#5:知を知る者よ
横浜市埠頭区。麗人女学院をはじめとする横浜の名門学校が軒を連ねる、いわゆる学園都市がそれである。
ではなぜ、埠頭区がそのような特色を持つ地域となったのか。その理由が、区内にある図書館だ。
私立図書館、脳髄書館。
戦後の焼け野原に復興を謳い、大金持ちの頭脳髄家が建てた国内でも有数の図書館である。蔵書数がそこらの地方図書館とは比較にならないのはもちろんのこと。書籍のみならず漫画や音楽映画、はてはゲームまで取り揃えているというから驚きだ。
そして税金が投入されていない、頭脳髄家の私費で賄われる施設ながらすべてのサービスを無料で受けられる。そりゃあ、学校を建てるならこんな図書館の近くが良いに決まっている。脳髄書館のサービスを当て込んで多くの学校が近くに設立され、現在に至っている。
横浜市の住民が何かを調べようとしたら、ネットで検索するよりここを選ぶ。そんな場所だ。ここなら俺の求めるものも、見つかるかもしれない。
脳髄書館の建物としての規模は非常に巨大で広大だ。それでいて駅から図書館まで、図書館のロビーから各フロアまでの動線は整理されており初めて訪れる人間が下調べなしでも迷うことはないだろう。俺が入ったのは、一般的な図書館とおおむねその機能を同じくするフロアである。
朝早くとはいえあまりに暑かったここまでの行軍をいたわるように、適度に効いた冷房の空気に迎えられながら中に入る。
さすがに金のある施設だけあり、内部は常に新築のように綺麗で整理されている。床材はどういうものなのか知らないが、絨毯でもないのに足音を吸収し館内の静謐さを保っている。
入口傍に検索用のパソコンと自動貸出機、それから今週の新刊が並んでいる棚があった。新しく蔵書に加わった書籍は、ああやってしばらく棚に並べて存在を知らせているのだ。ま、人気の小説とかは入る前から貸し出し予約でいっぱいになるのだが。
新刊棚の隣は、ここで働く司書が考えているのか週替わりの特設コーナーとなっている。今並んでいるのは『映像化作品特集』と銘打たれ、アニメ化やドラマ化、映画化された作品たちだ。鉄板の特集だが、いつもは月初めが多いのに今週は月末にやるようだ。夏休みは読書感想文とか自由研究の特集もするから、その都合で普段より前倒しの企画運用なのかもしれない。
用件が用件なので特集コーナーであまり立ち止まるわけにはいかないが、入り口に目的に叶う本があるのにずっと館内で探し回ってましたでは滑稽すぎる。一応、一通りざっとは見ておくことにした。
映像化作品特集に置かれている本は、普段の特集より児童書の類が多いような気がした。どうしてか分からなかったが、夏休みの子どもたちを観客として当て込んだ映画の題材に使われているようだ。また長寿アニメシリーズの映画は、児童書やヤングアダルト向けレーベルで小説版が出ることもあり、そちらも並んでいる。
他には……猪村の言っていた『鳥籠の天使』も取り上げられている。作者の『がいはく』はこれ以外の作品をまだ出していないのか、同じ作者の他の書籍は見当たらない。
ふと、その隣に『殺人』の文字が躍る本があったので目線が動く。だがそれは『殺人トリック大全集』みたいな物騒で俺の目当てなものではなく、『サイゼリヤの殺人』なる普通の文庫本だった。サイゼリヤ? あの? 作者は北小路あいろという名前らしいが、まったく聞き覚えがない。こんなものも映像化する時代か……。
だがともかく、俺の目的……ミステリーのトリックについて書かれた本はないらしい。
館内のさらに中へ入る。さて、どうやって調べたものか。まずは蔵書検索用のパソコンに、それらしい言葉を打ち込んでみるしかないだろうか。
「『ドグラ・マグラ』で読書感想文を書く人間なんて本当にいたんですね」
「内容が多い分、ピーターラビットの絵本で書いていた小学生時代よりは楽でした」
ふと。
カウンターからか、小さい雑談の声が聞こえてきた。
「可愛げのない子どもというのはいつの時代にもいましてね。うちの高校でも『ドグラ・マグラ』だけじゃなく『黒死館殺人事件』『虚無への供物』を生徒三人が示し合わせたように出してたものだから、担当教師に泣きつかれまして」
「三大奇書ですか」
殺人事件?
