調査編:事件深淵
#9:イタリア料理を食べに行こう
脳髄書館で読子先輩と会い、紹介された高校生探偵、雪駄屋貴雄先輩と出会った翌日。
つまり予定通り、さくらの両親が経営するレストラン『レオーネ』に行く日である。あらかじめ検索して調べたが、今日は定休日という様子ではない。SNSもやっていたので確認したが、気安いレストランという雰囲気を漂わせていて、格式張ったりしなくてもよさそうなのは安心だ。
「ごちそうさま」
さくらは朝食を食べ終え、皿を流し台へ運んでいた。平日ながらゆったりとした朝。夏休み特有の空気が流れている。
『今年六月に性犯罪の規定を見直した刑法改正案が参議院を通過しました。特に性交同意年齢の話題で取り上げられることの多いこの件ですが、今一度専門家の方をお呼びして確認したいと思います。北海道犯罪学研究所の研究員、御子柴さんです』
ニュースでは全然、夏休みらしくない話題が出てきているが。なんとも物騒なことだ。夏休みの子ども向け映画の特集とかしていればいいのに。それとも気づかぬ間にNHKにでもチャンネルを変えていたのか。
「せいこーどうい?」
戻ってきたさくらが呟く。小学生の彼女にはよく分からない単語だったらしい。ニュースも出てきた専門家の御子柴何某がぐだぐだ喋っているだけで要領を得ない。お偉い学者先生のポロシャツ姿は社会人のクールビズというより、大学生の私服という印象を受ける。年は三十を過ぎているはずなので、要するに子どもっぽさが抜けていないのだろう。学校を出て社会に揉まれたことがないから、幼さが残り続けているのかもしれない。
「性交同意年齢。えっと」
読子先輩に少し前、聞かされたことがあるので理解はしている。だがさすがにセックスの話をさくらにそのまま話すのはな。
「男の人と女の人が愛することができる年齢だよ。明治時代に十三歳以上と決まっていたのが、今回の法案で十六歳以上になるってことらしい」
「誰かを愛するのにできるできないって年齢があるの?」
唐突に確信を突くさくらである。
一方、小学生でもわかる理屈を学者先生は「例えばクレジットカードやローンの契約は成人にならないと不可能です。未成年者は経済活動における契約を自ら行う判断力がないと考えられているわけです。にも関わらず、性行為に関しては未成年しかも十三歳から判断力があると考えられていたわけですね」とこねくり回して分かりづらく説明している。
「賢い大人が言うには、人が他人を愛していると考えたとき、その考えが正しいかどうかに年齢が関係するんだとさ」
まったく、口にしても分からない理屈だ。
「例えば俺は四月に十六歳になってる。で、俺が『クラスのあの子が好きだなあ』って思ったとき、三月の時点ではそれは子どもの浅はかで未熟な考えなんだとさ。でも四月を過ぎると『十六歳の君が思うならそれは正しいことだね』ってなる」
「よく分かんないね」
「分からなくて当然なんだ。結局、大人が子どもをコントロールするための理屈なんだからな。その時々で子どもに言うことを聞かせるのに都合のいい理屈をひねり出すから一貫性がない」
実際、この辺の話は滅茶苦茶だ。テレビの学者先生が言うように、ローンを組んだりクレカを作ったりするのは成人してからでないとできない。だがこの成人ってのがまず十八歳なのか二十歳なのか不鮮明で、選挙権は十八歳で持つのに酒やたばこは未だに『二十歳になってから!』だ。そして今回の性交同意年齢とやらは十六歳。
場当たり的に子どものやろうとしていることを制限するから、おかしくなる。そこに明確で一本筋の通った理屈があるならば、全部自然と統一されるはずなのに。
「大人がコントロールしたがるってのは分かるなあ。うちのパパとママもそうだもん」
さくらがため息を吐く。
「クラスのあの子と遊んじゃいけませんとか、どこに行ってはいけませんとか、よく言うんだよね。えっとクラスメイトが……ざい、なんだっけ?」
「ふうん。そっちも大変なんだな。俺はあまり、そういうこと言われたことない気がするが」
放任主義にならざるをえないからな。いくら口うるさく言ったところで、出張で頻繁に家を空けるんじゃどうにもならない。
「レストランの従業員に対してもそんな感じなんだよね。あの人はちょっとあれだから仲良くしちゃダメとか」
「ふむ……」
随分過保護というか、支配的だったようだな、さくらのママは。今の疑心暗鬼は、そうしたコントロール欲求をさくらが見抜いているからこそという側面はありそうだ。
人を支配したがるママが、そのコントロールを抜けたとも言える浮気パパを殺害した。ならママにとってアンコントローラブルと判断されれば殺されかねない。さくらがママを不審に思うのはやや過剰反応な印象を受けていたが、そういう背景ならもう少し理解できる。
「さて、そろそろ行くか」
俺も朝食を食べ終え、立ち上がった。
「今日もどこかに行くの?」
「ああ。ちょっと『レオーネ』に……」
あ。
ついうっかり。リラックスしていたのもあって隠すつもりだった行き先をこぼしてしまった。参ったな。
「お店に行くの?」
だがさくらの反応は素朴なものだった。この分なら、隠す必要もなかったかもしれない。
「ママに会いに行くわけじゃないんだ。まだ容疑者にぶつかるのは早いからな」
一応、念のため言い含めておく。
「事件現場を見ておこうと思って」
「でも事件はだいぶ前だよ?」
「それでもね」
