#3:毒杯を仰げ
殺されるかもしれない。
子どもが死ねだの殺すだの、物騒な言葉を話すのはよくあることだ。実感と実態の伴わない空虚で勇ましいだけの発言。やっている感、というのとも違い、やる気もなければやる意味もない、なんとなくでしか喋らない子供らしい未熟な言葉。
しかし。
さくらの言葉にはそういう空っぽでスカスカな感じはまったくなかった。少なくとも、さくら自身は「殺されるかもしれない」という自分の直感を信じ切っているようだった。
「えっと」
少し面食らい、ようやく再起動する。
「殺されるって、誰に? パパに」
「パパは、もういなくて……」
「ああそうだった」
混乱して直前の話が抜け落ちている。確認しよう。
「パパがママに殺された。そう言ったな?」
「……」
彼女は首を縦に振る。
「それで君も殺されるかもしれない、と」
「うん、それで、家にいられなくて」
なるほど。
詳細はまだ全然分からないが、理屈は理解した。そりゃ、パパをママが殺したのなら家にはいられないよな。理由はさておき家族を殺したのだ。その狂気が今度は自分に向くかもしれないという危惧は杞憂じゃない。
犯罪者は更生なんてしない。それが俺の持論だ。
通常の人間が持つブレーキが犯罪者は壊れている。違法行為を犯したことで、ルールをないがしろにするという選択肢が自分の中に『取りうる手段』として常に生まれるようになるからだ。人を殺すことで問題を解決したやつは、それができてしまうことを知り、次また問題に直面したとき、その選択肢を意識し続ける。
異常だ。
サッカーの試合にボールを手で持って動いていいと考えるやつが混じり続けているのと同じだ。そんな馬鹿と一緒にスポーツはできない。どの歴史をどう紐解いたら、サッカーボールを手で持つというのだ。
「しかし、殺したっていったい……」
状況は把握できた。ここからは解きほぐすフェーズだ。
パパをママが殺した。この内実を知る必要がある。
「……いや、知っても、だが……」
とはいえ、本当に内実を知る必要があるかは怪しいところもある。あくまでさくらの問題は「ママに殺されるかもしれない」という恐怖の部分だ。そこをなんとかできるなら、パパ殺しの詳細を知る必要はない。
「殺したって言うのなら、警察には相談したのか?」
「えっと…………うん。警察には通報したよ。でも、なんだっけ、事件性が」
「事件性がない?」
「そう。そう言われて、ママは逮捕されなかった」
裏返せば、一度は警察が入る程度の状態だったというわけだ。むしろ厄介。最初から事件が隠蔽されているのなら警察へ通報し信じてもらえればそれでよかったが……。
警察は一度自分たちが決めた結論を簡単に翻さない。面子の問題だ。しかも相手はヤクザな神奈川県警と来ている。
加えて。
「じゃあ、俺が警察に連絡するのをさくらが嫌がったのも」
「警察に通報されると、あたしはママに渡されちゃう。警察の人は、ママが人殺しだって知らないから」
同じことは児童相談所でも支援団体でも言える。今のさくらは大人連中から見れば「パパの死で混乱しママを犯人扱いしてしまっている困った子ども」でしかない。なにせ警察が事件性のなさを証明してしまっている。普通に大人を頼ると、ママの元へ一直線だ。精神状態の不安定な娘に疑われながら面倒を見るママに同情すらしかねない。
結局。
取れる手段はひとつだけ、か。
「じゃあ、そのパパ殺しの事件ってのを、俺に教えてくれないかな」
「え?」
大きな瞳をきょとんとさせて、さくらが聞き返す。
「それって、でも……」
「さくらの問題を解決するには、パパ殺しの真相を暴くしかない。だから事件の詳細を知りたいんだ」
「でも、あたしの勘違いかもしれないし……」
「そう言い聞かせても、ママが人殺しかもしれないって思いながら暮らせないだろう? だから飛び出してきたんだ」
さくらは目を伏せた。
「信じてくれる?」
「もちろん。ただ、信じるってのは無根拠にさくらの話を肯定するって意味じゃない」
信頼とは思考停止とは違う。
「さくらの思う通り、本当にママがパパを殺したのならきちんと警察に伝えて逮捕してもらおう。さくらの勘違いでママが殺していないのなら、それを知ってさくらは安心できるだろう?」
「……うん、ありがとう」
そしてさくらは語り出した。
轍家の仲を引き裂いた、ある毒殺事件について。
轍さくらの両親はレストランを経営している。
小規模ながら東京の一等地に店を構えているというのだから、それなりに評判はいいはずだ。事件の舞台となったのはその店、レストラン『レオーネ』である。
