3

 ——何の音だ? 奥さんと娘は、まだ帰ってきていないよな……?


 ぺた、ぺた、ぺた


 音は早くなり、どんどん近づいてくる。僕の心臓が脈打つ音も、同じように早くなって行く。


 ぺた、ぺた、ぺた、ぺた……ぺた


 ——止ま……った?


 全身がざわりと粟立つ。間違いなく、何かが近くに来た。それはおそらく、生きている人間ではない、ということも分かる。


 僕は恐怖を押し殺して、廊下をじっと見つめた。


 すると、部屋の入り口に、小さな手が姿を現した。位置は随分と下の方だ。そして、その小さな手は、ドアの枠をしっかりと掴んだ。


「ままぁ……?」


 声がして、頭が視えた後、幼い子供が部屋の前に立った——。


「はぁっ、あ」無意識に、言葉にならない声が、自分から漏れたのが分かる。全身が震え上がり、思わず顔を背けた。


 子供の顔の右半分は、潰れて赤黒い。

 あごからは、血が滴り落ちた。

 首は、潰れた顔の反対側に折れ曲がっている。


 あまりにも悲惨な状態の子供を、直視できなかった。


「まま!」


 男の子が、真っ赤な手を前に突き出して、僕の方へ走り出す。


「うあぁ!」


 僕は、反射的に横へ飛び退いた。心臓が早鐘を打ち、身体はガタガタと震えている。浅い呼吸しかできなくなり、眩暈がする。


「ままぁ」


 男の子は、僕の前を通り過ぎて、麗華に飛びつく。


瑠衣るい。ただいま」


「おそいよぉ〜。おなかすいたぁ」


「はいはい。瑠衣は食いしん坊だものね」


 麗華はいつの間にか、子供の顔と同じくらいの大きさの、ガラスの入れ物を持っている。丸い形のガラスは、菱形の凹凸とした模様がいくつも並び、青い光を放っていた。上の部分は金色の金属で、細かい装飾が施してある。


 ——アンティークの、ランタン……?


「わぁ〜! いっぱい、いるねぇ!」


「瑠衣の為に、たくさんってきたのよ」


 麗華は優しく微笑み、子供の顔の前で、入れ物の蓋を開けた。




 青い光が入れ物の中から、ふわりと飛んだ。


 ——あの光は、何だろう……。ガラスが青いわけじゃなかったのか。


 澄んだ空のような、青い光だ。

 光の玉が、部屋中に広がって行く。


 ふわりふわりと舞う光を見ていると、何かを思い出した。


 そうか、蛍だ。

 大きな蛍が舞っているようで、幻想的だ。


 ……でも、よく見たら、丸くない。


 歪な形をしている面がある……。

 他の光もそうだ。


 みんな一面だけ、歪な形になっている。

 大きな凹みが、3つ。


 何だか、あの形は……。


 僕の方へ、光の玉が一つ、飛んできた。目の前で見ると、青はより鮮やかに、明るく見える。暗い部屋の中では眩しくて、眉間に力が入った。


 そして、あの歪な面が、僕の方を向いた——。


「うわぁあ!」


 歪な面は、空虚くうきょ眼窩がんかと、大きく開いた口に視える。それに、消え入りそうなほど小さな、うなり声のような、悲鳴のような声が聞こえた。


 ——まさか……!


 僕は周りを飛んでいる、光の玉に目をやった。


 全ての表情が消えた、うつろな顔。

 頬を引きつらせ、怯えている顔。

 唇を震わせ、泣いている顔。

 眉間にしわを寄せ、怒った顔。

 口端を下げ、絶望したような顔。


「嘘だろ……。これ全部、顔……?」


 声が震え、歯がカチカチと音を立てた。


「……魂よ。あなたの中にもあるわ。見せてあげましょうか?」


 麗華は震える僕を見て、くすくすと笑った。


「あんた、さっき、『獲ってきた』って……。人を、殺してきたってことなのか……?」


「魂を全部引き抜いてしまえば、死ぬに決まっているでしょう。まぁ……少しだけなら、死にはしないけれど」


 麗華は事もなげに言う。

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