高校生探偵である貴雄先輩の案だ。ぶっちゃけ俺もさくらと同意見で、見たところでどこまで真相に迫れるかは分からない。ただまあ、行ったところでまったくの無駄足ってこともないだろう。ブラジルほど離れているなら考えるが、大した距離でもないし行ってみるだけ行ってみるのはいいだろう。
「少し様子を見に行くんだ。何か注意して見ておいた方がいいことはあるかな」
「じゃあ、パパとママの様子を……」
そこまで言って。
さくらは固まった。
「あ、えっと……」
「……大丈夫」
俺はさくらの頭を撫でた。
事件は一年近く前のことだ。さくらのパパは既に死んで一年が経過している。それなのに、何か事があると彼女の中でパパとママは一組の存在として思い起こされてしまう。
この状況が長く続くのはよくない。
「調査は意外と進んでいる」
本当はあまり、気を持たせるようなことは言いたくなかった。期待させておいて空振りではショックも大きいだろうからだ。貴雄先輩の存在を今のところ隠しているのも、そういう事情がある。だが多少なりとも、動揺を収めるために希望を見せておいた方がいい。
「きっとすぐ、真実が分かる。だからそれまでもう少し、我慢してくれ」
「…………うん」
「じゃあ、行ってくる。誰か来ても玄関を開けたらダメだからな」
俺は決意を新たにして、事件現場のレストラン『レオーネ』に向かった。
目的のイタリアンレストラン『レオーネ』は東京都内にある。さくらの自宅は横浜市尋常区内だが、両親の通勤先は東京だったわけだ。相応に距離はあるが、さくら自身が頻繁に行き来するわけではないから問題はない。
場所は調布市。味の素スタジアムのすぐ近くにあるという。イベントかスポーツの試合でもあったら面倒だなと思ったが、今日はそうでもないのか電車の混雑は酷くなかった。
「そういえば……」
味の素スタジアムと言えば、数年前に酷い事件があったな。有名な少年サッカークラブが新入部員の選抜試験を行っているときに爆弾テロが起きた件だ。単に爆発で大勢の死傷者が出たというだけでなく、同時にクラブで汚職が長年続いていたことが判明し、サッカー業界は阿鼻叫喚だったとか。
なぜ俺がそのことを不意に思い出したのか。一昨日、さくらに事件の話を聞く前にニュースでそんな話をしていたから記憶から引っ張り出されていたのもある。そしてぼんやりとだが、その事件で活躍したのが当時選抜試験に訪れていた子どもだったという話を聞いた覚えがあったからだ。少年サッカークラブが何歳くらいを対象としているのかは知らないが……。まさか世界広しと言えど、そんな活躍をできるやつが大勢いるはずもない。あるいは、貴雄先輩がその人物だったのではと思ったのだ。
どうだろうな。分からない。噂が噂を呼んでいるのだ。電車に乗っている間、スマホで適当に検索をかけたが情報が全然集まらない。麗人学院の事件も殺人と大きなものだが、爆弾テロはまた性質の違う深刻さだ。公安も出てくるだろうし、その都合で情報統制があるのかもしれない。
駅に降りると、やはり夏の暑さが体を苛んだ。マップアプリで調べる限り歩いていけなくもない距離だったが、この暑さで出歩くのは自殺行為にもほどがある。大人しくアプリでタクシーを呼んだ。
いかんせん昨日、まさに熱中症で倒れた人を見ているわけだしな。大人でもああなるのだ。無理はできない。しかしあの人は大丈夫だったのか。結局駅員に預けてきてしまったが。
呼んだタクシーはすぐに来た。そのまま乗って、住所を告げ移動する。
『レオーネ』にはいともたやすく到着した。拍子抜けなくらい。
事件現場というからそこへたどり着くまでに何かの妨害でもあるんじゃないか、なんてさすがに思ってはいない。事件だって一年近く前で、警察は事件性なしと片付けている。今更調査に来て、現場を見ようというやつを止める意味がない。それでも多少の困難を覚悟して身構えてしまうのはあったのだ。
真夏の昼少し前ということもあり、店はそこまで混雑していなかった。テラス席が張り出しているが、さすがにそこに客はいない。涼しい店内でゆったりと食事をしている人たちが何人かいるくらいだ。イタリアンレストランというから外装もなにかそれらしい造りなのかと思ったが、見たところこじゃれた洋風レストランか喫茶店と聞いてイメージする店、というくらいの印象しかない。AIに「イタリアンレストラン」「テラス席」「軽い感じ」と打ち込めば出力してくれるような。
看板には『Trattoria Leone』と書かれている。とら……が何かは分からないが、レオーネは獅子という意味らしく、看板には雄ライオンのイラストが描かれている。メニュー表も黒板にチョークで描かれ、イタリアンレストランというか、日本人が想像するお洒落な洋風レストランの要素をかき集めたようなところだった。
もっと本格的なところを想像していたのだが……。いやどういう外見なら本格的なイタリアンレストランという装いになるかは分からないけど。とはいえ、入るのに覚悟が必要そうなところじゃなくて助かった。ともかく、まずは客として入って中を確認しよう。一通り見た印象を貴雄先輩に報告し、その上でさらに必要な調査があるなら従業員にぶつかるくらいの感じでいい。
方針を定め、俺は店内に入った。
「いらっしゃいませ!」
ウェイトレスのひとりが元気よく挨拶する。背の高い、金髪の日本人らしくない女性で……。
あ。
「あら、君は…………?」
その人は、昨日まさに、駅で倒れたのを俺が助けた女性だった。
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