第6話 美味しい
「湊。お風呂、どっちから入る?」
ミートソースパスタを腹に収め、食器の片づけを済ませてソファに座ると、タイミングを見計らったかのようにタブレットを弄っていた琴朱鷺が聞いてくる。
風呂の順番か……一人暮らしをしてからは考えたこともなかった。
「入りたいなら先にいいぞ」
「家主より先でいいの?」
「そんなことを気にするなら泊めたりしてない」
先でも後でも好きに入れば――って、待てよ?
俺が後に風呂に入った場合、そのお湯は琴朱鷺が浸かった後なのでは……?
……。
…………。
………………。
「難しい顔してる」
「……いや、大したことじゃない」
本当に大したことじゃないんだ。
琴朱鷺が入った後に俺がお湯を張り替えれば済む話。
問題があるとすれば……お湯を張り替えるにあたって発生する水道代と電気代。
一日一回だとしても月換算でおよそ三十回。
それだけ回数が積み重なれば払う金額は当然増える。
そして残念なことに俺には金銭的余裕がない。
両親からの仕送りと俺のバイト代で大学生活がギリギリ成り立っている。
この背景を加味したうえで風呂の順番について思考を戻す。
取れる選択肢は大きく分けて三つ。
俺が先か、琴朱鷺が先か、どちらにしてもお湯を張り替えるか。
論点は――
「それで、お風呂どうする?」
耳へ感じたくすぐったさと共に囁かれた声で思考が引き戻される。
見れば、琴朱鷺の顔がすぐ隣に。
きめ細やかな乳白色の肌に、紅一点と咲く赤い唇。
ぱちり、と長い睫毛が一つ瞬いて。
「私は先でも後でもいい。でも、後の方がいいかも」
「……一応聞くけど理由は?」
「お風呂が長くなっても湊が困らない」
「あー……」
なるほどそう来たか。
女性の風呂は長いと聞くし、母親もそうだった。
それなら確かに琴朱鷺は後の方が俺に気を使う必要がないのかもしれない。
しかし、俺が浸かった後のお湯を……というのもどうなのだろう。
身体を洗ってから湯船に入っているし、浴槽自体も定期的に洗っている。
汚いと言われる理由は限りなくないはず。
だとしても、なあ。
「風呂は好きか?」
「普通。入るまでが億劫だけど」
その気持ちはよくわかる。
入ってしまえばどうということはないのにな。
……って、そうじゃなく。
琴朱鷺が特別風呂に入るのを好んでいるのであれば先に入ってもらった方がいいかと思ったが、そうじゃないなら適当でいい気がする。
正直、この思考に決着をつけるには資金力か偶然の力に頼るほかないと思い始めてしまった。
「じゃんけんで決めるか」
「湊がそれでいいなら」
「ならいくぞ。最初はグー、じゃんけん――」
ぽん、と合図に合わせて出したのはグー。
対する琴朱鷺は小さめな手を緩く開いたパー。
「私の勝ち」
「らしいな」
「めんどくさくならないうちに入ってくる」
「おう」
順番が決まるなり、琴朱鷺はすぐにソファを立つ。
着替えを取るためにキャリーケースを開け、がさごそとする物音だけを聞きながら視線はテレビに固定。
「私が入って、湊も入ったらケーキ食べよ?」
「そうだな」
洗面所へ向かう琴朱鷺を送り出し、俺はテレビからスマホに視線を移す。
漫画アプリの更新分をまったりと読んでいると、画面上部に通知を告げるバナーが表示された。
『『白雪姫』とはどうだった? ヤった?』
明らかに前半分だけでいいだろうと思うようなメッセージは黛からだった。
まあ、流石に気になるか。
他人と関わることが極稀な琴朱鷺がわざわざ俺を呼び止めて話があると言ってきたんだからな。
「どうかえしたものか」
少しだけ迷って『ちょっと前に助けたお礼を言われただけ』と返す。
間違いではないし、正直に話すと色々面倒な事態に発展しそうだ。
黛はあれで口の堅い男だとわかってはいるけれど……当分は真実を隠そうと思う。
琴朱鷺の事情にも関わってしまうからな。
そんなことを考えていると洗面所の方から扉の開く音が聞こえ――
「ちょっ、琴朱鷺っ!?」
何故かバスタオル一枚だけを身体に巻いた琴朱鷺が目の前を横切る。
着替え持って行ったはずだよねっ!?
