第26話 本の世界


 アンナさんに借りた本を開いてみました。

 最初の頁には、58種類の記号が縦横に並んでいます。記号の形は、丸の中に線が縦横斜めの角度で何本か引かれていたり、直線ではなく曲線だったり、線の代わりに小さな丸が並んだり、外側の丸が半分だったりと様々です。これが言葉の音を表すようです。

 次の頁からは、簡単な絵が描いてありその横に文字が並んでいます。木や葉っぱや果物や動物や手足目鼻頭などの人の部分だったり。それを文字で書いたものなのでしょう。この辺りには果物も生らないし動物もほとんどいないので、僕の知らないものも多いです。ちゃんと読めるようになるのかちょっと不安になってきました。


 この本は今まで何人も使ってきたみたいで、破れたり掠れたりしているところもあります。そっとめくらないと綴じてある糸がほどけてバラバラになりそうです。慎重に扱わないといけません。それに、ずっと借りているわけにもいかないので、この内容をそのまま石に刻むことにしました。蔵の壁がちょうどよさそうです。


 まず階段の向かいの壁を広く使えるように、積み上げてある箱やなにかを移動しました。そこにチタンナイフで本のとおりの記号を彫っていきます。彫りながら文字の形を覚えます。絵と言葉も同じようにして壁に刻みます。分からないものもとりあえずそっくりに彫っておいて、あとでルネさんやアンナさんに教えてもらうことにします。

 チタンナイフで壁を刻むのはぜんぜん苦労しないのですが、失敗するとやり直すことができません。線の長さや傾きなんかを正確に彫らないと、違う字と見分けがつかなくなってしまいます。一日二時間くらいずつ、十二頁分を写すのに一ヶ月近く掛かってしまいました。


 石壁に刻んだことで、お嬢様も手で触れば文字の形が分かるようになりました。僕が彫ったあとからどんどん文字を覚えてしまいます。


「ここの線は少し丸から飛び出しているのね」

「この字とこの字は似ているわね」

「でも小さな丸の並び方が違うから間違うこともないでしょ」


 幽体のお嬢様は触ることができなくても、体のお嬢様が触って覚えるとちゃんと伝わるみたいです。


「この絵はなにかしら?」

「それは耳ですね」

「だからこの文字が二つ並んでるのね」

「ということは、この絵はユミと読むの? ユミってなに?」

「ええと、矢を飛ばす道具ですね。ここに矢の絵もありますよ、先が尖った細い棒を飛ばして遠くのものに刺すんです」

「なにに使うの?」

「動物を仕留めたり、町の警備兵も持っていて逃げ出す人を捕まえる時に使ったりしてるみたいです」

「人間にも使うの? 危ないわね」

「そういう武器ですから」

「ふ〜ん。ま、とりあえずユミは覚えたわ」


 そんなふうにどんどん文字を覚えていき、全部写し終わる頃には絵と言葉の文字の対比はほぼできていました。僕もなんとか……。


 本を返しに行くと、今度はルネさんが別の本を貸してくれました。


「アルくん、もう字を読めるようになった? じゃあ今度はこれを貸してあげるね」


 以前に言っていた物語の本だそうです。文字の教本とは違って、何十頁もある分厚い本です。開いてみると小さな文字がずらずらと並んでいます。ぱっと見た感じ、知らない言葉が多くて不安になります。


