マザー・テレサの「愛」の種子が着地した瞬間

渡邊思音

マザー・テレサの「愛」の種子が着地した瞬間

 義務教育では、年間35時間の道徳の授業が必修となっている。そもそも、道徳の授業は、必要か、必要ではないか、議論が分かれるところだ。しかし、多くの国民が特定の信仰宗教や絶対的な畏怖の対象ももたぬこの国で、子どもたちが、「正しく生きること」について考える時間を、1週間に一度ぐらいもってもいいのではないか。そう、現役中学校教師の私としては考える。

 道徳の授業の中では、個人の考えは決して否定されてはならない。道徳は、様々な人の、様々な考えを通して、人の心の善なるものを生徒自身が感じたり、よりよく生きるとはどういうことか考えたり、社会貢献する喜びを他者と共有したりする時間だ。その中で、生徒の意識が自然に「より良く生きる」方向へ変容していってくれたら・・・・・・授業をしながら、いつもそのことを考えている。

 だが実は、道徳の授業は、授業者である教員自身の心の変容、生き方の変容をも引き起こしている。それは文部科学省の人たちも想定していなかったことであるに違いない。しかし、まぎれもない事実だ。


 最近、道徳の授業で、マザー・テレサの教材を取り上げた。舞台は1952年インド東部・コルカタ。強烈な太陽の熱がスラム街の地面をじりじりと焼いている。疲れ果てている人々が、僅(わず)かな日陰を求めて路上をさまよっている。連日のように、多くの人々が路上で死を迎える、地獄絵のような風景……。ある日、マザー・テレサは路上に倒れている老婆の亡骸(なきがら)を見つけた。他に道行く人で、老婆に目をくれる人はいない。コルカタのスラム街では、このような光景は日常茶飯事なのだ。マザーはひざまずき、彼女の前で十字を切った。立ち去ろうとすると、“死体”の手がピクリと動いた。(まだ生きている!)そう思ったマザーは、すぐさま老婆を担ぎ上げ、病院へと急いだ。老婆を見て、病院の院長は以下のことを言った。「マザー。この病院にそんな余裕はありません。どうせ死ぬに決まっている人間は手当のしようもないし、収容するスペースもありません。この人はあなたがたまたま見かけた病人でしょう。あなたにとってはその人一人かもしれないけれども、このコルカタには、こういう人は何百人といますから……」

 このテキストを範読(はんどく)した後、私は、生徒たちに問いかけた。「マザー以外の人が老婆に『見向きもしない』のはなぜだろう?」

 生徒たちの意見は以下の通りだ。

   「どうせ死ぬ人間を助けても時間の無駄だから」

   「同じように死にそうな人はたくさんいるから」

   「自分が生きることで精一杯だから」

 私は、生徒たちの意見をうなずきながら聞き、それを板書した。板書している間にふと、疑問を抱く。「私だったら、この老婆を助けるのか」。そして、また生徒たちに問いかけた。「今は周りの人の気持ちになって答えてもらったけど、みんなだったらどうかな。自分自身がこの老婆を見かけたらどうだろう。マザーのように老婆を助けますか。それとも周りの人たちのように振る舞いますか」

 一瞬、教室は静かになった。が、しばらくして生徒たちは先ほどと同じ発言を繰り返した。

「なるほど。先生自身も、こんな場面に遭遇したとき、みんなと同じように、この『見向きもしない人たち』と同じ行動をとるんじゃないかなって思いました」

 生徒たちは真剣に聞いている。私は続けた。

「目の前に死にそうな人がいる。かわいそう。助けたい。でも『どうせ死んでしまう人だから助けても無駄だし、同じように死にそうな人はたくさんいる。この老婆だけが特別ではない。私だって生きるだけで精一杯なんだ。この老婆を助けている余裕はない。でも・・・・・・。』そこで言葉を切る。

「でも……不思議なんだけど、どうして私は最初にこの老婆を『かわいそう』『助けたい』と思ったのに、次の瞬間に『助けない理由』を探すんだろう。『助けたい』っていう気持ちは確かにはっきりと自分の中から沸き起こってきたのに、どうしてその気持ちを押し込めるように、助けない理由をいくつも考えて、老婆のことを見捨てるんだろう。私は、自分自身がなぜこういう行動を取るのか不思議に思ったし、そのような行動を取る、自分自身を恥ずかしいと思いました。マザー・テレサのように多くの人を助けられないかもしれないけど、これから、少なくとも、自分の身の回りにいる人たちだけでも、全力で彼らの力になり、助けてあげたいと思います。」

 生徒たちはじっと私を見つめていた。私が言ったことを、生徒たちも自分自身のこととして捉え、自身に問いかけているのだろうか。


 授業後の振り返りシートでは、彼らのこんなコメントが見られた。

「自らをかえりみずに他者を助けるマザー・テレサのように行動はできないが、他者に寄り添い、自分のことのように考えるなど、ささいなことではあるけれど、相手にとってはそれが救いになるような、そのような自分にできることから始めて、人に対して愛をもって接したい。」

「先生が言っていたとおり、友達に相談を受けたときは、相手の気持ちに寄り添って全力で話を聞いてあげたり、心配したり、これ以上傷つかないように相談にのってあげたいです。意味のない行動はきっとないから、自分が相手にやってあげたい、やりたいと思ったことをする。」


 マザー・テレサが亡くなって、26年。道徳のテキストを通して、マザー・テレサの愛の種子は私の中で芽吹き、またその種子は数人の生徒たちの心に着地した。その種子が育つか、また発芽不良となり、朽ちてしまうかは、まだ誰にもわからない。

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マザー・テレサの「愛」の種子が着地した瞬間 渡邊思音 @monetwatanabe

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