「レオーネ?」
「イタリアンレストラン」
レオーネがどういう意味で、イタリア系の単語なのかもさっぱり分からない。一介の高校生に英語以外の外国語は荷が重い。とはいえレストランの名前なんてさして意味のあることじゃない。
事件が起きたのは去年の八月。ちょうど、レストランの開店記念日の週だったという。開店記念日当日は客を入れていろいろやったが、その週の一日を臨時休業にして従業員とその家族だけでパーティを開いたのだ。
小さいレストランとはいえ、店を回すには相応のスタッフが必要だ。彼らの家族を合わせればパーティの参加者はまあまあな数に上るだろう。
さくらの両親は無論のこと、さくら自身もそのパーティに参加していた。自分たちの店で、自分たちの厨房で料理を作って行われるささやかな立食パーティ。なごやかに進行し、次の一年に向けてスタッフ同士の団結を促す催し。
そうなるはずだった。
さくらは適当に料理をつまみながら、従業員が連れてきた同年代の子どもたちと話していたという。
「料理はどんなものが出てたんだ?」
毒殺事件、というのだから、料理のラインナップは重要な要素に見えた。一年前でも、事件の根幹なのだからさくらは覚えているだろう。
ところが。
「えっと……」
予想に反し、さくらは考えるようにしばらく沈黙してから言葉を発した。
「アンティパストはあったでしょ。ピアットも出てて……。デザートはまだだったかな」
「え、あー、ちょっとタイム」
まったく知らない単語が出てきた。
「アンティパスト?」
「オードブルみたいなもの。前菜」
イタリア料理におけるスタイルのひとつらしい。立食形式に出されるものを厳密にそう呼べるのかは分からないが、さすがにイタリアンレストランの経営者の娘だけあって、そういう語彙が先行するらしい。
「何があったかは忘れちゃったけど……。でもそんな珍しいものじゃなかったから、塩漬け肉とか、チーズとか、キノコとか、アンチョビとかかな?」
「じゃあピアットってのは」
「ごはんとかパスタとかの炭水化物系の料理。こっちも記憶にはないから……たぶんリゾットとかそういう、普通のものが出てたと思う」
毒殺事件なのになんで料理に対する記憶がこんなに薄いんだ。
さくらは俺の顔を見て、少し首をひねる。
「あと肉料理と魚料理が……。こっちは覚えてる! 肉料理が牛肉を薄く切ったタリアータ、魚料理がポルポアッフォガード!」
「ぽ……え?」
「タコの溺れ煮って言うんだって」
イタリア料理なんて縁がないから全部の名前に振り回されてしまう。
「で、その料理のどれに毒が入ってたんだ?」
「ううん」
そこでさくらは俺の言葉を否定した。
「パパが死んだのは、料理のせいじゃないの」
「と、すると……」
「たぶん、ワイン」
さくらはパパが毒を飲んだ場面を、直接見たわけではなかったらしい。そして料理の方の記憶が曖昧なのは、事件の核が食料ではなく飲料にあったからだ。
さくらが友達と話しているとき、グラスが床に落ちる音がした。
からーんと。
事件の凄惨さを思えばあまりに軽々しい火蓋の切られ方に、さくらはその音をよく覚えているという。
よく割れなかったものだ。最近のガラスは結構頑丈ではあるが、床が適度に柔らかい素材だったのか、絨毯でも敷いていたのだろう。
あるいはガラス製じゃない? プラスチックだったとか。そっちの方が妥当な推測だろうな。
立食形式の込み入ったパーティなら、食器類を取り落とすことは十分ありうる。だからその音を聞いたときは誰も注目しなかった。しかし次に、どさりと、人の体が床に倒れる音を聞いて事態が一変する。
さくらのパパが突如、倒れたのである。
最初はめまいでも起こしたのかと思って心配しながらも朗らかに近づいた従業員の大人たちだったが、すぐに様子がおかしいのに気づき救急車を呼んだ。そこはさすがにレストランのスタッフだけあり、パパの容体から何が起きたのかをおおよそ推測できたという。
急性アルコール中毒。
いわばワインの急速な飲みすぎである。
「でも、変なんだよ、おにーちゃん」
この事件の異常性を、さくらは強調する。
「パパはね、ワインをそんなに飲んでないはずなんだよ」
「飲んでないって……。実際、アルコール中毒だったんだろ?」
「それは……うん。警察の人もそう言ってたし」
