第4章 ロウ狽

1

 瑛斗えいとのマンションに着くと、すでに辺りは夕闇に染まっていた。


 一階の照明はチカチカと点滅していて、昼間に来た時よりも、さらに古びた建物に見える。いくつかの部屋には電気がついているようだが、足元が見えない程、暗い。


 車を降りると、微かに耳鳴りがした。明るい時間には、駐車場では耳鳴りはしなかったはずだ。人ならざるものは、夜になると力が増すのだろうか。


 ——瑛斗は、会ってくれるかな……。


 不安を抱えたまま、僕はチャイムを押した。


「はい」


 女性の声が聞こえて、玄関のドアが開いた。出てきたのは小柄な女性で、僕の顔をじっと見つめている。髪は茶色で、肩くらいまでの長さだ。


 ——この人が、瑛斗の奥さんか。


 もっと早く会っていれば、今と状況は違っていたのだろうか。少なくとも、街中で見かけた時には、異常な事態に気付けていたのかも知れない。


「あの……。僕は瑛斗の友達で、一ノ瀬蒼汰いちのせそうたといいます」


「あなたが一ノ瀬さんですか。はじめまして、妻の里帆りほです。主人から、高校の同級生だと聞きました」


「はい、そうなんです。それで……瑛斗は家にいますか?」


「えぇ、いますよ。でも……」


「何かあったんですか?」


「実は……。昨日からちょっと、様子がおかしいんです。話しかけても上の空で、目も合わせてくれなくて……。今は、1人で部屋にこもっているんです。一応声をかけてみますが、出てくるかどうかは、分からないです」


 奥さんは、戸惑いの表情を浮かべている。


 瑛斗が今置かれている状況を、説明してあげたいという気持ちはあるが、それは簡単なことではない。今、初めて会った人間に、「旦那さんは、家にいる霊に、取り憑かれたのかも知れません」なんて言われても、信じる人はいない。頭がおかしいと思われて、瑛斗に会えなくなるのも困る。


「じゃあ、僕が声をかけてみてもいいですか?」


「はい。……でも本当に、答えるかどうかは、分かりませんよ?」


「大丈夫です」


「分かりました。では……どうぞ」


 奥さんがスリッパを出してくれたので、僕は玄関の中に足を踏み入れる。


 前回と同じように、耳鳴りと頭痛は激しくなり、眩暈がした。押さえつけられるような圧迫感も相変わらずで、僕は耐え切れずにふらついてしまった。


「あっ。大丈夫ですか?」


「あぁ、ちょっとふらついただけです。すみません」


 僕は奥さんにバレないように、深呼吸をした。


「主人がいるのは、奥の部屋です」


 奥さんはスタスタと歩いて行く。


 ——奥さんも、何ともないんだな。


 この家に住んでいる人間には、影響が出ないようになっているのだろうか。いくら僕に霊感があると言っても、こんなに差が出るのは、おかしい気がする。瑛斗や家族にも、多少なりとも影響が出るはずなのに——。


 廊下の先を見ると、ぐにゃりと視界が歪む。僕は倒れないように、壁に手をつきながら、瑛斗がいる部屋へ向かう。


「ここです」


 奥さんに案内された部屋のドアを、コンコン、とノックする。


「瑛斗。話がしたいんだ。開けてくれ」


 声をかけても、瑛斗は何も答えない。ドアノブを回してみたが、鍵が掛かっているようだ。


「なぁ、頼むから開けてくれ」


 今度は拳を握って、強めにドアを叩く。それでも何の返事もない。


「すみません。やっぱり、だめみたいですね……」


 横にいる奥さんが、申し訳なさそうに言う。


「そうですね……。さっき、昨日から様子がおかしい、と言っていましたよね。正確にはいつ頃ですか?」


「昨日の夜です。私が、22時頃にパートから帰って来た時にはもう、今のような状態でした」


 ——僕がここを出てから、奥さんが帰ってくるまでに、一体何があったんだろう。4〜5時間くらいだよな……。


「そうですか……。すみません、ここの鍵はありますか?」


「あぁ、はい。ありますけど……。無理やり開けて、大丈夫でしょうか」


「僕が1人で開けるので、心配しないでください。それと、できれば瑛斗と2人きりで、話をしたいんですけど……」


「分かりました。では、少し出てきてもいいでしょうか? コンビニで支払いをしてこないといけなくて。そんなに時間はかからないと思いますが……」


 その方が僕にとっても都合がいい。あの麗華という女性が現れる可能性もある。奥さんや娘はいない方がいい。


「大丈夫ですよ。……もしかしたら揉めるかも知れないので、ゆっくりでお願いします」


「はい。すみません」


 奥さんは僕に鍵を渡し、娘を抱いて外へ出た。


 ——これでもう、遠慮する必要はないな。


 僕は鍵を開け、そっとドアを開いた。


「瑛斗……」


 真っ暗な部屋の真ん中に、瑛斗が座っている。反対側を向いて座っているので、どんな表情なのかは分からない。


 部屋の中はタンスや、衣装ケースが置かれている。物置部屋だろうか。


「何やってるんだよ、こんなところで。昨日、僕が帰った後に、何があったんだ?」


「……」


 瑛斗は膝を抱いて座っている。声をかけても、見向きもしない。瑛斗がこんな状態になっているのは、間違いなく、あの麗華という女性のせいだと思う。


 でも、なぜ僕や奥さんを避けるようになったのだろうか。その理由を確かめたい。何かに取り憑かれて、性格が変わった人を見たことはあるが、あまりにも急すぎる。


「さっきは、放っておいてくれって言われたけどさ。それは無理だよ。瑛斗だって、早くこの家から出たいって言っていたじゃないか。何があったのか、ちゃんと話してくれ。頼むから」


 僕は、動こうとしない瑛斗の肩を掴んだ。そして、顔を見ようとすると——。


 瑛斗の身体が、ぐらりと傾いた。


「えっ……?」


 時間の流れが、遅くなったように感じた。瑛斗はゆっくりと床に倒れ込み、身動き一つしない。僕は一瞬、頭の中が真っ白になった。


「瑛斗? どうしたんだよ……」


 座って肩を揺すっても、瑛斗はぐったりと横たわり、何の反応もない。不安になった僕は、彼の口元に手をかざした。すると、微かな風を感じる。


 ——もしかして、寝ているのか? 座ったままで……?


 壁に寄りかかっているならまだ分かる気もするが、座ったままで、揺すられても起きないほど、熟睡できるものだろうか。


 何一つ状況が飲み込めない僕は、ただ呆然と、瑛斗の顔を見つめ続けた——。

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