奇書だのなんだのは知らないが、その中のひとつにミステリーがあったのが気になった。いや全部知らない作品だが、まさか殺人事件と銘打っていてミステリーじゃないなんてことはないだろう。奇書と言ってもさすがにそこまで気はてらってないはず。
検索機を動かしながら、耳はそちらに傾けた。会話をしているのは大人の男女らしい。よく分からない本の感想文を提出された教師に泣きつかれたのが男の方だ。口ぶりからして学校の先生か? じゃあ女の方が脳髄書館の司書か。
「三大奇書……ああ、そんな呼ばれ方もしてましたね。あれ、四大奇書では?」
男の方が問い質して女の方が答える。
「『匣の中の失楽』は後から加えられて四大奇書になったんです。他にも最近の作品で奇書だと評価されたり、自分から奇書を名乗るものもありますね。そのあたりは無視して構いませんが」
「ある小説を奇書と呼ぶのは評論家が目立ちたいから。自分の作品を奇書と呼ぶのは恥知らずの傲慢、と」
「そんなところです。……なんで奇書の話をしていたんでしたっけ?」
「お分かりの通り、教師に泣きつかれても困るわけです。僕も仕事ですから他人より多少本には詳しいですが、生徒の取り上げる本全部を、感想文の添削ができるほど詳しくはない」
「それで課題図書の設定を?」
「ええ。それに世間じゃ名門だのお嬢様学校だの言われているうちでも、本を読まない生徒は大勢いますからね。感想文はまず本選びに失敗すると格段に難易度が上がりますが、生徒は必ずしも適切な本を選べるわけではない。だからこちらから例示した方が課題としての質は上がるだろうと」
「なるほど」
「ところが今年の高校生向けの課題図書はどうも胡乱なものが多くて。横浜市がコンクール用に設定したものなんですが」
「読んだんですか?」
「仕事なので一応全部。感想文が書きづらそうなもの、内容がそもそも適当なものを弾いたら二冊くらいしか残らなくて。コンクールに出すのが目的なら文句があろうと先方が用意した課題図書を使うだけなんですけどね」
「では他の自治体がコンクール向けに用意した課題図書のリストをご用意しますね。そこから選んでみてはどうでしょう」
「ああそうか。そうですね。その手があった。いやはや、ひとりで根を詰めるとこんな簡単な解決策も浮かばないとは」
「分かりますよ」
俺の蔵書検索の成果が芳しくない一方、向こうの目的は着々と達成されているらしい。しかし、そうか。
別に俺がひとりで調べる必要もないな。もちろん、さくらの現状や扱っている問題の性質からして軽々に他人を頼っていいものではないが……。今俺が欲しているのはミステリーのトリックについて書かれた本だ。それを探すくらいなら他人を頼ったところでそう問題はない。
そうと決まれば、だ。
「すみません」
検索機を離れ、俺は会話をしている二人に向かっていった。
そこでようやく、二人を初めて視界に収めた。
カウンターの向こう側にいる女……司書はぽっちゃりとした体形の人だった。どこにでもいる、図書館の人という印象から抜け出すことのない人。別に図書館のスタッフに個性なんて求めてないからそれはどうでもいいのだが。
かたや男の方は、まるで幽鬼のようというか、亡霊のような存在感だった。気配が薄く、そのくせ負の情念に満ちている。細く痩せた体に猫背の姿勢、血色の悪い顔に目のクマがその男の不健康さを表している。話の内容から学校教師だろうと思ったが、はたして本当に教師か怪しくなってくる。
じゃあどんな職業ならこの外面に適しているかと言われると困るのだけど。
「ん?」
男の方は、俺が司書の女の方に用があると勘違いしてカウンターから一歩引いた。
「えっと、ミステリーのトリックについて書かれた本が知りたいんですが」
気にせず俺は男の方に話しかけたが、反応したのは司書の方だった。
「ミステリーのトリック、ですか?」
「ふむ……」
男の方は何やら思案気に腕を組んだ。司書の方が話を進める。
「そうですね。ミステリーについてまとめた辞典や百科のようなものはあるにはありますが……」
言い淀む。何か俺に貸し出せない理由でもあるのかと思ったが、司書の目の光り方はどうも、司書という立場を超えた主義主張を含んだ色を見せている。猪村が話に熱中するときのそれに似ている気がした。
「ネタバレにならない内容の本を渡せばいいのでは?」
先回りするように男の方が鷹揚に答える。こちらはそのネタバレが欲しいのに余計なことをしてくれる。
「この前の……そう、『有栖川有栖の密室大図鑑』とかは、まあまあネタバレも少ないでしょう。……あれ、どうだったかな?」
適当だなこの男も。
「いえ、俺が知りたいのは密室じゃなくて毒殺で」
「毒殺?」
ミステリーで毒殺に注目するのは珍しいのか、怪訝な顔をされてしまった。
「夏休みに自分で推理小説でも書くのかい? それとも論文?」
「どんな目的であれネタバレを軽々にはできませんよ」
司書の方が愚痴る。やっぱり仕事とは別のところでブレーキが働いていた。こうなると面倒だ。人に聞いたのがかえってあだになってしまったか。
目的を開示して、少しでも真面目に取り合ってもらうべきか? ここで「殺人事件の調査で」と言ってしまうとむしろ大事になってしまうか。それとなくアプローチを変えよう。
「じゃあ実際の事件を扱った本はありますか?」
「ルポルタージュならありますよ。毒殺……に限定すると中身を見ないと何とも言えませんが」
