第3話
「メザワリだから、もう部活も学校も来んな」
靴箱を覗き込むと、外靴の代わりにノートの切れ端が一枚、乱雑に入っていた。視線を下に落とすと、ぐっちゃぐっちゃに踏みつけられた黒いスニーカーと、部活のシューズが砂まみれで転がっている。
やった人は誰だか即座に分かったが、怒りを感じる気力すら私には残っておらず、大人しく靴を拾い上げる。二足合わせてぱんぱんと叩くと、吹きつけてくる風に砂は巻かれ、プリーツスカートが粉を吹いたように白っぽくなった。本来の紺色を忘れてしまったかのように。
「お砂遊びをする人は幼稚園に帰ってくださーい!」
校舎側を向くと、相模怜南とその取り巻きが高らかに笑っている。呼吸をするように易々と、「キモイ」「消えろ」「死ね」という言葉が私に浴びせられ、感情がピーラーで剥ぎ取られたように、一つずつゆっくり失われていく。相模怜南は見せつけるように、レギュラーの証であるユニファーム姿をして、ラケットを背負っている。私が部活に行けなくなった間に、残り一枠だったレギュラーは相模怜南に奪われた、らしい。一年生部員の中でも先輩と積極的に練習し、ダブルスでの腕前を認められていた私は確かに「メザワリ」だったのだろう。私だって行けるものなら部活に行きたい。ちゃんと学校にも通いたい。そんな気持ちは抱えているのに言い返せなかった。拳を握りしめて時間が過ぎるのをひたすら待つ。そのうちに人の気配は消えていて、おそるおそる校舎側に目をやると、相模怜南はいなくなっていた。
――私、何やってるんだろう
ふと我に返ると、部活のシューズを持って砂の中で立ち尽くしている自分がいた。無様にシューズを靴箱の奥底に戻す。左手から紙切れが落ちたことと、涙が頬を伝ったことのどちらが早かったかは知らない。
それをきっかけに私の心は壊れた。学校に行こう、と思いリュックを背負おうとすると、頭が殴られたように痛くなり、胃がぎゅっと圧迫されて、家から出られなくなる。やっとの思いで登校出来たとしても、部活には未だに行けていない。だから、毎朝靴箱の中を覗き込まないようにして上履きを取り出す。部活のシューズを見たら、今度こそ自分を守れなくなってしまうから。
そんなことを、大村先生に打ち明けたのだった。
「そっか。話してくれてありがとう」
私が話しきった後、三拍ぐらいおいて大村先生は優しく息を吐き出した。
――それだけ?
大村先生の同情を期待していなかった、と言えば嘘になる。何かもっと踏み込んだ内容――「粟屋はよく耐えたよ」とか「学校来てて偉いね」とか言ってほしかった。いや、そんな淡い救いなんて求めていない。相模怜南を呼び出して、怒鳴って叱り散らしてほしかった。あいつの心がズタズタになって、学校に来れなくなったらいいのに。あいつさえいなくなればいいのに。他人の不幸を願う自分の浅はかさと傲慢さへの苛立ち、そんな自分の話を聴いてくれた大村先生への後ろめたさと申し訳なさ、自分への情けなさなどが今にも私の心を内側から乱暴にノックして、溢れ出そうとする。溢れ出しても残るのは虚しさだけだなんて見え透いているのに、私はこの憎しみを止められないでいた。ついに、気持ちのコントロールを失い、涙として溢れ出す。目の前にいる大村先生の姿が大きく歪む。涙と鼻水の区別がつかないのに、無理に吸い込もうとしてむせてしまう。ずっと前からかろうじて自分を奮い立たせていたのに、大村先生の前では張り詰めていた糸のようなものが切れてしまったのだろうか。言葉として伝えようとしているのに、吐き出した息は嗚咽に溶けて形にならない。子供に戻ったように私は大きな声を上げて泣いていた。
「粟屋は一人じゃない。大事に思ってくれてる人がいるから、くじけないで」
大村先生の言葉は乾ききった私のパレットに水を垂らす。水が触れた瞬間、こびりついていた絵の具が溶け出したかのように、世界に色が戻る。混じり合って新たな色が生まれる。
――私のことを大事に思ってくれている人って……?
「同じクラスの前野莉亜、分かる?彼女が相模とのことを教えてくれた。すごい勇気だよな」
――前野莉亜……?
分かる、かもしれない、と感じたままに大村先生に伝えたかった――私にしか出来ない形で。その瞬間、今までならやろうとも思わなかったことが不意に思いつく。大村先生なら私を認めてくれる、と思ったからこそ私は賭けに出た。
「紙と鉛筆を貸してもらえませんか」
私は大村先生の目を見据えた。これは実力表明だ。大村先生は不敵な笑みを浮かべ、木で出来た横長の引き出しから、繊維の透けた紙と太芯の鉛筆、それからスリーブのない消しゴムを私の目の前に置いた。
しゅっとした輪郭をまず描き、くっきりした眉毛を一本一本描き込む。鼻筋は割とはっきりさせ影をクロスさせるようにつけ、切れ長の目に薄い唇を、濃淡をつけて描く。前髪はまっすぐ横に流れていて、肩のあたりまで伸びていた。毛先がほんのり軽かった気がする。
「こんな感じですよね?」
似顔絵を向ける。その瞬間、大村先生が息を呑んだのは絶対に私の気のせいじゃない。
「そう!それにしても粟屋、すごく絵上手いね」
似顔絵をしげしげと眺められているのが照れ臭くて、声が思わず裏返る。
「昔から絵を描くのが好きなんです。将来は絵を描いて食べていきたいなって」
全身の血管がどくどくと脈打ち、暴れ出す。不思議と勇気が出て、背中を押されるままに口に出したはずなのに、いざ打ち明けると途端に自信がなくなってきて、言葉をテープで巻き取って口の中に戻したくなる。
「かっこいいじゃん。粟屋ならきっと出来る」
ぱっと顔が上がる。その言葉一つで、話してよかったと思えるのはなぜだろう。いつもは無機質なキーンコーンカーンコーンと鳴り響くチャイムにさえ、心を洗われる。パレットに張りついていた絵の具はきれいさっぱり流され、まっさらな白が私の心を照らしていた。
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