がまだ楽だ。

「元より、ボランティアの会議と今後の捜査方針の打ち合わせであの二人が小学校に来るのは予定通りだった。事件性が急に浮上したので僕から少し面談を持ち掛けたんだ。そこに突如お前が現れたので、あえて引き合わせて尻尾を出させたというわけだ」

 まさか死んだと思っている轍さくらの父親が生き返っていても困るので、それとなく勘違いするよう誘導はした。『レオーネ』の従業員の一組くらいに勘違いさせるつもりだったが、どうもこいつは僕の両親だと勘違いしていたらしい。そのことに気づいたのもついさっきだ。

「効果は覿面だったぞ。フレデリカの存在も白状してくれたし、実質お前が犯人だという証拠は掴んだも同然だった」

 さくらの父親がフレデリカの名前を挙げたとき、こいつはさくらに対するのと同様、妙に馴れ馴れしい発言を取った。だからこの事件にフレデリカが絡んでおり、かなり致命的な状態になっているのも推測できた。

「さくらの作戦も、功を奏したな」

「作戦、だと……?」

「轍さくらはお前を罠にかけた。教室に脳髄書館で借りた本を置き忘れたのは事実。そこでお前に取りに行かせた。さくらの通う小学校に、彼女に荷物を取りに来たという見知らぬ男が現れればどうしたって注意を引く。ビラ配りのボランティアから教職員、おまけに捜査で出入りしている警察もな」

 そうやって鹿谷天馬の存在を捜査線上に浮上させるのがさくらの狙いだった。置き忘れた本が架空の毒殺事件の元ネタである『サイゼリヤの殺人』というのはリスクで、下手をすれば事件が嘘だと気づかれる恐れがあったが……。さくらはリスクを取った。あるいはこいつなら気づかないと踏んだのか。

 おそらく後者だろうな。事件それ自体の情報を検索しないし、『レオーネ』のSNSを探っても死んだとされる父親の生存に気づいていないレベルだ。

 そして作戦は大ハマりだ。僕は当然としても、基本的に能天気な伏でさえあの場に鹿谷天馬が現れたことを相当不審に思っていた。他にも大勢に見咎められていて、後の校舎放火事件の容疑者として一時目をつけられていたくらいだ。

「状況が極まったので、僕はさくらの両親にその場にとどまるよう言い含めておいて、彼女の救出に向かった。問題はこの場合、お前よりもフレデリカだった」

 情報が少ない。フレデリカが鹿谷天馬と繋がっているのは分かった。だがなぜフレデリカはさくらを救助しないのか。加えてなぜ、フレデリカはさくらの語った架空の毒殺事件に対し否定するのではなく口裏を合わせたのか。

「小学校でさくらを誘拐する動機のある人間を二人に聞いたのは、フレデリカの存在を整理するためだ。もうお前が誘拐犯なのは十中八九だったからな。それよりも、フレデリカがなぜ事件に関係しているのかが知りたかった」

「そこで出たのが、レシピの盗用だったと?」

 不喫先生が唸る。

「それは真実だったのかな」

「どうでしょうね。鹿谷天馬に雪駄屋貴雄と、頭のおかしい馬鹿が蠢いているのでせめてフレデリカだけは正常な認識で動いていてほしいんですが」

 ともあれ、フレデリカの動機もおおよそ判明した。さくらの所在を掴みながら未だ行動を起こしていないところから、さくらが誘拐されている状況を利用しさらに何か企んでいる危険性があったので、安全を取る必要があった。

「さくらの両親を校舎に残したのはそれが一番安全だったからです。部外者が軽々に立ち入れない空間で、しかも警察含め大勢が今日は出入りしていましたから。人の目も十分あった」

 だが、それでもフレデリカは止まらなかった。もとより公立学校、警備は私立で元女子校の麗人学院とは比べるまでもない。フレデリカの侵入自体は把握されていたが、警備員曰く「忘れ物をさくらさんのご両親に届けに来たとのことで」だそうだ。

 もしフレデリカがこそこそ犯行に及ぶつもりなら、校舎内に留まるのは確実な安全対策だった。口八丁で誤魔化せるとはいえ侵入自体は見咎められる場所へ入って殺人など、疑われたくない犯人ならまず取らない選択だ。だが彼女は、捕まってもいいくらいの気持ちで動いていた。

 動機からして、あくまで目標は両親の方だ。さくらは事のついでというか、余った復讐心のはけ口に過ぎなかった。だから素手で絞め殺そうとして、自身に力が残っていないと分かるやすぐに諦めた。本気で殺す気なら、キッチンから包丁でも調達すればいい。それでさくらはもちろん、鹿谷天馬もついでに刺し殺して終わりだ。

 放火したのも証拠の隠滅よりも死体の損壊が目的。しかも身元を分からなくするためではなく、ただ怒りが抑えきれなかっただけだ。近くに灯油があったので火をつけたが、無ければめった刺しにでもしていただろう。

