第22話 居場所

「――湊、そこにいる?」


 やや籠った莉世の声に若干ドキリとしながら「いるよ」と答える。

 それだけの会話なのに、精神的なエネルギーをごっそり持っていかれた気がして、ひっそりとため息をついた。


 莉世がいるのは浴室の中。

 もう髪と身体を洗い終えて、湯を張った浴槽で温まっているらしい。


 一方で俺は脱衣所……の、少しだけ開いた浴室に繋がる扉に背を向けて座っていた。


 そう。

 浴室の扉は、少しだけ開いている。


 つまり――莉世は現在進行形で入浴中で、俺が振り向けば一糸纏わぬ莉世がいるわけで。


 ……本当に意味がわからないけど、莉世がこのまま話したいと言い出したために仕方なく受け入れた。


 ならば約束に従って自然とこういう形になる。

 正直話題が話題じゃなければ断っていた。


 ……推測だけど、莉世は顔を合わせて話したくないんだと思う。

 あの場で聞いた断片的な情報が真実ならショッキングな話題になるのは明白だ。


 俺から変な目で、ともすれば嫌悪を抱かれる可能性を嫌ったのだろう。

 顔を合わせていたら表情の機微で嫌でもわかる。


 とはいえ、俺のメンタルはゴリゴリ削られていく。

 当たり前だけど脱いだ服は洗濯機に放り込まれているし、さっきから水音が止まないしで、真後ろに莉世がいるのだとこれでもかと意識させられる。


 だからって変な気を起こして莉世の信用を裏切る気は……これは信用の結果か??


「聞き取りにくいかもしれないけど、続けていい?」

「……大丈夫だ」

「ん。まず、私の家のことから話す」


 前置きと、数秒の間を置いて莉世が続ける。


「――私の家はお父さんとお母さん、それから私の三人家族だった。でも、小学二年生の時にお母さんが交通事故で亡くなったの」

「でも、定臣さんは……」


 莉世が妻を殺した。

 その真実が交通事故にしろ、あまり驚くことはなかった。

 俺が口に出来なかった続きを予想したのか「そう」と肯定の一言がかかる。


「お母さんが亡くなったのは間接的に私のせい。誕生日プレゼントをお母さんと二人で買いに行った帰りのこと。その日の私は誕生日で浮かれてた。だから信号無視をして突っ込んできた車に気づくのが遅れた。間一髪のところで気づいたお母さんが私を突き飛ばして助けようとしけど、お母さんだけが轢かれた」


 淡々と、事実だけを連ねる莉世の声。


 どんな返事をすればいいのかわからず、思考に沈黙が落ちた。


「すぐ病院に運ばれたけど、打ち所が悪くて仕事を抜けてきたお父さんが到着する前に亡くなった。だから、お父さんは私を恨んでる。不運な事故ならともかく、原因の一端は私にあるから」

「…………っ」

「私が浮かれていなければもっと早く車に気づけて、お母さんは助かったかもしれない。そもそも誕生日じゃなければ出かけることもなかった。もっと言えば、私がいなければ――」

「それは、ダメだ」


 たまらず声を上げると、ぱしゃりと水音が返ってくる。


「莉世はお母さんのことが好きだったんだろ? なら、自分がいなければよかったなんて言うべきじゃない。たとえ本気で思っていなくても、口にしたら本当にそうだったんじゃないかって自分の想いを錯覚してしまう」

「……ごめん。湊の言う通り。…………それでも、どうしても私がちゃんとしていたらって考えてしまう。悩んでも悔やんでも、お母さんは生き返らないのにね」


 すん、と鼻をすする音が妙に響く。


 紛れもなく、それは莉世にとっての後悔。

自分の手では変えられない、どうしようもない類の過去だった。


「だから私は家に居場所がない。唯一の家族であるお父さんにも疎まれてる。そのはずなのに、お父さんは変わらず私の口座に不自由しない額の生活費を振り込んでる。よっぽど私と関わりたくないみたい。それなら家から追い出せばいいはずなのに、好きにしろとしか言ってこない」

「……それが定臣さんなりの罪滅ぼしって考えることは出来ない?」


 一度顔を合わせただけでも、定臣さんが気難しい性格なのはなんとなくわかった。


 だから過去にきつい当たり方をしてしまったけど、仲直りをする機会を見失ってしまい、今のような関係になっている……と考えるのは安直か?