「ドライヤー忘れた」
「洗面台にあるやつ使っていいから!」
「そうなの? 見当たらなかったけど」
「棚の中に入ってるから!」
「見てなかった。妙なことするなって言ってたから」
……棚を開けるのが妙なこと判定なのか。
まあうん、これに関しては伝えてなかった俺も悪いな。
「今日は自分のやつ使う」
琴朱鷺はキャリーケースから自分のドライヤーを探し当てたらしい。
静かな足音が洗面所の方へ戻っていくのを聴覚だけで捉え続けていると、
「湊。コンセント、どこ?」
再び呼ぶ声がした。
「……洗面台のところにないか?」
「あった。ありがと」
これでやっと終わりかと息をつけば、ドライヤーの音が響いてくる。
……扉開けっ放しなのかよ。
俺がそっちに行かなければいい話だけど無防備過ぎるだろ。
二度ならず三度も助けたから警戒する必要がない相手とでも思われているのか?
「……勘弁してくれ」
こんなにも精神力を消耗する日々が続くのかと考えるとため息も出てしまう。
悟りを開けばこの煩悩からも解放されるのだろうか。
今日から精神統一のために瞑想でも初めて見ようかなんて本気で考え始めたあたりで「お風呂、ありがと」と声がかかる。
恐る恐る瞼を開けて声の方を見た時には、もう琴朱鷺は俺の隣にすとんと腰を下ろしている途中だった。
膝より上までしかないショートパンツから伸びる、細くも柔らかさを視覚でも伝えてくる脚。
一番上のボタンは風呂上がりで熱いからなのか開けられていて鎖骨が覗いている。
長い白髪は胸の前に纏めて流され、くっきり見えるうなじの側面は艶やかだ。
しかも同じボディソープやシャンプーを使ったとは思えない甘さを伴った匂いを感じて、鼓動が次第に早まっていく。
琴朱鷺が可愛いのはわかりきっていた。
でも……風呂上がりのこれは反則だろ。
「お風呂空いたよ?」
「…………ああ、うん。そうだな」
生返事しか出来ない。
こんなにも無防備な琴朱鷺を直視したらどうにかなってしまいそうだった。
逃亡ついでに「風呂行ってくる」と告げ、足早に部屋を後にする。
洗濯機には琴朱鷺がさっきまで着ていたと思われる下着が無造作に入れられていて頭を抱えたが、何も見なかったことにしてまだ湯気の立ち込める浴室へ。
そしてこれまた無心無心無心と心の中で平静を繕い続け……てるのは果たして無心と言えるのだろうか、なんて思考を何周もしながら風呂を上がった。
「やっと来た」
脱衣所を出るなりすぐに琴朱鷺から声がかかる。
テーブルには皿に乗せられた二つのショートケーキ。
……そんなに食べたかったのか。
「先に食べててもよかったのに」
「先に食べたら本末転倒。これは湊と食べるために買ってきたケーキだから」
さいですか。
それなら待たせちゃ悪いと思い、俺もソファに座ってフォークを取る。
「祝い事もないのにケーキを食べるって不思議な気分だ」
「祝い事なら、ある」
「……まさかお泊り記念とか言わないよな?」
「違う。けど、教えない」
……俺が何か見逃しているのか?
わからないけど、教えないって言ってるなら無理やり聞き出そうとも思わない。
「先、食べて」
じーっと俺を見つめる琴朱鷺の言葉と視線に促され、フォークでショートケーキの先の方を取り、一口。
ふわふわとしたスポンジをコーティングし、間にも挟まれているのは甘さ控えめのホイップクリームとスライスされたイチゴ。
なんてことはない普通のショートケーキ。
なのに……染みるほど、美味しい。
「美味しい?」
「……ああ」
「よかった」
緩く琴朱鷺が笑んで、続くように小さな口でショートケーキを頬張った。
「――美味しい」
そんな琴朱鷺に視線を奪われていることに気づいてしまった俺はたっぷり乗ったクリームの甘さで思考を誤魔化した。
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