第28話 外歩き
気がつけば、寒さも和らいで春になっていました。僕がここに来てから一年が経ちます。
お嬢様もすっかり良くなったので、外に出てみようかと思います。と言っても蔵の周りだけで、なにがあるわけでもありませんが。
手を引いて、蔵の扉から一歩踏み出します。
「あら、空気がぜんぜん違うのね! それに匂いも……」
入り口の敷石の上に立って、お嬢様は深呼吸しています。
「若草の匂いですね。もう少ししたら花も咲き始めますよ」
「空気があちこち揺れているわ」
「蔵の中はあんまり風も感じられませんから」
「そう、これが風っていうの。なかなか気持ちがいいわ」
今度は指先から杖を伸ばして微かに震わせます。音の波を出して周囲を探っているのでしょう。
「周りでなにかたくさん揺れてるわ」
「草ですよ。まだ短いですけど、夏にはお嬢様の背丈くらいまで延びてきますよ」
「へ〜、それは生きているから?」
「ええ、そうですね」
「こんなにたくさん命があるの?」
「まあ、命といえば命なんですかねえ」
「このずっと向こうにメイドさんたちがいるのね。そこまでは音が届かないみたい」
「かなり遠いですからね。大きな声でも届きませんよ」
「あら、こっちのほうになにか大きな命を感じるわ」
「そっちは蔵の裏側で塀が続いていて、その向こうに木が生えてるんです」
「その枝が屋根まで届いてるの?」
「そうです。また葉っぱが茂ってきたら天窓を塞いじゃうので切らなくちゃならないですね」
「この上には、なにもないみたいだけど……」
「上は空です」
「空ってどこまで続いてるの?」
「さあ、どこまでなんでしょう? とにかくずっとずっと上まで果てがないくらいです」
「ほかにはなにがある?」
「ええと、空には雲がかかっていてちょっとどんよりしています。雲の上には太陽があるはずです」
「太陽って熱を出してる玉みたいなものよね。どのくらいの大きさなのかしら?」
「ええと、指で丸を作ったくらいの大きさかな……。でもすごく遠くの空の中にあるから、ほんとはもっとずっと大きいのかも知れないですね」
「ふ〜ん……。あとはなにかある?」
「ここから見えるのはそのくらいですねえ。あ、下には地面があります」
「この足の下の石が広がってるの?」
「あ、そうじゃなくて、ここは蔵の入り口の敷石なので、地面というのは土が固まってるんです」
「へ〜、そこに行ってみたいわ」
「もう二、三歩先ですけど、土の上に小さな石ころが転がってるので裸足じゃ歩けませんよ」
「そうなの?」
「靴を履かないと危ないです」
「それは残念だわ」
「ちょっとメイドさんになにかないか訊いてみますので、それまで待ってください」
「わかったわ」
「あ、そうだ、ここに椅子を持ってきますので、しばらく座ってましょうか」
「ええ、そうね、そうするわ」
一時間くらい蔵の前に座って外の様子を感じていました。
風が肌を撫でる感覚、草が風になびく音、土ぼこりの匂い。そんな何気ない小さなことも、お嬢様には初めての体験なので、とても敏感になっていて時折ビクッとしたり……。それでも少しずつ体に馴染ませるように外の気配を味わっていました。
蔵に戻ると、ほっとしたように寝台に横になりました。
「疲れましたか?」
「少しね」
「ちょっと恐かったしね」
「先がどこまであるのか分からないと、すごく不安ね」
「ほんとに……想像はしていたけれど……」
「底なし沼って、ああいう感じなのかしら」
「ああ、そうかも知れないわねえ」
「とても一人じゃ出られないわね」
「アルが横にいなかったら、すぐに戻ったわ」
「僕はいつでもお嬢様の側にいますよ」
「お願いね」
「今度は地面も歩いてみたいしね」
「少しずつ慣れていきましょう。もう少し気候がよくなってくると気持ちいいですよ」
「風はちょっと冷たかったわね」
「あ、もう少し厚着した方がよかったかな?」
「ううん、寒いわけじゃないから」
「中よりも空気がいろんな方向に動くせいね」
「止まっていることがないのね」
「音もけっこううるさかったし」
「そうねえ、ずっとざわざわしてたわね、遠くも近くも」
