#6:地下の支配者

 脳髄書館の蔵書数はとてつもないが、しかしすべての本が表に出ているわけではない。さすがのここも、そんなスペースはない。

 貸出頻度や本の状態、情報の古さなどに応じ表の開架に並べられている本もあれば、職員しか入れない閉架に収められているものも多い。また利用者自身が立ち入ることができるものの、よっぽどのことがないと入らないような地下の空間に揃えられていることもある。

 あの人はいつも、そんな薄暗い地下にいる。

 蔵書の管理に関わることなので、脳髄書館の地下は湿っぽくも埃っぽくもない。むしろ空気は清潔な部類ですらあった。たださすがに、日の光が届かないので暗い。そんな場所の一角……文芸雑誌のバックナンバーが整理されたところに彼女はいた。

 本棚の並ぶ一角に、閲覧用に小さい机と椅子が置かれている。そこに堂々と雑誌や本、おそらく新聞のバックナンバーをオンライン印刷したものを広げてくつろいでいる。

「『』……」

 俺が彼女の背中に近づくと、まるでそれを察知したかのように言葉が発せられる。しかもそれが、今の俺の状況を見透かしたかのような言葉なので肝を冷やした。

 いや俺は誘拐してないけどな。

「優しいロリコンお兄さんに誘拐されるのも、トラックに轢かれて異世界に転生するのも本質的には同じことなんだろう。現状への閉塞感があり、しかもそれは通常の手段では解消できないという無力感と失望がある」

「……実際、そうなんじゃないですか?」

「尋常ならざる手段では物事は解決しないよ。なぜなら人の陥る苦難とは、すべて通常のものだからだ。家で虐待され逃げ道がないのも、職場で冷遇され正当に評価されないのも、人の悪性が組み立てた極めて通常の事態だ。電車の遅延で学校に遅れそうになっている時にどこでもドアを求めるのが的外れであるように、通常の事態に対処できるのは通常の手段だけだ」

「親から虐待されているのが通常ですか?」

 さくらはママがパパを殺し、その次は自分かもしれないと思っている。それは通常か?

「程度ではなく種類の問題だよ。虐待は極めて悲惨だが、人間の行いとしては通常だ。一般的と言い換えていい。そんな通常の事態を解決するのに必要なのは、白馬の王子様でも、マスクで顔を隠したヒョロガリイケメンでもない。児童相談所と支援団体、あと警察だ」

 そこでようやく彼女はこちらを見た。

 本の虫。大図書館のスポンサー頭脳髄家の一員という先行情報からはいまいち想像できない外観。清潔に刈り込まれた短髪と大きな瞳。活力に満ちた表情。やや肌が生白いことを除けば健康そのものである。

 頭脳髄読子。ひょんなことから知り合った、頭脳髄家のご令嬢だ。

「ていうか、何調べてたんですか?」

「実際の事件を題材にした作品の対外評価を少し。最近は気軽な読み物すら軽薄に実在の事件を扱うものだね。一億総野次馬時代のいい証拠さ。それより君がここに来るのは珍しい。最近はご無沙汰だったじゃないか。よほど地上の生活が面白いらしい。そして面白くなりすぎてここに来た、と」

「そんなところですよ、先輩」

 俺が読子先輩の知恵を借りようとここに来たのは予測済み、ということか。

 さてどうするか。

 読子先輩は見透かしたようなことを言う人で、事実見透かす人だ。ノーガードで挑めば俺がさくらを保護して、パパの毒殺事件について調べていることなどすぐ勘付かれるだろう。幸いなのは、先輩がご覧の通り適当を喋るのが好きなタイプなのでそこまで真剣に見透かすことはしない、ということか。

 仮に俺の背後にキナ臭さを感じてもグダグダ喋っているうちに忘れてしまう。先輩の思考速度と深度はまさしく尋常ではないが、逆にそれゆえ当初の疑問を置き去りにしてどんどん先へ進んでしまう。忘れるというより押し流されてさらに注目度の高い話題にぶつかってしまううちに優先度が下がっていく、というのが正しい。

 その能力をステータスに表すといかにも探偵向きっぽく見えて、能力の動作を見ると全然探偵向きじゃない人なのだ。だから俺は最初から、この人に毒殺事件の解決を頼もうとは思っていない。

