第5話 二人のピアノ
奏が心と二台ピアノで連弾したいと言うので、二人はピアノが二台ある奏の実家に行くことにした。
心は以前にも奏の実家に行ったことがある。家のあちこちにとにかく本が積まれており、心は一度その大量に積まれた本を崩してしまったことがある。その時、奏は「ありゃ……」と言って、一言も心を責めるようなことはなかった。奏の両親もおっとりした人たちで積まれた大量の本を崩してしまった心を責めるでもなく「まあ、際限なく本を積んじゃう奏が悪いよね。しかも本を捨てようとするとめちゃくちゃ怒るし」と奏の母が言った。
奏は、自分の母のその言葉に対して「……だって、本捨てたらかわいそうだもの……」と言って不貞腐れていた。奏は、本には魂が宿り生きていると心から信じていた。
奏の両親はそんな奏をそれ以上追求することはなく、本を整理し終わると、一緒に談笑したものだった。
奏と心は奏の実家につくと、奏の家族に歓迎された。それはそれは手厚い歓迎で、寿司や刺身やピザなどがたくさん用意されていた。生魚などの魚料理の類は心の好物で、ピザなどのイタリアンは奏の好物だった。
奏はマルゲリータを見て目を輝かせ、神速の素早さで頬張っていた。
……と、奏の父が、
「奏は変わってるから、心ちゃんも大変でしょ?」
と言った。
心は、
「いえ、奏にはいつも大切なことを教えてもらえて、有難い限りです」
と言った。ちなみに、これは心のお世辞ではなく、まったくの本心だった。心は社会的に体裁を取り繕ったり、嘘をついたりするのは比較的苦手である。その点は、奏に似ている。
奏の父は、
「そう言ってもらえて僕も嬉しい限り。そして、心ちゃんみたいな良い子が奏と仲良くしてくれて、ホントに……」
と言って、そこで涙をこぼし始めた。
奏は、自分の父の言動に対して、
「お父さん、大丈夫。私も心もとても元気」
と言って笑いかけた。
奏の父は、
「奏は優しいな」
と言って、一度席を立ち、何かを持ってくると、それを奏と心に見せた。それは奏の父の描いた絵だった。彼は絵を描くのが好きだった。その絵の中には、奏と心の姿が仲睦まじそうに描かれていた。その絵は、技巧的には非常に写実的に見えるものの、その構成は彼の想像力によっていて、高度に空想的な性質をも湛えていた。
心は、彼の絵の中にどこか奏的な性質を見通せるような気がして、何とはなしに「親子なんだな」と感慨深く感じた。
奏は、その絵をとても喜んで、
「お父さん、ありがとう、ありがとう、ありがとう!」
と三連続の強烈な感謝の念を放っていた。
奏の父は、
「奏、ありがとうは一回でも通じるぞ」
と言って楽しそうに笑っている。
奏は、
「私は、大切なことは何度も言うの。音楽でも絵でも。モチーフは同じでも、いつも形が違うから」
と言った。
奏の父は、そう言う奏に微笑みかけた後に、心にも絵の感想を求めた。
心は、
「素敵な絵だと思います。私も嬉しいです。奏はともかく、その絵の中の私は美人すぎる気はしますが……」
と言った。
奏の父は、心のその自信なさげな言葉を受けて、
「僕は男だから、あんまり女性が自分の容姿についてどのように把握するのかについて詳しいわけじゃない。だから、それについては上手いアドバイスはできないし、せいぜい自分の気持ちをなるべく正直に言うことしかできないけど、心ちゃんは綺麗だと僕は思うよ。本当のところでは、ね」
と言う。
心は、
「ありがとうございます」
と言って、ぺこりと軽く頭を下げた。
……と、奏が突然に心に背後から抱きついた。心は突然のことに驚くと、数瞬遅れて奏が自分に抱きついていることを悟った。心は自分の鼓動が何だか激しくなるのを感じた。それでも心は冷静を装いつつ、
「か、奏、どうしたの?」
と半ばパニックになりながら問う。
奏は、
「心が悲しそうだったから、ギューッとしてるの」
と心の問いに応えた。
心は奏の言葉に自分の顔が熱くなるのを感じた。そのように感じると、自分の顔が赤くなっていはしないかと、さらに不安になり、さらに顔が熱くなった。
心は、
「奏……ごめん、あの……えーと……その……」
などと言って、慌てている。
奏はそんな心の顔を覗き込み、
「あー……心の顔赤い……あー……」
と言って、その綺麗な瞳でまじまじと心の赤面を見つめていた。
心はそのまま無言になった。今の彼女にとってどのような言葉もその本心を言い表すことはできなかった。心を見つめ、楽しそうに笑っている奏の整った顔立ちに、奏の身体の感触、その匂いは宝石みたいにキラキラとして……。
そこで心は思わず泣き出してしまった。自分の中の上手く言い表せない感情がすべて涙になり、嬉しいのに苦しかった。
そんな心の涙を見て、今度は奏が慌て始めた。
「心、ごめん。悲しかった? 痛かった?」
と奏は言って、心の正面に回り、その手をぎゅっと握りしめた。
心は心配そうに自分を見つめている奏を見て、なるべく気丈に振舞おうとした。
「大丈夫だよ。私は元気」
と心は言って、溢れてくる自分の涙を抑えようとしたが、なかなか感情の迸りが止まらなかった。
そのうちに奏も泣いてしまった。
奏の両親は慌てて、二人を慰めた。
しばらくして二人が泣き止むと、窓から一陣の風が心地よく吹き込み、彼女たちの髪をふわりと揺らした。
その後の、二人の弾くピアノの音色は、広い青空の下に静かに響いていた。泣きじゃくる二人のその音楽が、どこまでも深く、いつまでも遠くに、……世界に広がるように。
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