【01】2

 朝霞がBLに目覚めたのは、小学生のときだった。たまたま姉の本棚を探っていて、その漫画を見つけた。最初は、気持ち悪いなと思った。気持ち悪いなと思いながら読んで、後日、またこっそり、読み返した。それをなんべんか、繰り返した。

 中学生になる頃には、インターネットの小説でヌくようになっていた。男の人が、男の人に。いや、興奮したのはそこにではなく、女性がこんないやらしいものを書いている事実を想像して、果てたのだ。鬱屈した性欲の掃き溜め。少女漫画的な展開。リアルさのかけらもない、やり取り。漫画脳、という言葉はまだ当時なかったが、現実の恋愛を知らないからこその偏った物語は、可哀想で気味悪くて、それが朝霞には変に居心地がよかった。自分を大嫌いだったからかもしれない。

 朝霞は昔から、自分のことが大嫌いだった。日本人であることが。男であることが。思考を持つ生き物であることが。

 だから、それを滅茶苦茶にしてくれる世界を好んだ。スプラッタやホラーも好きだった。アニメもゲームも好きになった。だが長続きした趣味は、BLを読むことだけだった。女性であることを嫌悪するからこそ、男性しか出てこないBLを書いている部分のある作品が、朝霞は好きだった。

 だから、BLを取り扱う出版社に入った。最初はアルバイトだったが、そのうち正社員にしてもらえた。校正の資格を取り、編集者として必要な知識や経験を身につけた。男でBLを扱うのは珍しいことであるらしく、周りにはよくからかわれたり、変な期待をされたりした。

「食べることは生きることだから」

 どこかで書いたようなことを多能は口にする。次回作のプロットは少しグロテスクで、またこの人は万人受けするようなものを書かないのだなと朝霞は思う。編集者としては、勿論多く売れる作品を世に送り出すのが責務だが、多能の作品をただ読んでみたいと強く感じているから、基本の部分は変えずに濡れ場だけを増やして、打ち合わせは終了する。多能にはコアなファンが多くついている。だから、売れないこともない。

「あんまりエロくないと、BLじゃなくて文芸になっちゃうからなあ」

 出版社に戻り、上席に進捗を報告する。多様性の当然になってきた昨今、純文学の文芸賞にも同性同士のなんやかやの作品は増えてきた。それを上司は懸念する。

 ギャグで、ラフで、ラブ。それが朝霞のレーベルのモットーだった。多能の書くような落ち着いた文体は、BLとしては異例なことだった。

 記号を多用して濡れ場を描き、とっくに両想いなのにモタモタする。嫌がっても求愛されること。自分の想いを伝えるのが、怖いこと。似たような設定、似たようなストーリーは、パクリとは言われずジャンルとしてむしろ歓迎される。

「大丈夫です。ちゃんと書かせますよ」

 多能は作家紹介の欄に男性であることを公表している。男の書くBL。だから売れる。ゲイの文学とは大幅に異なる。多能の顔立ちもいいので、いっそ写真でも載せたいところだが、そもそも彼の本業は税理士であるし、BL作家は自身のことをなるべく公表したがらないのが常だ。読者としても、色々不明である方がいい。

 多能は奇食や異食を題材にしたBLを書き、それは結局ボツになる。現実に、カニバリズムな事件が起こったためだ。人を殺してその死体を食ったニュースはしばらく日本を騒がせ、その間に多能は前作の続編を書きあげる。

「多能さんって、その、自分の身体、どこまで試したことありますか?」

「は?」

 ある日、彼に思いきった質問をしてみると、向こうはきょとんとした。朝霞はわざと原稿から目をあげずに話を続けた。

「どういう意味?」

「開発」

 その単語だけで伝わる界隈で、二人は働いている。多能はケラケラと笑って、あのねえ、と朝霞をたしなめるように言った。

「一切、ないよ。ノーマルです。僕は」

「よく書けますね」

「それは他の作家も同じことでしょう」

 前立腺や陰茎のない生き物が、男同士のセックスを書く奇妙さ。あからさまに女性的な反応をする受と、変質的な偏愛の攻とのやり取り。朝霞は素早く原稿の誤字脱字を指摘して、それからもう少し眺めに濡れ場の描写を増やしてほしいと注文をつける。

「ここのキスの部分、もう少し詳しく書けますか」

「やってみます」

 どんなキスがいいかな、と多能は自分の唇に中指で触れて考える。誘っている、ようにみえてしまうのは、自分の脳が偏っているからだと朝霞は思う。これが小説なら、キスの仕方を教えてあげる展開だ。

「朝霞さん、どんなキスが好きですか」

「べつに。普通の。……あ、ここの描写としては、ディープはやめてください。前ページの段階で上手く書けてるので」

「普通」

 困ったな。

 朝霞はちょっと考えてから、この前あなたにしたことですよと伝える。向こうは固まった。

 勝った。

 そう思えたのはいっときのことで、忘れちゃったからもう一回してください、だなんて言われたら、今度は戸惑うのはこちらのほうだ。

「えーと」

「みたいな、台詞、どっかで使えそうですね」

 多能は笑わずに淡々と言う。この人は、こういう人だ。油断するな。

 朝霞は原稿を彼に返し、別の仕事の話をしてから、多能のマンションをあとにする。そそくさと逃げ帰るようで、なんだか落ち着かなかった。

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