第2話

「卒業式、大村先生来るらしいよ!」

 上ずった女子の声がはっきりと聞こえた。きっと、耳を澄ませていた。

――ずっと待っていた

 私の右腕が一瞬静止する。下を向いたまま、教卓を描いた描き途中のデッサンを眺める他なくなる。全身が石になったように固まってしまい、スケッチブックから目を逸らすことも腕を動かすことも出来ないという状況で、唯一機能したのが耳だった。

「さっき学年室の前通ったら、先生たち、大村先生が参列するみたいなこと言ってたの!もう、幸せすぎる!」

「まじ?会いたい、絶対ツーショ撮る!」

「目の保養じゃん、神」

 教室が一気に色めきだったことは明白だった。歓喜の声が昼下がりの穏やかな光が差し込む教室に溢れている。

 実際、私も心の中でガッツポーズを盛大にかましていた。心臓が高鳴り、手汗が紙を濡らす。だが、そんな私の背後に影が――もう一人の私が近づいてきて、耳元で囁く。

――まさか会っていいとでも思ったの?やめときなよ

 浮き立っていた私の心を嘲笑するかのような声。その通りだった。大村先生に会いたいだなんて思ってはいけない、と自分の心にシャッターを下ろす。大村先生に会ってしまったら、守りたいものが守れなくなる。守れなくなってしまった時のことを思えば、会いたい気持ちは水に溶けていくように薄まって、また心に平静が訪れる。体がまた動き出した。

 さっ、さっ、さっ。

 鉛筆を立てて直線的な輪郭を取る。光の向きを確認しながら面を取って塗り分けていく。叩き込んできた直方形としての概形を意識し、鉛筆を寝かせて灰色で軽く塗っては指でごしごしぼかす。黒鉛の香ばしい匂いに包まれる時間が好きだ。人差し指を見ると、指紋の溝に黒鉛がたまり、テカテカと輝いている。木目や表面の傷を描き加え、細い消しゴムで反射光を描き加える。仕上げに、薄くなった輪郭をもう一度なぞっていく。

 集中すれば集中するほど、大村先生の影がふと頭をよぎる。寝ぐせ一つない髪、絵の具だらけの深い紺色をしたジャージ、いつも笑顔を崩さないのに、はっとさせられたように驚いた顔とか、ざらついた声の調子まで全部ありありと私の前に現れる。

 今みたいに、思い出すためだけに絵を描いている、というのは、冷静になって自分を俯瞰した時にいつも虚しさだけが残る。大村先生がいなくなってから私の時間は止まってしまった。そんな時間をまた動かそうとするのではなく、終わってしまった時間を何回も繰り返し思い出して浸ることで、私は信じたいものを守って生きてきた。大村先生が見つけてくれた自分の長所を忘れたくなかった。これがひと時の安心を得るための手段でしかないというのは分かり切っていた。

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