第28話 随分と安い幸せだな

「……水族館って初めてきたかも」


 ぼんやりと目の前の建物を見上げながら莉世が呟く。


 とある日の午後。

 俺と莉世は大学の授業を終えてから、水族館へ出かけていた。


「俺もかなり久しぶりだ。来ようと思わないと来ない場所だし。そういう意味ではチケットを譲ってくれた黛に感謝だな」


 というのも、今日のチケットは数日前に黛から譲ってもらったもの。

 しかもペアチケットだったから、何かがあったのだろう。

 ……何があったのかまでは聞いてないけれど、黛は元気そうだったから心配はしなくていいと思う。


「もしかしなくても張り切ってる? 一旦戻って着替えてくるくらいだし」

「それもあるけど、こっちの服で出歩くのに慣れたいと思って」


 今の莉世は黒と青をベースとした色使いの、ヒラヒラとした服装。

 フリルが段状にあしらわれたスカートは緩く膨らんでいる。

 上も襟、袖、胸元に至るまで、布で彩られていた。


 綺麗より可愛いが先にくるそれを、莉世は見事に着こなしている。


 水族館に来るまでの間も、周りの人が莉世を見ているのを隣で感じていた。

 本人もそれに気づいているのか、俺の傍から離れることがなかった。

 それはまるで子どもが親からはぐれないようにする姿と似通っていて……そんな歳でもないかと思い直す。


「それより中、入ろ?」

「前売りチケットは並ばなくていいらしい。楽でいいな」

「並ぶにしても平日だし、時間も時間だから人は少なそう」


 入場口には数人だけ並んでいるのが見えた。

 その近くに設置された案内板に前売りチケット購入者の入場口の案内もあった。


 俺たちもそろそろいくかと入場口へ向かい、チケットを通して水族館の中へ。


 ほんのりと薄暗く、寒さを感じない程度の冷たい空気。

 なんとなく落ち着く雰囲気だ。


 バイト先の喫茶店もそうだけど、方向性がちょっと違うように感じられる。

 喫茶店が暖かい感じなのに対して、水族館は自然的なそれ。


 俺の中にある記憶で近しいのは修学旅行で登った山だろうか。


 そんなことを考えながら進む俺たちを出迎えたのは、多数の小魚が泳ぐ水槽。

 自然の環境を再現しているのか流木や藻類、岩とかが配置されている。

 似たような水槽がいくつか並んでいるけれど、泳ぐ魚が全部違う。


「……綺麗」


 莉世が目を輝かせながら水槽を覗き込む。

 こんな形じゃないと魚を間近で見る機会はそうそうない。

 しかも見栄えするように展示されているから、さらに綺麗に見える。


 俺も莉世の隣で水槽を眺めてみる。

 悠々と泳ぐ魚、揺れる水草、ぷかぷかと水上へ上がっていく気泡。


 それと、ガラスの水槽に薄っすらと浮かび上がる莉世の顔。


 無邪気な子どもみたいな、そういう表情。


「楽しい?」

「来たことがなかったから新鮮。湊は?」

「俺は……なんか落ち着く。時間の流れを忘れられるっていうか」

「ちょっとわかる。こういうのを見てると眠くなってくるかも」

「……寝るなよ?」


 なんて話しつつ水槽を眺め、魚の解説を読んで、写真を撮ってみたりする。

 意外な才能を見せたのは莉世だった。


 莉世が「見て」と撮った写真は、水槽の綺麗な世界をうまく切り取っていた。


 写真は一瞬を切り取るもの。

 莉世のそれには動きや空気感が宿っている……気がした。


 普通に撮っただけと言っていたけど、服のデザインをしているくらいだ。

 その経験が写真にも活きているのかもしれない。


 入り口から少し進むと、円柱型の水槽が並ぶ区画にきた。

 水槽に入っていたのは白っぽい風船みたいなシルエットの生き物、クラゲ。


「あっちは、クラゲ?」

「ぽいな」

「ふわふわしてたり、紐みたいなのがヒラヒラしてたり……なんだか面白い」


 漂うようにして泳ぐそれを、ぼんやりと莉世が目で追う。

 ライトアップもされていた。

 一定周期でいろんな色の光がクラゲを照らして、薄暗い室内を彩る。


 それを、莉世は夢中になって見ていて。


「――湊も、ほら」


 囁くように響いた声。

 袖が優しく引かれて、間近で瞬く碧い瞳。


 水槽の青と並ぶ、瞳の碧。


 気色の違う二種類のあおの対比。

 この暗さと雰囲気も相まって、吸い込まれるみたいな魅力を感じた。


 ……ああ、この顔は、よくない。


「……そうだな」


 すぐさま思考を逸らすべく水槽へ視線を戻す。

 莉世も隣に並んで再び水槽を眺める。


 穏やかなひとときが、流れて。


「結構好きかも、こういうの」

「それならよかった」

「でも、一人だったら綺麗ってだけで終わってた。楽しいのは湊が一緒にいてくれるから」

「…………随分と安い幸せだな」

「こういうのに値段って付けられるものなの?」


 それは、どうだろうか。

 買えないほどの価値って意味なら、俺もわかる。


 莉世と一緒にこの気持ちを共有できていることは、とても嬉しく思う。


『まもなくイルカショーの開演時間となります。どうぞ会場へお集まりください』


「イルカショーだって。行ってみるか?」

「ん。……でも、ずぶ濡れになるのは嫌かも」

「前の方に座らなければ濡れないと思うけど……念のためにレインコートを買ってみてもいいかもな。こういう場所なら売ってるはず」

「今日は後ろでいい。機会はいくらでもある」


 それもそうかと納得して――その時に莉世もいたらいいな、なんて浮かんだ思いを振り払って、イルカショーの会場へ向かった。


―――

数日東京に滞在していた都合でストックが消え失せています。なるべく毎日更新目指しますけど、なくてもお許しを……(謝)

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