2

 床に横たわる瑛斗を見ていると、どこからともなく、冷たい空気が流れてきた。


 ひんやりとしたものが身体にまとわりついてきて、気持ちが悪い。真冬の霧の中にいるようだ。手足は粟立あわだち、冷たくなって行く。


 ジジジッ

 廊下から音が聞こえて、灯りが点滅した。それはおそらく、電球が切れそうなわけではなくて——。


 僕は、自分の予想が外れてくれることを願った。嫌な気配が、どんどん近づいて来ている気がする。


 その時ふと、左目の端に、小さな白いものが映った。豆粒のようなものだ。床の上にある、白くて丸いものは5つに増え、長細く伸びた。


 ——あぁ、やっぱり……!


 最初は、つま先しか視えていなかった足が現れ、膝丈のワンピースを着ていると分かるようになり、徐々に身体全体が視えるようになって行く。それは一瞬の出来事だった。


 そして、白しかなかった人型は、全身が視えた頃には、色鮮やかになっていた。


 長い黒髪の美しい女性が、僕を見下ろしている。


 ——現実でも、こんなにはっきりと視えるのか。


 女性と視線がぶつかると、一気に全身の毛が逆立った。圧倒的な威圧感に、冷や汗が止まらない。まるで、首元にナイフの刃を当てられているような恐怖を感じる。


 ——でも、ここで怖気付いたら、もう取り返しがつかなくなる。


「……少し出ていた間に、何をしているの……? 邪魔をしないでって、言ったでしょう?」


 女性は冷たい視線を僕へ向けた。


「麗華って、あんたのことだよな? 瑛斗に何をしたんだ」


「どうして、私の名前を知っているの? ……もしかして、瑛斗さんに聞いたの?」


 麗華が嬉しそうに、目を輝かせる。ゆっくりとした口調は、夢の中と同じだ。


「そんなことは、どうでもいい。瑛斗を元に戻してくれ……!」


「瑛斗さんはただ、眠っているだけよ。深い、深い、眠りだけどね……。瑛斗さんが、自分で望んだことよ? 夢の中なら、お金の心配をしなくてもいいから、働く必要はない。それに、自分に無関心な奥さんよりも、私といた方が幸せなのよ。分かるでしょう? 瑛斗さんも、ずっと夢の中にいたいって、言っているわ」


 麗華は口元に笑みを浮かべた。


「あんたが、瑛斗を操っているだけだろ!」


「操る……? どうやって?」


「どうやって……。知らないけど! 僕の魂を抜こうとしたじゃないか! 操るような力を持っていたって、おかしくないだろ」


「私は、そんな力は持っていないわ。漫画の見過ぎなんじゃないの?」


 麗華は口元に手を当て、くすくすと笑った。


「それに瑛斗は、奥さんや娘のことを大切に想っているんだ。夢の中の方がいいなんて、言うわけがない!」


「本当よ。信じないのなら、本人に訊くといいわ」


 麗華が瑛斗の方へ向かって、歩き出す。


「何をする気だ!」


 僕はそれを阻止しようと、慌てて手を突き出した。全く起きる気配がない瑛斗を守れるのは、僕だけだ。


 しかし、麗華はそれを気に留める様子もなく、近付いてくる。床を歩いているが、ほんの少し浮いているように感じた。


 そして、麗華がふわりと膝を曲げると、美しい顔が、僕の目の前に来た。痛みを感じるような冷気に包まれ、息苦しい。


「それ以上、近寄る……な」


 瑛斗の前で膝をついている僕を、麗華はすうっと、すり抜けて行った。


 ——やっぱり僕は、麗華に触れることができないのか。


 予想はしていたが、完全にこちらが不利だ。


 勢いよく振り向くと、麗華が瑛斗の頬に触れている。


「ねぇ、瑛斗さん。お友達が、あなたの幸せを壊そうとしているの。これからも毎日働いて、家事をやって、子供の面倒を見ろって。いくら頑張っても、奥さんはあなたのことなんて、どうでもいいと思っているのにね」


『……いやだ……』


 頭の中に響くように、瑛斗の声が聞こえた。床に寝転がっている瑛斗の顔に目をやるが、起きている気配はない。


「瑛斗さんは、元の生活に戻りたい?」


『いやだ……。ずっと、ここにいたい……』


 瑛斗の声は、今にも泣き出しそうな声に聞こえる。たしかに、色々と不満があるようなことは言っていたが、今はそれを肯定するわけにはいかない。


「大変なのは分かるけど、本当に、奥さんや娘と会えなくなってもいいのか? 瑛斗だって、娘が可愛いって言ってただろ!」


『でも、もう、疲れたんだ……』


「瑛斗……」


 ——どうしよう。とりあえず、叩き起こしてみようか……。




 ぺた、ぺた……


 廊下から、湿った塊を、床に落とすような音が聞こえた。

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