「地上が面白いと言えば、最近いろいろ事件があったらしい」

 俺が切り出し方を考えていると、勝手に先輩が喋りはじめる。

「ああ、誘拐事件ですね」

「誘拐事件?」

 てっきりさくらの誘拐の件を話しているのかと思ったが、違った。とんだ藪蛇だが、気にせず読子先輩は話を続けた。

「我が麗人学院で殺人事件だそうだ。名門高校で生徒同士の刃傷沙汰とは面白い。籍だけ置いて不登校を決め込んでいたのを人生で初めて後悔したよ」

 猪村か鯨井のどちらかが言っていたやつか。

「確か『男女共学殺人事件』とか……」

「そう。私もさっきアオイのやつから聞いてね。あの男、普段は学食の新メニューのことまで報告するくせに肝心なことは全然話さない。とはいえ司書教諭だからな、私の様子見自体が業務外である以上文句も言えん。それにしても妙なタイトルだな。アオイは無論いい大人だからな、実際の事件にこんな名前など付けない分別はあるはずだが」

 いい感じに話が別のところへ流れた。

「ところで誘拐事件とはなにかな?」

 流れてなかったか。

「ああいや、その。うちの近所で小学生が誘拐されたんですよ。つい四日くらい前に」

「それで君が関わっていると。私に会いに来たのもその都合か」

「……なんでそう思うんですか?」

「たかが四日だ。小学生とはいえまだ家出の可能性だってある。横浜市内に東京と、数日をしのぐ都会には事欠かない立地だしな。にも関わらず君は誘拐と言った」

「警察もメディアも誘拐と扱っているからですよ」

「そこで素直に誘拐だと、歩調を合わせる君じゃないだろう。こういうときは、『本当に誘拐か分からないのに決めつけて大げさだな』と逆を張るタイプだ。しかも私の発言に対し、即座に誘拐事件を想起した。地上のニュースなんてそれこそsteamのサマーセールから動物園の赤ちゃんライオンまでいくらでもあるだろうに、誘拐だ」

「そんな不確かな推測で決めつけたんですか」

「別に私は探偵でも弁護士でもないからね。こんな人のいない図書館の地下で、君以外に話し相手がいないところの発言まで責任を負う義理はないよ。オフレコってやつだ。外れていたところでどうという話じゃない」

 無責任だが、図書館に年がら年中たむろしている人間らしい発想ではある。

「それで? 私は私の発言に対し君から何らかのリアクションをもらえるのかな?」

「……参りましたよ」

 結局、こうなるわけだ。ま、読子先輩ならさくらの件を知ってしまっても、話す相手がいないだろうから漏洩の危険もないか。

「問題の誘拐された女児……轍さくらを俺が保護しています」

「もしもしポリスメン?」

「警察に連絡されると困るんですよ。さくらが連れ戻されるとママ……母親に殺されかねない」

「そういう設定か」

 ようやく読子先輩は少し真剣に聞いてくれるようになったらしい。

「簡単に言えば、さくらの父親が母親に殺された疑惑があります。しかし警察は事件性なしと判断。さくらは疑心暗鬼に陥って、今度は母親が自分を殺すんじゃないかと怯えて家を飛び出したわけです」

「娘に手を掛けるかは母親の動機にもよるだろう。しかし……娘からすれば父親を殺した以上、自分が危害を加えられるリスクはどうあれ無視できないか」

「はい。だから父親の死の謎を解いて、母親が本当に犯人か否かをはっきりさせないといけなくて」

「それでそれで? まさか私に探偵を頼もうって腹じゃないだろう? 君は君が探偵をしたいはずだ」

「さすがにそれは……」

 見透かすようなことを言う人だが、的外れも多い。数打てば当たるというか、口数が多いので外すことも多いし当てることも多い。

「俺はさくらの安心を確保できればそれで。とはいえ探偵を頼む心当たりもないので、ひとまず俺が調べようかと。それで毒殺事件のトリックを調べてまして」

「なら逆に、私に心当たりがあって探偵を紹介できるのならそれでもいいのかな?」

「え?」

 いるのか?