 さくらが誘拐され、鹿谷天馬が蠢いているという混乱した状況を最大限に活用されてしまった。

「なるほど。これはまあ、面倒な事件だったわけだ。今後は君に依頼する人間が行き違いにならないよう、連絡手段を整える必要があるかな」

「本来なら、それも必要なかったんですけどね。どっかの馬鹿が出しゃばったせいで人がふたりも死にました」

 これに関しては同情こそしないが、鹿谷天馬に罪はない。このロリコンの罪は、あくまで轍さくらを誘拐したことだ。

「これにて、解決編はおしまい。……帰りましょう」

 椅子から腰を上げ、スカートの皴を整えてから出口に向かう。

「いいのか?」

「いいも何も、最初からのれんに腕押しですよ。手続き上の正当性を確保するために喋っただけです。このロリコンを二度とさくらの元に近づけないのは、僕の仕事じゃなくて司法の仕事です」

「それもそうだな」

「あと、僕は高校二年生ですけどさくらと同い年ですからね。こんなロリコンと同じ空気なんてもうコンマ一秒だって吸いたくはないですよ」

 こいつ僕の二の腕ずっと見てたからな。カーディガンが手放せない。

 あーキモイ。

「ま、まて!」

「あ?」

 呼び止められる。なんだまだ用か?

 よほど無視して出ようかと思ったが、立ち止まってしまう。自分の性分に嫌気がさす。

「本当に……本当に君は高校生探偵なのか?」

「体は子ども、頭脳は大人というやつだ」

 もっとも、僕が一番敬愛するのは兄にコンプレックスを抱きつつ義姉に横恋慕する情けないイケメンの高校生探偵だがな。あいにく自分より低能の兄貴にコンプレックスを抱く要素はないし、義理の姉もいないので真似はしようもないが。ピアスくらいは今度開けてみるか?

「探偵の中には首から下がないやつから、三毛猫や犬までいるんだ。飛び級の高校生探偵くらいどうってことはない」

「それは、漫画の中だけだろ!」

 その口ぶりからして鹿谷天馬はミステリに詳しくないようだ。もう少しこいつの探偵受容が広ければ、僕が探偵だと気づけたかもしれないのにな。

 フィクションで何かを勉強したと自慢するやつは馬鹿だ。所詮フィクションは教材としては三流。

 だが物語は人の懐を広げてくれる。まあ、それを悪用すると「誘拐犯と被害者の少女がいい関係だった」なんて悪意百パーセントの妄想を是認してしまうわけだが。『鳥籠の天使』だったか? こいつ好きそうだよなあ。

「探偵は、現実をきちんと認識できなければならないはずだ」

 鹿谷天馬は、キモイ誘拐犯のロリコンは必死に言葉を絞り出した。こいつ僕と少しでも長くいたいから引き留めようとしてないか?

「変人の探偵には、それはでき――――」

「ああ。それも雪駄屋貴雄の受け売りだな」

 舌を滑る言葉で分かる。

「虚構の探偵は変人だが、現実の探偵は変人では務まらない。変人の変人たるゆえんは、その現実認識の歪みにある。現実認識が歪むから、そこから導き出される言動も歪曲され変人となる。そして真実とは正しい現実認識の積み重ねである。つまり現実認識の歪んだ変人に探偵はできない、か」

 頭脳髄読子がそんな話を、こいつから聞いていたな。こいつと知り合いだという彼女すら「あれは彼の理屈じゃないね」と言っていたので、おそらく雪駄屋貴雄の発言だろう。そいつくらいしか、探偵観について自説を開示する動機のある人間はいない。

「馬鹿かお前」

「なっ…………」

「現実を見ろ。フェイクニュースが問題になったのは何年前だ? 不正選挙の陰謀論に煽られた間抜けがホワイトハウスに突っ込んだのも今や昔。AI生成によるディープフェイクで無限に偽物の画像や映像を作ることができる。それどころか、人々は自分の信じたいものしか信じない。フェイクの画像や動画なんて用意するまでもなく、明らかにあり得ない嘘を真実だと言い張って、最後には妥当な批判をするやつを名誉棄損で訴える始末だ」

 この真実が見えていないやつが何を語っている。

「真実が真実というだけで尊重される時代じゃない。真実を追求する行為に価値すらない。真実がなんであれ、自分が押し通したいものを適当に真実にしてしまえるんだからな。これほど嘘つきに楽な時代もない」

 真実が尊重されない。嘘を吐く場面ですら、真実をまず把握しておかねば嘘がつけないという深謀遠慮が存在しない。真実は捨ておいて、自分の押し通したいものを真実と強弁すればそれですべてが完了する。自分の言い分がデマであるという指摘は無視すればいい。

「こんな狂った時代で、探偵は真実を追求するんだ。他の連中が好き勝手犯人は誰だと主張すれば完了する行為を、手順を踏んで着実に進めて、真相を看破する」

 真実が軽んじられる時代に、を抱き続ける存在。

 それが探偵。

 そんな探偵は――――。

 ただサッカーボールを蹴っていればよかったあのころを捨てて、今を選んだ僕の、それが矜持だ。

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