ゆえに事件性はないという判断だったと。事件性がないというか、表向きの容体からアル中と決め打って処理しただけにも見える。ただともかく、警察が事件をおざなりに処理して現状の面倒くささを増やしている理由は分かった。
「スタッフの人たちもね、パパはそんなに飲んでなかったって。お酒にも弱くはないはずだし」
スタッフの主観は信用できるだろうか。だが大の大人が何人もそう語るなら、今は疑っても仕方ないだろう。少なくとも、パパの飲酒態度にアル中を発生させる問題はなかったはずだ。
「それにね、パパとママはパーティの主催者だよ?」
「…………」
「だから、酔っ払ってふらふらになるほど飲むはずがないんだよ。まったく飲まないとスタッフの人たちが気を遣っちゃうかもだから、多少は飲むけど……」
「ああ、付き合いで飲む程度には抑えていたはずだと」
それならパパの飲み方にアル中を発生させるほどの不自然さはなかった、と考えるのが筋だ。
だが実際は警察が判断したように、急性アルコール中毒である。酒も提供するレストランのスタッフも……つまりアルコールで正体不明になった客を介護した経験が何度かあるはずの人たちも、おそらくそうだろうと判断している。
「アルコール中毒を引き起こす毒、か……」
不思議なこともあるものだ。ミステリーらしくなってきた。
「そのワインに不自然なところはなかったのか?」
「ない、と思う。警察の人、あんまり調べてくれなかったから。でも同じワインを他の人も飲んでるはずだし」
「ふむ……」
「グラスもね、たぶんおかしいところはなかったよ。見た目に違いはなかった。後であたしが確認したもん」
ママを毒殺の犯人と疑うなら、当然の調査だ。しかしさくらの知恵では、パパにだけ毒を盛る方法は分からない。そもそも毒を盛って、パパの死因が急性アルコール中毒になるというのもさっぱり分からない。
今は殺害方法から詰めるのは難しい、か。
「さくらは、どうしてママがパパを殺したと思うんだ?」
そこを聞くことにした。
「今までの話を聞く感じ、確かにパパの死に不自然なところは多い。でもママが殺したって疑う要素は出てきてないみたいだが」
「それは…………」
やはり家族を糾弾するのは、抵抗があるらしい。少し沈黙してから、さくらがようやく言葉を絞り出す。
「パパは、浮気してたみたいで」
うわーお。
そりゃ沈黙も長い。三日も事情を話さないわけだ。詳しく語れば「ママが人を殺したかも」だけじゃなくて「パパが浮気してたかも」まで言わないといけないんだから。
明らかに不自然な状況を事件性なしと判断する警察といい、大人がまったく役に立たないご時世だこと。
「じゃあ、浮気を恨みに思ったママが殺したかもって、さくらは思ったんだな」
「……」
こくりと、首を縦に振る。
これでおおよその事情は把握できた。
ママがパパを殺したかもしれず、警察は一度事件ではないと判断を下してしまった。
あくまでさくらが疑心暗鬼というだけなら、そこをほぐして説得すれば家に帰すことはできた。だが話を聞く限り、これはちょっと難しい。
おためごかしの「ママがパパを殺すはずないじゃないか」では通らない。両親を疑うというのはそれほど重いことだし、その疑惑をさくらは一年近く貯め込んでいたのだ。
問題を解決するには、この毒殺事件を解き明かすしかない。
「おにーちゃん」
心配そうに、さくらが俺の顔を見る。不安からか、テーブルの上に置かれた手はもぞもぞと益体なく虚空を探っている。その瞳には涙が溜まっていて、ともすると流れそうであった。
「あたし、どうしたら……」
「大丈夫だ」
さくらの手を握る。
「要するに、パパの死の真相が分かればいいんだろ? ママが本当に殺したのか、真犯人がいるのか。そこさえ分かれば、動きようはある」
「でも、警察が動いてくれないんじゃ……」
「だから、俺が何とかするって」
「おにーちゃんは、探偵なの?」
「いや」
ここで嘘でも「そうだ」と肯定するのは簡単だ。難事件を解決する探偵なんてこの世にはいないが、小学生のさくらにとって現状を打破する分かりやすいヒーロー像が探偵だというのなら、そう名乗って安心させるのは手段としてアリだ。
でも、俺はそうしなかった。
「探偵じゃないと真実を解き明かしちゃいけないなんてルールはないからな」
本当は自信がなかったからかもしれない。
それでも、俺が彼女を救うと覚悟したのはさくらを保護した三日前の時点で既に、だ。
やってやるとも。
探偵じゃなくたってな。
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