3

 瑛斗の転居先に着き、車を降りた。


 5階建てのマンションの、ほとんどの部屋から、窓明かりが漏れている。人の話し声や、食器を片付ける音が聞こえた。


 マンションの周辺は街灯が多く、夜でも明るい印象だ。ランニングや、犬の散歩をする人もいる。陽の光をさえぎるようなものはなく、風通しもいい。特に嫌な空気は感じなかった。


 ——今回は、良い場所を紹介してもらえたんだな。


 引越しの報告をもらった後に、メッセージアプリに住所が届いていたので、すぐに来ることができた。教えてもらっていてよかったとは思うけれど、初めてここにくるのが、まさか、行方不明の瑛斗を探すためになるとは——。


 奥さんから鍵を預かって、前のマンションへ移動したら、ちょうど御澄宮司も着く頃だろう。


 ——205号室ってことは、2階だよな。


 建物の中央にある階段で、2階へ上がる。そして廊下の両側を見ると、部屋が6つずつあったので、僕は右側へ進んだ。


「205……205……。あっ。あった」


 表札には『瀬名』と書いてある。


 チャイムを鳴らし、一歩下がって、奥さんが出てくるのを待った。


 右隣の部屋からは、シャワーの音と、鼻歌が聞こえてくる。歌っている本人は、誰かに聞かれているなんて、思ってはいないだろう。何を歌っているのかは、いまいちよく分からないが、しばらくすると、歌が聞こえなくなった。おそらく最後まで歌い切ったのだろう。


 ——遅いな……。


 もしかして、チャイムの音が聞こえなかったのだろうか。僕はもう一度、チャイムを鳴らそうと、手を伸ばす。


 すると、ドアの向こうで「どちら様でしょうか……」と、くぐもった声がした。


 ——この声……もしかして、寝ていたのか? 瑛斗が行方不明なのに……?


「遅い時間に、すみません。一ノ瀬です」


『いち……の……せ?』


「はい、そうです。前のマンションの鍵をお借りしたくて」


『……どこか、別の部屋と、間違えていませんか……?』


「え……?」


 一瞬、理解ができなかったが、すぐに、麗華の姿が脳裏に浮かんだ。


 ——まさか、うそだろ……? さっき話をしたばかりじゃないか。


「ここは……瀬名瑛斗さんの、お宅です、よね……?」


 問いかける声が震えた。


『いいえ。そんな人は、知りませんけど……』


「そんな……。あなたの、家族でしょ……?」


『違いますけど……。あまりしつこくするのなら、警察を呼びますけど』


 ドアの向こうから聞こえるのは、間違いなく、瑛斗の奥さんの声だ。


 ドアスコープからは、明かりが漏れたり、消えたりする。こちらの様子を伺っているのだろう。奥さんからは僕が見えているはずで、それでも分からないということは——。


 言葉が出てこなかった僕は、その場を後にした。階段を一気に駆け下り、車に飛び乗る。


 耳が痛くなるほど、しんとした車の中に、自分の呼吸音だけが聞こえた。


「クソっ! 瑛斗が戻ってきたって、これじゃ……」


 誰も自分のことを覚えていないなんて。これでは、瑛斗の居場所がなくなってしまう。


「……もしかして、それが麗華の狙いなのか?」


 自分のことを覚えている人間が誰もいない状態になり、追い詰められたら、瑛斗も自分の家に戻りたいとは思わなくなるかも知れない。心が折れたところを麗華に洗脳されたら、今度こそ……夢の中から、抜け出せなくなるかも知れない。


 ハンドルに額を当てて、息を整えた。そして大きく深呼吸をする。


 瑛斗のことを考えると胸が苦しくなるが、こんなところで嘆いたところで、何も変えられないことは分かる。


 ——とりあえず、御澄宮司のところへ行こう。


 僕は車のエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る