第4話 私がいたら自由に発散できないでしょ?
「――琴朱鷺、待たせた」
五限の授業が終わってすぐ食堂に向かうと、端の方の席でタブレットを弄っていた琴朱鷺が声に反応して振り返り、
「急に言い出したのは私。それよりも……ちゃんと来てくれるんだ」
「あんな人前で呼び出されたら無視もできない。で、話ってなんだ?」
「場所を変える。ここは話しにくい」
午後のため食堂は空いているが、それでも居座って勉強やらなんやらをしている人の注意がこっちへ向いているのがわかる。
それだけ琴朱鷺は人目を集めるということだろう。
俺としても場所を変えてもらった方が助かる。
この視線の多さは……ちょっとしんどい。
琴朱鷺が今日発した言葉だけで去年以上はあるんじゃないかと益のない考え事をしながら食堂を後にした。
大学を出てからも視線が付きまとい続けるのは琴朱鷺が単純に可愛いからなんだろうと思いながら歩くこと十分ほど。
琴朱鷺の案内で入ったのは古めかしいレコードが静かなクラシックを奏でる、こぢんまりとした喫茶店だった。
客層はやや高めで、マダムたちが楽しげに会話をする声が聞こえてくる。
俺たちは空いていた奥の席に座り、メニューの冊子が運ばれた。
「何でも頼んで。支払いは私がする」
「……いや、自分のは自分で払うって」
「ここ、ちょっと高いよ?」
「喫茶店で高いって言っても――」
メニューを開いて飛び込んできたのはコーヒー一杯700円という目を疑う価格を最低基準とした数字の羅列だった。
俺も喫茶店でバイトをしているけどこんなに高くないぞ?
コーヒーは半額以下だ。
「ね?」
「……なんでこんなに高いんだ」
「大学生はメインの客層じゃない」
「それなら琴朱鷺も違うだろ」
「お金だけは使いきれないくらい渡されてるから」
寂しげに口にする琴朱鷺。
聞いちゃいけないことだったのか?
「……まあ、自分の分は自分で払う」
「本当に気にしなくていいのに」
「俺が気にする。昨日知り合ったばかりの女の子に払ってもらうのは流石にない」
「……そっか。私、日替わりケーキセットのアールグレイ。湊は?」
「俺は……スペシャルブレンドで」
スペシャルブレンドは普通のコーヒーよりも100円高いけど、バイトでも喫茶店で働く者として味が値段相応なのか確かめたかった。
ベルを鳴らして店員さんに注文して、さてと琴朱鷺に向き直る。
「本題に入ろう。こんなところに連れてまで話したいことってなんだ? ……まさかと思うけど、これからも泊めて欲しい――なんて話じゃないよな」
訝しげに琴朱鷺に聞けば「そう」と一切誤魔化すことなく認めた。
「帰っていいか」
呆れてしまい席を立つも、俺の手首を琴朱鷺に掴まれる。
「コーヒー代は置いてくから」
「話を聞くだけ聞いて欲しい」
「答えはノー。これは変わらない」
話すだけ時間の無駄だと手首を振り払い、財布からコーヒー代の千円を取り出そうとして。
「――一日、一万円出す。私を泊めて欲しい」
今まで聞いた琴朱鷺の声の中で一番声量が大きな言葉が俺の足を止めさせた。
琴朱鷺の声は思いのほか喫茶店内に響いていたのかマダムの話し声が止み、こちらへ「迷惑よ」みたいな視線を刺してくる。
俺としてはこのまま琴朱鷺を放置して帰ってもいいけど、大学でまた俺を探して話しかけてくる未来が容易に想像できてしまう。
……。
…………。
………………。
「…………話を聞くだけだからな」
渋々……本当に渋々席に座り直すと、琴朱鷺はほっと息をついたように見えた。
断じて一日一万円という金額に惹かれたわけではない。
「先に言っておくが、大前提として付き合ってもいない男女が一つ屋根の下で過ごすのは無理がある」
「付き合ってたらいいの?」
「……付き合ってたら泊ってもいいって俺が言ったら付き合おうとするのか?」
「どうしてわかったの」
俺は一人、絶句する。
もう既に意味が分からない。
なにがあったら琴朱鷺が俺と付き合うなんて極論に発展するのか。
「湊は男女が一緒にいたら身体の関係になるリスクがあるって考えてる?」
琴朱鷺、割とストレートに言ってくるな。
「そうだな。もしそれで関係が拗れたら顔合わせるのが気まずいだろ? あと、こういう場合に被害者になるのは大抵女性側……俺たちの話で言えば琴朱鷺。危険性は丸々肥えた羊が狼を縄張りに招き入れるようなものだ」
「別に湊がしたいならそうすればいい」
「は?」
思いもよらない解答に思わず間抜けな声が漏れてしまう。
「私を泊める対価はお金じゃなくそっちの方がいいなら、それでもいい。相手が知らない人から湊になるだけ」