司書の人がマニアックモードから戻ってきた。
「実際の事件なら、『フキツ』先生の方が詳しいのでは?」
「……僕?」
誰だよフキツ先生ってと思ったが、この亡霊みたいな男のことだ。なるほど不吉ってわけか。まんまの綽名だが、教師のニックネームなんてそんなものだろう。
「いや僕も詳しくはないですよ。第一ルポなんてジャーナリスト気取りの記者が耳目を集めるためにあることないこと書いているだけじゃないですか」
「すごい偏見ですよそれ。確かに、事件直後の『緊急出版!』なんかはその傾向が強いですが。粘り強く取材されたルポルタージュは一時のニュースバリューのために報道されそのまま忘れられていた事件を思い出しながら、社会的な問題を理解するのに役立ちますし」
「そんなものですかねえ」
「先生はルポを読むまでもなく事件に詳しいから興味を持ちづらいかもしれませんね。それはさておき……」
司書が俺に向き直る。
「そういうことでしたら、ルポルタージュのある棚にご案内しましょうか」
「ああ、えっと」
どうしたものか。なんとなく話の流れで思い付きを切り出しただけだが、ルポを調べるというのは発想として悪くない。だが今いきなりルポにあたる性質の事件でもないんだよな、さくらパパの毒殺って。状況が冤罪とかその手のルポ向きの話題じゃなくて、どちらかというと二時間サスペンスのドラマ的展開だ。参考にするべきはフィクションなんじゃないかと思わせる。
「…………」
その様子を見て取ったらしい不吉先生が口を開く。
「まあ一度レファレンスを通して見たらいいんじゃないですか。ここで我々が適当を言うよりは」
さすがに教師ということか、それともそれっぽい考えていそうな言葉をただ喋っただけなのかは分からない。
「どうも目的が込み入ってそうですね。ルポを調べればはい終わりという気配ではない」
「そうですね。今、ちょうどレファレンスコーナーも準備が整って開く時間なので……」
なんか勝手に話が進んでいるが、全然分からないことがある。
「レファレンスってなんですか?」
「おっと。君は知らなかったのか」
二人がそこでようやく速度を緩めてくれた。脳髄書館のサービスのことなので、司書が説明してくれる。
「レファレンスとは、利用者の要望を聞いて館内の蔵書を探したりするサービスのことです。利用者と館内の資料を引き合わせる仲介役のようなものですね」
「……普通の司書がするんじゃ駄目なんですか? 現に今、俺はルポの棚に案内されるところでしたけど」
「レファレンスの担当者も私たちと同じ司書ではあるんですけどね。レファレンスのノウハウを持ったスタッフを脳髄書館では常駐させています。他の図書館でも、レファレンスは特定の司書が担当することが多いですね」
「何事も、サービスを十全に使いこなすのは高度な専門性がいるんだよ」
不吉先生が補足する。
「例えば僕たちが普段何気なく使っているスマホだって、人によっては電話一本ろくにかけられない。どころか使いこなした気になっている僕たちだって、普段やらないような作業をしようとすると途端にやり方が分からなくなる。図書館もそれと同じだ」
「本を探すだけのことが、ですか?」
「そう。現に君も目的の書籍が分からなかった。場所が単に分からないというだけじゃない。どんな本を探せば自分の目的を達成できるか分からなかった」
なるほど教師というのもあながち肩書だけじゃないらしい説明だった。
「普通の利用者さんは、図書館に置いてある新聞や雑誌のアーカイブを確認する方法も知らない場合が多いですからね」
司書が相槌を打つ。
「それに最近はオンラインのデータベースサービスに移行しているところも多くて、ご年配の方は特に分からないと」
「まあ、まだオンラインサービスが利用できるだけいいですよ。地方の図書館だとサービスの利用料を支払えなくて使えないケースも多いですから。大学ですらその調子なもので……」
言われてみれば、俺は「じゃあ脳髄書館で自分が生まれた日の新聞記事を探してこい」と命令されるとやり方がまったく分からない。普段から度々使っているから普通に本を探したり借りたりはできるが、それ以上となるとこうして行き詰るわけだ。
「レファレンス、今日は誰でしたっけ?」
「花実さんです。あ、ちょうどいいですね。小説に強い人です」
「あの人か……。まあ、身も蓋もないことを言ってしまえば、脳髄書館について一番詳しいのは他ならぬスポンサーの頭脳髄家になっちゃうんですけどね」
ん?
「そうですねえ。単にお金を出すだけでなく、あの人たちみんな本の虫ですから。頭脳髄なんて大仰な苗字がしっくりくる人たちです」
「そのくせ施設運営にはあまり口出しをしない。まったく理想的な職場ですね。僕も働きたいくらいだ」
「求人に応募しますか?」
「いや……今の職場もまあ悪くはないですよ」
脳髄書館のことを一番知っているのは頭脳髄家の人間。
仲介役……か。
ああそうだ。
なんで俺は、あの人を頼るという選択肢をすっかり思いつかなかったんだろう。こと本を探そうという要件なら、誰よりもあの人を頼るべきだったのだ。
「ありがとうございました! じゃあ」
「え? あれ」
俺はカウンターを離れた。
目的地は、この脳髄書館の地下だ。
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