第3話 調和の微笑み
奏はひたすらに聖書を音読していた。
心はその横で奏の部屋にある本をつらつらと読んでいる。その本は、カントの『純粋理性批判』という心にとっては難しい本だった。心は奏がそういう難しそうな本を楽しそうに読んでいるのを見るのが好きだった。
奏の聖書の音読はところどころに感情が豊かに表現されていて、心はそれをとても面白く思った。
その音読は多言語で行われる。色々な訳の色々な発音の聖書を読み上げていた。
だから、その言語はポルトガル語だったり、ヘブライ語だったり、ギリシャ語、ラテン語、英語、……あるいは心が全く聞いたことのない言語だったりもした。
奏の多言語の音読はどこか音楽のような雰囲気を持っていて、心はそれを聴いていると心地いい。
ちょうど今、奏が読み上げているのはどうもマタイ福音書の一節のようだった。驚異的な集中力でいつまでも聖書の音読をしている奏を見ていると、心はその資質がうらやましくなることもあった。
――自分にもしも奏のような集中力があったら、どうするだろう?
心はそう思う。
心にはやりたいことがたくさんある。彼女は小学校の頃にはよく「落ち着きがない」と叱られていたりもして、自分のことを集中力の欠けた人間だと思っていた。その点は彼女のコンプレックスでもあった。
心は思い切って、奏に集中力について尋ねてみることにした。
「ねえ、奏」
と心は少し大きめの声で言う(小さい声だと奏の大きな集中力にかき消されてしまうだろう)。
奏は音読を中断し、首をかしげ、
「ん?」
と言った。
そして心は、
「奏はどうしてそんなに聖書に集中していられるの?」
と尋ねた。
奏は即答で、
「面白いから!」
と言って微笑んだ。とても魅力的な笑みだったので、心は少し動揺してしまった。
……けど、心はすぐに気を取り直して、続きの言葉を継ぐ。
「聖書は確かに興味深い点がたくさんあると私も思う。だけど、奏って放っておくと一日中集中してるじゃん? それってすごいな、と思って……ほら、私は奏みたいにたくさん集中したりとか苦手だからさ……」
奏は心の言葉の意味を彼女なりに想像しているのか、うーん……と言いながら、部屋中をくるくると歩き回った。そして、部屋中に散らばっている様々な書籍にピラピラと目を通しては、そのたびに、うーん……と悩んでいる。
やがて奏は、心理学的な技法のひとつである「感覚統合療法」について書かれている本を心に見せた。
奏によると、その療法の理論において述べられているような「感覚」の「統合」が有効な集中の仕方などの養成に効果を持つらしい。
奏は、
「人の身体にはね、色々な筋肉があって、色々な神経があって、色々な骨があるの。ガルの骨相学とかもあるくらいにそれらは多くの情報を持ってて、何かの問題が起きる時には、そういう多くの情報の間の調和がなくなっちゃう。何の問題もなければ、そもそも意識をしないから」と言った。
心は、
「私の意識を構成する情報が奏の言う調和を失ってるってこと?」
と言った。
奏は首を横に振って、
「そうじゃない。心の意識はいつも調和に満ちているもの。心はとても素敵な人。私の友達。ただ、今の心がそれに気づいていないだけ。それに今の時点で心が気づいていないのは、心の認識よりも心自身がもっと大きく成長しようとしているから」
と言った。
「私が、成長?」と心は言う。
「そう」と奏は言う。「人の身体の動きの方法にはたくさんのバリエーションがあるでしょ。そういうたくさんの運動がたくさんの気づきを意識に与えてくれるの。少しずつ試行錯誤して、少しずつ大きくなるの。感覚も、身体の実質も」
心は奏のそれらの言葉について自分でもよく考えてみたいと思った。何と言っても、心にとっては、自分と話していてなぜかとても楽しそうな奏の生き生きとした表情が何よりも嬉しいのだった。
心はにこりと笑って、
「ありがとう」
と言った。いつも元気な心らしい、澄み切った笑顔。
奏もにこりと笑って、
「どういたしまして」
と応える。いつも無邪気な奏らしい、どこまでも自然な、彼方の笑顔。
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