「何を驚いているんだい?」

 俺の反応はむしろ、読子先輩にとって意外だったらしい。

「さっき君自身が言ったんだぜ? 私の通う麗人学院で事件があったって。『男女共学殺人事件』。そのタイトルを知っているならてっきり、事件で高校生探偵が活躍したという話も知っているもんだとばかり」

「高校生探偵……」

 いきなり、ふわっと浮くような感じがあった。

 現実感がなくなるというか、今この瞬間が現実ではなく物語の出来事なのではないかと錯覚する感覚。

 『高校生探偵』という言葉には、それだけの圧力がある。

「高校生探偵っていうと……。体は子どもでも頭脳は大人だったり、じっちゃんの名に懸けるあれ?」

「そうそう。省エネ主義だったり小市民だったり、シリーズ早々に卒業しちゃったりお任せされたり、大々的にやったくせに安いパロディしかできなかったりJRPGになんか登場したり悲喜こもごも。ティーンエイジャーが主役の作品にとりあえず出しておけば決まる味の素みたいなあれさ」

 高校生探偵に恨みでもあるのか? 少なくとも肯定的な評価じゃなさそうだ。

「まるで漫画の世界の話ですね。フィクションと現実の区別がなくなりそうです」

「虚構と現実に区別なんてないさ。物語は作り物だが、それを作ったやつも見るやつも現実にいるんだから、その区別自体に意味がないと言える。それはさておき、高校生探偵をご所望なら私が手配してあげられる。君がそれを望むなら」

 まるで俺が本心では高校生探偵のご登場を願っていないかのようだが、先輩の高校生探偵観はさておき俺に助力を拒む理由はない。

「もっとも、私はその高校生探偵と面識はないんだがね。アオイがその子の面倒を見ているので、そのつながりで話を通せるというだけさ。だから依頼する機会を作ることはできても、私の方から助力するよう口添えはできない」

「ええ、分かってます」

 年中図書館引きこもりの読子先輩に根回しは期待していない。高校生探偵と会えるだけで十分だ。

 それにしても先輩の口ぶりだと、高校生探偵というやつは随分気難しい性格のようだ。事件があればすぐ首を突っ込むタイプではないのかもしれない。わざわざ先輩がああ言うってことは、俺が普通に話をしても乗り気になってくれない可能性があると踏んでいるわけだし。

 古今東西、探偵ってのは変人が多いからな。ま、もとより高校生探偵の存在は棚ぼたみたいなものだ。協力が得られないならそれはそれで。

「でも先輩の学校って女子校ですよね? そこに高校生探偵がいるんです?」

「ん? 女子校に高校生探偵はいても…………いやそもそも、女子校じゃないさ」

「でも、麗人女学院……」

「麗人学院。君、そういえばたまに間違えてたね」

 一文字違いが大違い、なのか?

「二年前に麗人学院は共学になったんだよ。いかんせんお嬢様学校のイメージが強い上に学校名も一文字だけしか変わっていないものだから、世間じゃ気づいてない人も多いがね」

 言って、読子先輩は机の上の資料を適当にペラペラめくった。

「ふむ……しかしあれだね。その轍さくらちゃんの事件ってのは私も興味があるかな。不可能犯罪……毒殺事件。そんなものがあれば私も覚えていそうなものなのだが」

「先輩、一度読んだ資料のことは忘れませんもんね。新聞の小さい広告すら覚えているくらいですし。でも一年くらい前の事件で警察が事件性なしと判断したものですから、新聞記事にもなってないんじゃないですか? それに現場のレストランは横浜じゃなくて東京ですし」

「そうか。なら聞き及んでいないということもあるかな。一応、後で調べておくか。そうそう、その高校生探偵にはちゃんとアオイ経由で話をつけておく。確か今日は午前中が忙しくて、午後から学校に用があると言っていたから、昼過ぎには会えるだろう」

「分かりました。それで、その高校生探偵ってどんなやつですか?」

「どんな……うん。アオイが言うにはだいぶ気難しいやつではある。その分能力は折り紙付きだ。今は二年生で、一年のころからいろいろ事件を解決して回っているようでね」

 先輩は、さらに続けた。

「麗人学院の高校生探偵タカオと聞けば、界隈ではちょっとした有名人なんだとさ」

 どの界隈だよ。

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