「わからない。お父さんと話す機会がそもそも少ないし、まともに取り合ってくれた試しもない。でも、あの日、珍しく帰ってきたお父さんと鉢合わせて、私の格好を見て言い争いになって、勢いで家を出た」

「それが、莉世と繁華街で出会った日だったのか。でも、なんで服装を見て言い合いに発展するんだ?」

「お母さんと買いに行った誕生日プレゼントがロリィタ服だった。ある意味、お母さんを失った原因の一つ。お父さんにとっては視界に入れたくないほど嫌いなものなんだと思う」


 ……そういうことか。


 やっと莉世の事情を把握できた。


 定臣さんが莉世へあんな言葉を浴びせた感情も、莉世が家出をした経緯も、ロリィタ服が好きでデザイナーまでやっているのに人前で着るのを恐れていた理由も。


 莉世にとってロリィタ服は母親とのかけがえのない思い出で、罪の象徴。

 定臣さんにとっては亡き妻を思い出してしまう存在。


「私が家出した経緯は隠すことなく伝えたつもり。湊がどう思っても構わない。それを制限する権利は私にはない。軽蔑した、出ていけ――そう言うなら大人しく出ていく。……私はこれ以上、湊に嫌われたくない」


 これで終わりとばかりに莉世は言葉を区切る。


 莉世の昔話を頭の中で咀嚼しながら、考える。


 俺には莉世に罪や責任があるとは思えない。

 言ってしまえば世界にありふれた不慮の事故で、偶然莉世の母親だけが犠牲になった悲しい出来事。

 莉世が助かったのも結果論に過ぎない。


 車が信号無視をして突っ込んできたなら、絶対的に悪いのは車の方。


 それでも自分が悪いと思い込んでしまうのは莉世が優しすぎるからか。


「俺には莉世を嫌う理由があるようには思えなかった」

「……本当に?」

「こんなつまらない嘘をつく理由がない。証明しろって言われても難しいけど……とにかく、莉世を追い出したり、軽蔑するようなことはないから安心して」

「…………わかった。湊を信じる」


 水音に、喉がつっかえたかのような音が混ざる。


 ……もしかして泣いているのか?


 背を向けたままだからわからないし、振り向くことも出来ない。

 仮にこんな状況じゃなくても見なかったと思う。


 泣いている顔なんて、見られたくないだろうから。


「でも、やっぱり不可解なのは定臣さんの態度だな。俺でも莉世が悪くないとわかるのに、それを父親の定臣さんが理解していないとは思えない」

「……理性と感情は別物。お母さんも言ってた。お父さんは不器用なだけって」

「大切な人を失ったら攻撃的になってしまうのもわからなくはないけど……だからって娘にそこまで辛く当たるものか?」

「それは違う。お父さんはお母さんが死んでから、滅多に家に帰ってこなくなった。ずっと仕事ばかりで、顔を合わせるのも月に一度あればいい方。三者面談にも来たことがない。家事は家政婦さんが定期的に来ていたから困らなかった。生活費も、進学の費用も何も言わずに出してくれた。ここまで育ててくれたことには感謝してる。今回はたまたま、タイミングが悪かっただけだと思う」


 莉世がそういう風に思えるのはある種の諦めか。


 期待しなければ失望もしない。

 そんな日々を続けた結果、莉世は孤独に慣れた。

 けれど定臣さんと言い合い、家出したことで孤独を再認識し、誰かと過ごすことを求めたのかもしれない。


 莉世の居場所は、あの家にはない。

 下手をしたら、この世界のどこにもない。


 その莉世の居場所になれるのが俺だけだとしたら……。


「莉世はこの先、どうするんだ? 事情が事情だけに、俺としては莉世に無理に帰れとは言えな――」


 ざばぁ。

 水音が響き、ひた、ひたという足音。


 浴室の扉が軋みつつも開く。


「……ごめん。湯あたり、した」

「え」


 ふにゃふにゃとした声音で告げられたそれに驚いて振り向けば、すっかり茹で上がった莉世が立っていて。


 視界を埋め尽くす、ほんのり赤みがかった肌色。

 身体を隠すものは何もなく、一糸纏わぬそれを見てしまう。


 一瞬、頭が真っ白になるも、それどころじゃないと気を取り直す。


 焦点が合っていない莉世の瞳。

 一歩踏み出すも真っすぐに歩けず、ふらついた莉世の身体を咄嗟に支えた。


「莉世っ!?」

「……湊の服、濡れちゃった。約束、も」

「今はいいからっ! ああくそ、とりあえずバスタオル巻いて部屋に連れてって、冷やすやつ持ってこないと――」

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