第5話 そういう約束だから

「……俺、意志が弱すぎやしないか?」


 琴朱鷺をしばらく家に泊めると約束した後、とても嫌そうにしながらも荷物を取りに一旦家に帰った彼女と別れて俺は一人で帰宅した。

 家の場所は喫茶店で連絡先を交換して送ってあるので多分問題ない。

 地図を見ても迷うようなレベルの方向音痴じゃなければ大丈夫だと思う。


 そして少し早めだけど琴朱鷺がいない間に夕食の支度を済ませてしまおうと考え、ミートソースに使うひき肉を炒めている最中につい口にしてしまった。


「頼まれると本当に弱いんだよな……特に無理だって言っててもごり押しされると本当に断れない。セールスお断りの札を玄関に掲げておいて正解だった」


 もしなかったら今頃変な壺を買ったりしてたかも。

 金銭的には余裕がないのでそういうのは本当に無理。


 琴朱鷺の頼みを承諾したのも迷惑がかかるのが自分だけだからだし。


 生活費は琴朱鷺持ちで、俺はあくまで寝起きする場所を提供するだけ。

 ワンルームだったら即死だったけど、幸いなことに俺が借りているマンションの部屋は1DK。

 もう一人くらい寝泊まりする余裕はある。


 代わりに俺の心の平穏がなくなるが。


「琴朱鷺が寝る用の布団買ってこないとな」


 時々独り言を漏らしながらも料理の手は動かし続ける。


 ひき肉の色が変わってきたところでトマト缶とコンソメなどの調味料を適量加えて混ぜていく。

 フライパンからはいい匂いが立ち上ってきて、空腹感が刺激される。

 もう何度も作っているから失敗はしなさそうだ。


 それはともかく。


 同じ部屋で寝泊まりするだけでも心臓に悪いのに、同じベッドで寝るのは無理な話。

 琴朱鷺のように可愛くて、好きに身体を使えばいい――なんて平気な顔で言ってくる異性ならなおさらだ。


 盛り時の男子大学生の理性なんて、たとえわが身のことであろうと欠片も信用できない。


 ……でも、本当に琴朱鷺はうちに泊まるつもりなのか?

 名前も知らない男の家よりは安心なのかもしれないけど、泊まるなら同性の友達とかの方が適している。

 琴朱鷺が大学でそれらしい人と関わっているところを見たことがないけど。


「だからって俺の家が安心なのかと聞かれると微妙じゃないか?」


 俺には琴朱鷺をどうこうしようという思いはない……つもりだ。

 どちらかと言えば距離を置きたい。

 現実的には真逆に話が進みつつあるものの、俺のせいじゃないと信じてる。


 ……わかってる。

 現実逃避だよな、これ。


「はぁ……なんであそこで断るのを諦めたかなあ。押しに弱すぎる。なんだかんだで琴朱鷺も結構強引だし」


 ため息をつきつつもミートソースの味をケチャップ、ソース、砂糖などで整える。

 最後に味見をして……うん、こんなもんかな。

 ここまで来たらあとは様子を見ながら適当に混ぜつつ煮るだけ。


 麺の方は琴朱鷺が来てからでいいや。

 どうせ茹でるのなんてすぐだし、まだ夕食には早い時間だ。


「とはいえ泊めるって決めちゃったしな。覚悟決めよう。てか、いつまで泊まる気なんだろう。……まさか無期限?」


 ありえる。

 あれだけ家に帰りたくないのなら許される限りは居座り続けそうだ。

 そうなったらもう終わりだな。


 俺じゃあどうしようもない事情がない限り追い出せる気がしない。


 情けない未来のことを考えていると、ピンポーンとインターホンの音が鳴った。

 同時にスマホにメッセージの通知が来る。


『着いた』


 琴朱鷺からの簡素なそれを見た俺は、念のためドアスコープから様子を確認。

 大きなキャリーケースを携え、右手に紙袋を提げた琴朱鷺がいたことに僅かな緊張を感じながらも扉を開けて中に招き入れた。


「…………」

「そんなにジロジロ見て、何か変?」

「ああいや、ほんとに来たなと思って」

「そういう約束だから。あと、これ」


 琴朱鷺に手渡された紙袋を受け取る。


「なにこれ」

「ケーキ。食後に食べようと思って」

「……さっき食べてなかったっけ?」

「それはそれ。湊の分も買ってきた。真っ赤なイチゴが乗ったショートケーキ」

「貰えるのは嬉しいけど……気を使ったとか?」

「それもあるけど私が湊と食べたいと思ったから」


 どんな理由があれば俺とケーキを食べたいと思うのだろうか。

 考えてもわかりそうにないのでありがたく頂くことにしよう。


「……いい匂い」


 スンスンと鼻を鳴らした琴朱鷺がふと呟いたのを聞いて、変な臭いでもしたかなと僅かに焦るも、


「煮込んでるミートソースかな。夕飯の準備だけしておいた。食べられる?」

「大丈夫。ありがとう」


 お礼を言われて、照れくさい気分になる。


 匂いの元がミートソースでよかった。

 掃除はこまめにしているけど自分じゃ気づかない体臭とか部屋の臭いとかだったら凹む。


「荷物はあの辺に置いていいから」


 そのまま琴朱鷺を部屋に通し予め開けておいたスペースを指さしながら伝えると、キャリーケースを置きに向かった。

 あの中に一体何が入っているんだろう。

 衣服が大半だと思うけど、女の子なら化粧品とかヘアアイロンとかそういうのもあるのかもしれない。


 ……後で琴朱鷺の服を収納するケースか何かを買ってこないと。

 普通の服はいいとしても下着とかは見られたくないだろうし。


「夕飯はもう少ししてからにしようと思ってたけど大丈夫?」

「湊のタイミングでいい」

「おっけー。ミートソースが煮えたら麵を茹でるだけだから」


 ミートソースは弱火で放置することにしてリビングに戻り、テレビをつける。

 琴朱鷺と二人きりの状況で無音はちょっとしんどい。


 中古家具屋で買ったソファに腰を下ろすとキャリーケースを置いてタブレットだけ持った琴朱鷺が戻って来て、


「隣、いい?」


 空いているソファのスペースを見ながら控えめに聞いてくる。


「好きにしてくれ」

「ありがと」


 意識しないように答えると琴朱鷺は拳一つ分くらいの距離を空けて座った。


 ソファ自体がそこまで大きくない二人用なのもあるけど……近い。

 睫毛の一本一本まで数えられるくらいの距離感。

 長い髪がソファに垂れ下がり、琴朱鷺の横顔を半分ほど幕のように覆い隠す。


 そんな琴朱鷺の視線はタブレットの画面へ落ちていて、何をしているのかわからないけどタップしたりスライドしたりと忙しそうだ。


 まるで俺を意識している素振りのない琴朱鷺を見ていると、男の家に泊まるなんて日常茶飯事なのかもしれないと思ってしまう。

 俺? 異性が家に泊まるのは初めて……いや、二回目か。

 今のところどうやっても慣れる気がしない。


「あ」


 急に琴朱鷺が何かを思い出したかのように呟き、


「パンツとブラ、忘れた」

「…………」


 とんでもないことを口にした琴朱鷺から目を逸らしながら盛大にため息をつくのだった。


 俺、本当にやっていけるのか?

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