第4話
「今日は教卓?めっちゃいいじゃん」
突然、莉亜の顔がさかさまに映りこんでくる。どうやら、莉亜はいつものように私の椅子に後ろから張りついて、お辞儀をするように覗き込んでいるようだ。目が合った瞬間、莉亜は私の正面に回り込むなり、前の席を回して、ガタリと音を立てて何の遠慮もなく座った。そして、私の机に両手で頬杖をつく。莉亜の束になった後れ毛がまだ冷たい三月の風に揺れている。
「菜緒は聞いた?大村先生が卒業式に来るって」
莉亜は上目遣いをしたまま、後れ毛を指でくるくる巻き取りながら話し出す。
「聞いた。大村先生って確か、みんなから人気だったらしいし、喜ぶ人は多いよね……」
そう言って私は鉛筆を再び握り、スケッチブックに向かい合う。そんな曖昧な態度――一番大事なところを避けることを目的とするコミュニケーションが癪に障ったのか、莉亜は目の色を変え、矢継ぎ早に言葉を連ねてくる。
「当たり障りのない言い方しないでよ。そもそも菜緒は喜んでないってこと?そんなわけないよね」
私は何も言えずに、表情一つ変えないことに集中しながら、ただ義務として鉛筆を寝かせて紙面にこすりつけ続ける。本当は嬉しいと言いたかった。でも、口に出してしまった後が怖かったから今も自分の感情を心の隅に追いやって、押し潰している。今は、考えるな、感じるな。
「ねえ、返事は?」
私は一呼吸置いたあと、莉亜の目をはっきりと見据えたはいいものの、肝心の返事自体は答えること自体から逃げてしまった。
「私は、大村先生が来る卒業式に……出たくない」
「卒業式出ないって?嘘でしょ?」
莉亜はガタン、と音を立てて椅子から立ち上がる。教室が一瞬、水を打ったように静かになり、私たちに視線が集中する――と思ったのもつかの間、騒いでいるのが「私たち」であると分かった瞬間、ガスが抜けた風船のようにみるみる注目が失われていく。そんな単純で穢れた世界に、私はそれほど執着がない。それぐらいには今の私は強いはず――ある一点を除いて。
私を見つめている二つの目は、今にも落ちてきそうなほど開いている。その黒目にはっきりと映る私の顔はとても見ていられず、すぐに俯く。
「だって……会いたくないし会えないよ」
会いたくないのも会えないのも全部嘘だ。心の奥底でずっと、大村先生のことを想って生きてきた。自分の気持ちに正直になって、「会いたい」と声に出して言いたい。堂々と胸を張って、この二年間ずっと頑張ってきたことを伝えたい。
でも、私には大村先生と交わした「約束」がある。ここ二年、ずっと「約束」を守ってきた。大村先生と会うと、きっと私はその「約束」を破ってしまうだろう。私の道標となってくれた「約束」を破ってしまうことは、大村先生と過ごした時間、大村先生自身、大村先生に救われた自分――これら全てを否定することに等しかった。
「綺麗なままで……終わりたいから……大村先生が来る卒業式なら、出ないよ」
ゆっくり、一語一語噛みしめるように音声に変換していく。
「そんなの意地張ってるだけじゃん。私が見てきた菜緒じゃない。会いたいっていう気持ちにどうして正直にならないの?」
眉間にしわを寄らせて、莉亜が鋭い一打を喰らわせる。その発言にはっとさせられたことは紛れもなく事実だ。莉亜の言う通り、これは意地そのものだ。生き方を守るための決して曲げられない、ある種の呪いだ。こんな感情を抱えたままでは仕方がないことは自分が一番分かっているからこそ、莉亜に気持ちを逆撫でされたように感じた。口をついて出たのは、ナイフだった。
「これは私だけの大事な気持ちなの!莉亜には分かってもらうつもりなんかないから!」
莉亜がその時どんな顔をしていたのか知らない。知るのも怖かった、というのは私の身勝手だろうか。何も言わず、足音をドンドンと立てて私は教室から出ていった。
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