「あれも疲れた原因のひとつかも」
僕には気付かないようなことがお嬢様には負担に感じるのかも知れません。
それからお嬢様はぐっすりと寝入ってしまい、夕食の時間を少し遅くしたほどです。
以前にメイド長さんにお嬢様の寝巻きや下履きの換えがないか相談したことがあり、その時はお屋敷のライザお嬢様のお古を手に入れてくれました。
今度は靴について訊いてみようと思います。
行商の人に訊いた時は、中古品で銀貨15枚くらいとのことでしたが、まだそんなに溜まってないし、今度来るのは何ヶ月もさきのことです。なので、ひとまずはサイズもぴったりでなくてもいいし、メイドさんの誰かのお古でもかまいません。
「メイド長さん、ちょっといいですか?」
「なんだいアル」
「実はお嬢様のことで……」
「え、ああ……うん、なんだい?」
「お嬢様が履けるような靴ってないでしょうか? 古いものでいいんですけど」
「靴? ミーアお嬢様の?」
近くにいた他のメイドさんたちも、お嬢様のこととなるとヒッと肩をすくめます。どうも未だにお嬢様については触れてはいけないというような雰囲気があります。僕もつい小声になってしまいます。
「ええ、ちょっと外に出てみようかと思って」
「外にって、蔵の外に? お嬢様が? 出られるのかい?」
メイド長さんもヒソヒソ声です。他のメイドさんたちはじわじわと離れて背を向けていました。
「もう普通に歩けますよ。目が見えないので側についててあげなくちゃいけませんけど」
「……はあ、そうかい……外を歩けるのかい……。それで靴ねえ、わかったよ探してみるよ」
そこにルネさんがおずおずと近寄ってきました。
「ねえ……私の小さくて履けなくなった靴ならあるんだけど……」
「え、ほんとですか?」
「これのもうひと回り小さいくらい」
そう言って今履いている編み上げブーツを見せてくれます。
「ああ、大丈夫そうです」
「けっこう履き古したのだけど、穴とか開いてないから」
「もしよければ、ぜひお願いします」
「うん、アルくんには耳飾りもらったしね。それでお礼になるんだったら……」
「ええ充分ですよ。あの耳飾りを作るのにもお嬢様が手伝ってくれましたしね」
「へ〜そうだったの! ありがとうございましたって伝えておいて」
「はい。あれ、今日はあの耳飾りつけてないんですね?」
「うん、仕事中はダメなんだって……。あ、他にも欲しいって子がいるんだけど、どうかな?」
「いいですけど、どんな石がいいのか分かんないですよ」
「みんな気に入った石を集めてるの。ちょっと上に行けばけっこう落ちてるでしょ? お使いのついでに宝石拾いしたりして。いつかアクセサリーにしようって」
「なんだい、あんたたちそんなことしてたのかい」
「あっ、あわわわ」
メイド長さんに睨まれてルネさんがごまかすようにバタバタ手を振ります。
「まったくしょうがない子たちだよ、そんなものつけていくところもないってのに、まったく」
「え〜、持ってるだけでも嬉しいんですよ〜。メイド長だって服の中にネックレスしてるじゃないですかあ」
「な、なんで……。あれはだね、大切なお守りみたいなもんだから、こう、肌身離さずだね」
「ふ〜ん……」
「あ、あの、もしそういう石があるなら、僕でよかったら作りますのでその人に言っておいてください」
「分かった、ありがとアルくん! みんな喜ぶよ」
「み、みんな?」
「じゃ、私の古い靴、明日にでも持ってくるね。もし合わなかったら他の子にも訊いてみるから」
「はい、よろしくお願いします」
ルネさんは、お嬢様用の小さな靴といっしょに僕用の靴も持ってきてくれました。
「ほら、アルくんの靴もずいぶんボロボロだからさ、厨房のダンさんからお古をもらってきたよ。ま、どっちも古ぼけてるけどね。あと、靴下も必要でしょ? これ使って」
「わ〜、いろいろありがとうございます! 頑丈そうですごく嬉しいです」
「その代わり、さっそくアンナさんとエミリアさんもアクセサリーを作って欲しいんだって」