「うわ〜、こんなの読めるかな」

「細かいところは分からなくても大丈夫。ほら、ところどころ挿し絵もあるでしょ。だからなんとなく分かるよ」

「へ〜絵もあるですね。細かくてきれいな絵だなあ」

「そうでしょ、有名な絵師さんが描いてるんだって」

「絵師? そういう仕事の人もいるんですか?」

「うん。この物語を書いたのもフランチェスカ・マクナリーという物語作家。絵師はサミュエル・トランドっていうの。ほらここに名前が書いてあるでしょう」

「名字があるということは貴族の方なんですか?」

「たぶん、そのはず」

「へ〜」

「王都にはいろんな仕事の人がいるらしいよ」

「王都、ですか?」

「この国でいちばん大きな町。ここの何十倍も人が住んでて家もたくさんあってすごくきれいなんだって。ああ一度でいいから言ってみたいな〜」

「何十倍も? ちょっと想像がつかないです」

「この本を読んだら、ちょっとだけ雰囲気が分かるよ。王都を舞台にした騎士と庶民の女の子の恋物語だから」

「そういう町があるんですね。ほんとに知らない世界だな」

「そうそう! だから余計に憧れちゃうのよね!」

「お嬢様も楽しんでくれるといいな」


 そう言うとルネさんが一瞬ビクッとして息を止めました。


「そ、そ、そうね。じゃ、じゃあわたし仕事に戻んなくちゃ!」


 あわてて調理場の中に入っていきました。なんだかまだ以前の印象が抜けていないみたいです。もうすっかり体も見た目も回復してるのに……。



 そうしてお嬢様に物語を読んで聞かせる時間が日課に加わりました。


「こ、の、ま、ち、で、は、だ、れ、も、が、あ、わ、た、た、い、し、く、じ、か、ん、に、お、わ、れ、て、く、ら、し、て、い、る」

「あわたたいしく、じゃなくて、そこは、あわただしくじゃないかしら?」

「あ、そうか。あわただしく時間に追われて暮らしている、ですね」


 まず一文字ずつ声に出して読んでから、言葉と意味をつなげていきます。つっかえつっかえ読んでは、意味が通じないところはお嬢様が推理したり。それでもなんのことを言っているのか分からない箇所がいくつも出てきます。


「まどうぐやってなにかしら?」

「う〜ん、なんでしょうね? このティナという女の子が働いている場所のようですけど」

「この子にはまりょくが多いっていうのも分からないわね」

「なにか特別な才能みたいな感じもしますけど」

「そうね。まあもう少し読み進めてみましょう。そのうち分かってくるかも知れないわ」


 そんな感じで、知らないこと分からないことがどんどん増えていきます。ルネさんが言ってたようなわくわくする気持ちはなかなか湧いてきません。謎だらけです。

 挿し絵を見て、もしかするとあの言葉はこれのことかなと思うこともあります。どんな絵なのか、何が描かれているのかをお嬢様に説明するのも、また一苦労です。


 それでも文字を読む練習と割り切って読み進めていきます。

 だんだんと文字のかたまりが言葉として頭に入ってくるようになりました。


「ティナは、今までこのような男を見たことがなかった。美しい、としか言い様がない。しかも精悍な男らしさも備えている。呼吸も忘れて見惚れてしまった」

「あら、また新しい人が出てきたわね」

「こんなにいろいろな人がいるとわけがわからなくなりそう」

「王都ではこれが普通なのかしらね」

「どうでしょう。ここの何十倍もの人が暮らしてるそうですよ」

「千人とか二千人とか?」

「さあ……」

「よく気疲れしないわねえ」

「ほんとね。それにみんなすごく忙しそうだし」

「ですよねえ。でもまあ作り話ですから」

「想像がなかなか追いつかないわね」

「とりあえずどんどん読んでちょうだい」


 半月ほど掛けて最後まで読み終えました。

 ティナという平民の女の子がレオナードという騎士と出会いお互いに心惹かれていくのだけれど、身分の差やすれ違いや横やりなどがあってなかなか仲が進展しないというのが物語の大筋のようです。

 ルネさんによれば、じれったい二人の恋模様がいいらしいのですが、僕にはよく分かりません。

 王都の様子やそこに住むいろいろな人の暮らしが事細かく描かれていて、そちらの方が興味をそそられました。知らないこと、分からないことばかりで、夢のように謎めいています。


 文字が読めるというのは「ここではないどこか、今ではないいつか」に心を飛ばせるんだなと、それが身にしみて分かりました。


「もっといろいろな本を読んでみたいわね」


 僕もまったく同感です。

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