淡々と口にする琴朱鷺は本当になんとも思っていなさそうで。
その在り方に、どうしようもない歪さを覚えてしまう。
「――ご注文のスペシャルブレンドと日替わりケーキセットになります」
微妙な空気を払拭するように店員さんが俺にはコーヒーの注がれたカップを、琴朱鷺にはガトーショコラと紅茶が運ばれた。
ごゆっくり、と一礼して店員さんが去ると「今日はガトーショコラ。大当たり」と琴朱鷺がフォークをケーキに伸ばす。
「コーヒーも美味しいと思う。ブラックは飲めないけど、カフェオレは時々頼むから」
「……そうか」
直前にあんな会話をしていたとは思えないほど軽い調子でコーヒーを勧められた。
湯気に乗って運ばれてくる香りはとても落ち着く。
気分を変えるためにもまずは一口飲んでみて、
「…………なんか、すごい」
思わず称賛だけが口に出た。
苦みはまろやかかつ濃厚で、後味の酸味はすっきりしているからかしつこくない。
どんな種類をどんな配分で割り振ったらこうなるのかわからないけど……ここのマスターの腕がいいことだけは確かだ。
値段は高いけど、たまの贅沢ならいいかもな。
琴朱鷺もガトーショコラを頬張り目を細めている。
……俺もケーキセット、頼めばよかったな。
スペシャルブレンドがこんなに美味しいならケーキも絶対美味しい。
「喜んでくれたならよかった」
「……ここを紹介してくれたことには礼を言うよ。でも、あの話はナシだ。無理。絶対無理」
琴朱鷺が家に泊まる件は断固拒否の姿勢を崩さない。
無理なものは無理。
「そこをどうかお願い」
「無理。家に帰りたくないのならそこらへんのホテルやネカフェでもいいだろ? 金に困っているわけじゃなさそうだし」
こんな金額設定の喫茶店に平然と入るくらいだ。
しかも使いきれないくらいお金を貰っているとも本人が言っていた。
だから俺に一泊一万円なんて条件を突きつけた。
コーヒーを間に挟みつつ指摘すると、琴朱鷺は静かにフォークを置く。
「……全部、湊の言う通り。私はお金には困ってない。家に帰りたくないって理由だけで泊まる場所を探すならホテルでじゅうぶん。他の人に泊めてもらおうとしたのは昨日が最初で最後」
「だったらなんで俺の家に泊まることにこだわる?」
「確かめるため」
「……なにを?」
困惑する俺。
ぱちり、と両瞼を瞬かせた琴朱鷺が真っすぐに俺を見た。
「
「……なんのことだ?」
「独りじゃないのは昨日が久しぶりだった。誰かが近くにいてくれるのはすごく心が落ち着いた。だから、確かめたい」
……妙な話になってきたな。
俺の家に泊まった昨日だけ感じた安心感。
普通であれば自分の家で享受できるはずのそれを琴朱鷺は家で感じられない。
それは少しだけ悲しく思う。
……ああ、ダメだ。
気持ちが琴朱鷺に偏った。
同情の余地があると、手を伸ばす理由があると思ってしまった。
これだからお人好しって言われるんだろうな。
「はあぁ…………」
長い長いため息をつく。
バカなことをしようとしているのはわかってる。
それでもここまで純粋に助けを求められては、抗えない。
「――条件」
「……え」
「条件を守れるなら琴朱鷺を泊めてもいい」
「絶対守る」
「……まだ何も言ってないだろ」
食い気味な琴朱鷺にストップをかけながら眉間を揉む。
連日話してみて、琴朱鷺は意外とおしゃべりで素直で騙されやすそうな性格をしているように感じた。
純粋ながら無垢ではない。
人の汚い部分を知りながら、それでもいいと受け入れている。
それを強さとみるか弱さとみるかは個人の判断に委ねられるだろう。
こんな子を放っておくなんて、無理だ。
「俺から出す条件は二つ。俺の家で妙なことをしないこと。琴朱鷺の生活費は自分で出すこと。悪いが俺は親から仕送りを貰って、バイトもしてギリギリなんだ。とてもじゃないがもう一人分は払えない」
「生活費は自分で出すつもりだった。けど、少しだけ条件を変えてほしい」
「……聞くだけ聞こう」
「私から湊には手を出さない。でも、もしも湊が私に手を出したくなったら好きにして」
……はい?
「もっとわかりやすく言った方がいいならそうする。――私にはエッチなことし放題。男の子は色々大変って聞くから、そのお詫び。私がいたら自由に発散できないでしょ?」
「…………あー、うん。そうだね。そうかもしれないね」
俺はもうどうにでもなれと思い、遠い目をしながらぞんざいに話を切り上げる。
薄々感じていたが、琴朱鷺ってもしかしなくても相当な変人なのでは?
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