第2話 不死の音

 奏はよく本を読む。本当にいつもいつも本を読んでいる。語学的な文法書を読むこともあれば、微分方程式の本や超弦理論や一般相対性理論についての本、医学に生物学に漢籍に画集……あるいは「楽譜」を読んでいることもあった。

 心は奏が楽譜を読んでいる時に、奏がそれはそれは熱心に食い入るように楽譜に熱中していたものだから、「楽譜の何がそんなに面白いの? 音も鳴らしてもないのに」と尋ねてみた。

 奏はふふんと笑って「音は鳴ってるよ」と言った。

 心は奏の返答を受けて、一応、耳を澄ましてみた。辺りには風の音、木々の枝葉がこすれる音が窓から入ってきてはいたが、それ以外には音はなく、いわゆる「音楽」的と言えるような楽器の演奏はないように心には思えた。

 心は「楽器の音とかは聴こえないみたいだけど……」と言った。

 奏は楽譜を閉じ、そっと目を閉じた。綺麗な横顔だった。何かに祈りを捧げるみたいな真摯な静寂が彼女の周りに広がっていた。

 心はしばらく、そんな奏の何とも言えない美しい姿に目を奪われていた。

 

 ……と、奏は「ほら、聴こえる」と言った。

 

 心は突然の奏の言葉にハッとして、取り繕うように「な、何が?」と奏に尋ねる。

奏はにこりと笑って「音楽!」と言う。

 心が奏のその言動について不思議に思っていると、奏はおもむろに立ち上がり、部屋にあるピアノの前に座った。

 すると、流れるように鍵盤を叩き、何かの音楽を演奏し始めた。

 心は不思議と奏のその演奏が自分の心根のとてもとても深いところに沁みてくるように感じた。何故かはわからないが、「風」の一言が心の心象に浮かび上がった。

 心は奏に今の演奏曲の題名を尋ねてみた。

 すると奏は「風!」と言って笑った。

 その時、心は奏と通じ合えたような気がして、少し嬉しくなった。同じ音列に対して同じ言葉を付すことができたその瞬間にどうしようもない愛おしさを感じるのだった。

「その風って曲は奏が創った曲なの?」

 と心は奏に尋ねた。

 奏は少し考えた後に、

「そうだけど、そうじゃない」

 と言った。

 心は奏の話の先を無言で促す。

 奏はちょっと難しそうに顔をしかめて、

「風は、いわゆる史上の作曲家が正規に作った曲とは言えない。だけど、彼らは私の中を通って、あの世からこの世に来て、今この曲を作って、私たちに聴かせてくれたの」と奏は言った。

 心は、

「それって心霊現象?」

 と奏に尋ねてみた。

 奏は、

「違う」と言う。奏は続けて「そもそも人は死なない。だから、正確には幽霊にもならない。だから心霊現象じゃない」と。

 心は奏の言うことがよく分からなかった。

 心は、

「人はいつかはみんな死ぬというのが、常識と言えば常識な気はするけど……」

 と言った。

 奏はなぜか得意そうに笑って、次のように答えた。

「本当の命はね、決して死なないの。たとえ身体がなくなっても。私も、心もね」

 心は奏の自由奔放な言葉に翻弄されて、その気持ちは息も絶え絶えだった。

 心は、

「奏は不思議だね」

 と言った。

 奏はまた得意そうに、ふふん、と笑った。

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