微かなもの

ヨミヨミ

第1話 紅

 考えられる限りの多くのことを考えようとする癖は、時に私の脳の機能の余剰を圧迫することがある。それでも……と無理をすると現実認識が狂ってくるし、あまり良いことはない。

 気持ちの限りの努力をしようとする癖は、時に私の身体の感じ方を阻害することがある。だけど……と無茶をすると健康を害するし、やはりあまり良いことはない。

 

 ……そんなことを沸々と考えながら、奏はコーヒーを飲んでいる。彼女の友達の淹れてくれたもので、とても美味しい。

 奏は音楽が好きである。特に聴くのが。自分で色々な楽器を演奏することもあったが、基本的には人の奏でる音楽を聴いていることを好んだ。彼女は特にシューマンやバルトークが好きだった。

 奏は部屋のピアノでシューマンの「予言の鳥」を弾き始めた。ところどころぎこちない部分はありつつも、とても正直な彼女らしい心持がよく現れている演奏だった。

 彼女の職業は翻訳家で、日本語を母語として、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、フィンランド語、スウェーデン語、……などなどの多彩な言語に習熟していた。学生時代には、彼女自身は通訳になりたい気持ちもあったが「通訳はダイレクトに人と接するので、私にはちょっと無理」と彼女は言い、翻訳家になった。彼女は引っ込み思案だった。自分が信頼できると判断した一部の人に対してだけ心を開いて、その素直で可愛らしい心の襞を明かしていた。

 彼女の友達――心という名前である――は奏に対して言う。「奏はどうしてそんなに人見知りなの? もっとみんなと仲良くすればいいのに」

奏は苦笑しつつ「無理」と答える。

 心は「どうして?」と食い下がる。心はバイタリティがあって、猪突猛進なところのある女性だった。

 奏はちょっと戸惑ったような表情をした後に「それが私の人生だから」と言った。

 心は奏の言葉に納得はしていなかったが、その戸惑いの様子を悟って引き下がった。心は人知れず「奏の人生」について思いを馳せた。

 心は自身の胸の内で奏にそっと語りかける。

「ねえ、奏。あなたは何を考えて、何をしたくて、何を愛しているの? 何が知りたくてそんなに多くの言葉に耳を傾けるの? 言葉でも音でも、あるいは絵でもあなたはそこに何を見ているの? 私はあなたのことがもっと知りたいんだよ」

 ……その内なる「声」は物理的には心の声帯を振るわせはしなかった。だけどきっと、彼女の声は奏にも届く時が来るのかもしれない。

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