ピンクと緑の宝石を手に乗せて見せます。淡いピンクの石はローズクオーツでしょうか。水晶の欠片のように角張っています。もうひとつはヒスイのようで、やや透明感のある薄緑色。表面がきれいに丸く磨かれています。どちらも落ちていたにしてはけっこう大粒です。
「アンナさんはこのピンクのを首飾りにしたいんだって。エミリアさんは緑の指輪がいいんだって。どうかな、できそう?」
「う〜ん、それだけじゃどういうのがいいのか分かんないですね。あと首飾りとか指輪とかの金具をどうしたらいいのか……あ、なにか見本のようなものないでしょうか?」
「あ〜そうだよね、ちゃんと聞いとかないと、やり直しができないもんね。うん、もっとしっかり聞いてくる。見本もあれば借りてくる」
「はい、お願いします」
「で、銀貨二枚でもいいかって」
「え、銀貨?」
「うん、作り賃として」
「いえいえ、そんなのいりませんよ。靴ももらうんだし」
「え〜せっかくだからもらえばいいのに」
「いえ、いいですって」
「そっか、そう伝えとくね」
それから夜の仕事終わりに、厨房の片隅を借りて何度かルネさんやアンナさんやエミリアさんと相談をしました。
ピンクの首飾りは涙型にして長さはこのくらい。緑の指輪は楕円形でサイズはこのくらい。見本に借りてきた誰かのネックレスと指輪で金具の作りも分かりました。
宝石を指定通りの形に整えるのは特に難しくはありませんが、金具作りの方が大変そうです。お嬢様の腕というところです。髪の毛にプラチナを混ぜて編んだものを首飾りの紐にしたり、銀とアルミニウムを混ぜて指輪のリングを作ったり。あれこれ試行錯誤していましたが、それもけっこう楽しそうでした。
出来たものをアンナさんとエミリアさんに見せると、すごく喜んでくれました。
「わ〜素敵! こんなの王都にも売ってないと思うわ!」
「石を眺めてるのとは全然違うわね。輝きがまして見えるわ!」
そう言って二人ともぐいぐい銀貨を押し付けてきます。
「こんなのタダでもらえないわ。その代わりまたいい石があったらお願い! ねっ」
結局、合わせて銀貨四枚をいただいてしまいました。逆に申し訳ない気持ちです。これはお嬢様の仕事賃として取って置くことにします。
もらった靴ですが、どちらもちょっと大きめでした。靴下を履いてもかなりぶかぶかなので、中に布きれを詰めて履くことにします。
靴を履いて蔵の外に出てみました。お嬢様が初めて踏んだ地面がじゃりっと音を立てます。
足下を感知するために足首に付けていた金属の輪は、靴を履く時に邪魔になるので、取り外して靴の外側に付けられるように作り替えています。
「へ〜これが土の地面なのね」
「やはり感触が違いますか?」
「そうね。でも靴を履いてるせいもあるかも。まだちょっと慣れないわ」
そう言いながら二歩三歩と踏み出します。ちょっと重そうに靴を引きずるような歩き方です。
「あら、なにかにぶつかった?」
「小石をつま先で蹴飛ばしたんです」
「あら、まずかったかしら」
「いいえ、誰でもよくあることなので気にしなくてもいいですよ」
「そうなの。でももう少し気をつけながら歩いたほうがいいわね」
「なら、足首の輪をもっとぴったりにしたらどうでしょう」
「そうね、そのほうがいいかも」
いったん敷石の上に戻って、椅子に座り靴を脱がせます。足輪を足首に通してサイズを縮めてから、また靴を履かせます。
編み上げブーツなので、まだ一人では上手く履けません。
「靴を履くのも大変なのね」
「すぐ慣れますよ」
「もっと簡単な靴ってないのかしら?」
「ああ、そう言えばサンダルというのがありますね。底の革を革ひもで足にくくりつける感じの靴ですけど」
「それはなかったの?」
「う〜ん気付きませんでした。でも材料さえあれば作れそうですけどね」
「そう?」
「材料を探してみますね」
「革じゃなくて金属で作ったらどうかしら」
「それはちょっと足が痛そうですけど。はいできました、これでどうでしょう?」
「ええ、さっきよりはいいかも」
そんなふうに前に右に左に、十歩ほど進んでは戻りしながら外を歩くことに慣れていきました。
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