第7話
暖かくなり始めた三月も半ばだ。ブレザーのボタンを開けて、クリーム色のベストを覗かせながら廊下を歩く。放課後はどことなく賑やかで、教室の前を通るたびに明るい笑い声が聞こえてくる。時折視界に入る友達のはしゃぐ姿に、こちらまでが笑顔になる。
「ちょうどいいところにいた。粟屋、ちょっと時間ある?」
教室に戻ろうと歩いていると、小走りの大村先生に笑顔で呼び止められ、そのまま面談室に案内されて椅子に座らされる。ドアがそっと閉まった。
「最近調子どう?部活辞めてから上手くいってる?」
大村先生は、くたびれた座布団が乗った椅子をずずっ、と引いて腰かける。
「バドミントン部を辞めてから……相模さんから干渉されなくはなりました。今は、空いた時間で絵を描いています。別に、部活だけが全てじゃないので」
そう言って私は最大限の微笑みを浮かべる――笑え。今が楽しいでしょ。
バドミントン部を辞めてよかったです、という言葉は吸い込んだ息と一緒にぐっと飲み込む。バドミントン部を辞めたことに後悔はないか、と言われればない、とは言い切れない。レギュラーになって、大会に出て、仲間と喜びを噛みしめる――思い描いたことは何一つ叶わなかった。相模怜南に屈した、という言い方ほど、私に相応しい言葉はないだろう。
「充実してそうでよかった。今職員会議で話してるんだけどさ……来年のクラス編成さ、相模とは離せる。体育とかの合同授業も絶対被らないようにするけど、粟屋はどうしたい?」
「相模さんとは……離してほしいです」
それが全てだった。あいつの近くにいる限り、いつだって私は「メザワリ」になりうる。その基準が分からなければ、次は何をされてしまうかも分からなかった。その時に自分を守れる保証もない。
「分かった。前野とは同じに出来るように頑張って交渉してるところ。これは内緒な」
大村先生は口元に人差し指を当てる。
「そんなにたくさん……ありがとうございます」
「いやいや、最後ぐらい生徒のために何か贈り物残さなきゃね」
語尾が明らかに下がった。瞬時に私の顔が上がる。大村先生の声のざらりとした感触が耳に引っかかって鼓膜に張りついた。何を意図して言ったのだろうか。「最後だから」というのは、まさか――異動してしまうのか。答え合わせが出来ないまま、大村先生はじゃあと言って、私とは目を合わさずに部屋を出ていく。大村先生がぼんやり眺めていた青空と、今私が見上げている青空が同じだ、とは到底思えなかった。
――嫌だ、いなくなるなんて
あの春に、私を絶望から掬い上げた大村先生は私の手を離してどこか遠くに行ってしまうのだろう。春は出会いと別れの季節――それを受け入れたくなかった。今までの当たり前だったことが失われる時、つらく感じるのはその温かさを知ってしまったからだ。知らなければつらくないはずなのに、知らなかったほうがよかったとも思えないのも、より一層残酷だった。
彩りで溢れていた世界からまた少しずつ色が失われていき、俯きがちに廊下を歩く。差し込んでいる日差しがだんだんと弱まり、光と影の区別がなくなっていく。先ほどまでそこにあった熱はじわじわと失われる。大村先生はいなくなる。このまま離れたくない。あと数日で終わる中一なら、最後に何か一つ叶えさせてよ。
「莉亜!大村先生に会いに職員室行こう」
教室にいる莉亜を呼び出し、大村先生がいなくなるかもしれないことを伝える。莉亜は目を丸くするが、次の瞬間には手のひらを差し出した。私は莉亜の手を引っ張って、階段を駆け下りる。体操部が使いっぱなしにしたマットや平均台、それに剣道部の防具入れを避けながら、跳ねるように走っていく。職員室のドアが見えた時、莉亜は立ち止まった。
「菜緒、行ってらっしゃい。私は菜緒ほど大村先生に思い入れない。だから私のことは気にせず、いっぱい喋っておいで」
「ありがとう……!」
大村先生に会う前から涙がこみ上げそうになるのをぐっと堪える。私は莉亜に背を向け、職員室のドアをノックする。
「失礼します。一年、五組の、粟屋……っ……」
名乗っている時には既に顔一面が涙でぐちゃぐちゃになっていた。職員室のドアのすぐ近くに、大村先生が立っていたからだ。ジャージに白い絵の具がついているのが、ぼやけた視界でもはっきり分かった。
「さっきぶりじゃん、どうしたんだ粟屋菜緒……!」
その声は思っていたより数段明るかった。むしろ少し笑いが混じっていた。含みを持たせるように「最後だから」とか言った人物とはまるで別人かのように私に接する。それに少し安心させられた一方で、もしかしたら本当に大村先生がいなくなってしまうような、氷水に漬けられていくようなさめざめとした恐怖を感じた。
「……っ、大村先生が、異動してしまうと思って……」
大村先生は、なんだそんなことか、と明後日の方向を向いて呟くが、すぐに私に向き直って深呼吸した。
「いい出会いはたくさんあるから、泣かないこと。むしろ己が誰かのいい出会いになれたら嬉しいよな。頑張れよ」
これが、大村先生と交わした「約束」になった。人との別れを振り返らない。立ち止まらない。泣かない。出会いを大切にし、いつしか自分が誰かに惜しまれる人になる。誰かの大切な人、誰かにとっての「何か」になる。それは、私の当面の目標――いや、一生をかけて果たしていくことになるであろう「約束」だ。けれども、すぐに別れに強くなれるほど私は出来た人間ではない。今は頷くたびに頬を大粒の涙が伝っていき、ぽたぽたとくすんだ床の上に落ちるだけだ。涙は盛り上がることなく水たまりのように広がっていく。
「それと……前野。こっちおいで」
大村先生は莉亜を手招きする。莉亜は目をしばたたかせて近づいてくる。どうして私が?と言いたげに。
「前野は偉い。勇敢。前野の優しさは絶対誰かが見てるし、認めてくれる。その優しさをたまには己に向けてやってくれ」
莉亜は唇をきゅっと噛んで、潤んだ目を真っ赤に染めた。
そして迎えた二年生の始業式の日、やはり大村先生はいなかった――私への「贈り物」だけ残して。大村先生は遥か西の中学校に異動してしまった、それだけを校長先生は淡々と述べた。桜の花びらの小山は既に跡形もなく掃き取られてしまっていて、伸び始めた萌黄色の若い葉が枝を覆っていた。
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