キセキ

優美香

01 はじまり

――人々に告げよ。

「恐れることはない、勇気を持て。神はわたしたちを救いに来られる」——

(イザヤ35章4節より)


 礼拝堂が揺れた。

 そのとき、長椅子に腰かけていた。隣に寝かせていた我が子を引き寄せる。生後四か月の赤ん坊は瞼を閉じたまま、煩わしそうに眉をしかめた。

 胸元に我が子を抱いた直後だった。遠くの距離で轟音が、またひとつ響いてくる。木製の扉がバリバリと音を立てて揺れる。礼拝堂のステンドグラスは頑丈な作りらしく、割れる気配がない。

「イリくん、ごめんね」

 イリヤは、ぱっちりと目を開けてわたしを見つめた。ちいさな唇が、うっすらと動く。

 かすかな声が聴こえた。

「まぁーぁ」

 呼びかけに、何度もうなずく。

「うん、ママだよ。安心してね」

 安心してね、わたし自身が誰かに言われたいと常日頃から願っていた言葉だ。でも誰も、たとえ嘘でもそんな言葉をかけてくれる人などいなかった。

 そんな自分がいう言葉は、どれだけの重みがあるだろう。我が子とはいえ、空々しく響いてはいないだろうか。子を産み落としてから、激しい不安に襲われるのはこんなときだ。

 けれども、たとえかたちだけでも伝えなければ。

「安心して。ここは、壊れないようになっているから」

 イリヤは満足そうに眼を閉じて、「ふうっ」と息をついた。そして両頬に、えくぼを作る。

「ね、お腹すいてない?」

 生後まもない赤ん坊が、言葉を返してくれるわけがない。でもイリヤの些細な反応で、わたしは分かる。こんな表情のまま寝息を立てるときは、空腹感はないということ。

 お腹が空いたときと、おむつを汚したとき以外は、それほど激しく泣くような子ではない。

 それは唯一の救いだった。


 一年前の、ある夜。

 この世界の片隅で、戦火が広がった知らせがあった。

 海を隔てた、とても遠い国のニュースだ。長く、くすぶっていたいさかいということで以前から認知されていたものだ。わたしも、まったく関心がなかった。周りの誰も気に留めてすら、いなかった。

 たった一日、二日で終わるはずだった対岸の火事に、なぜか飲み込まれることになったときも皆は言った。

「どうせ、すぐ終わる」

「デマを流さないで」

「正しく怖がって」

 今となっては嘘くさい言葉の羅列でしかない。

 結局、わたしたちの眼前に炎が立ち塞がったのだから。

 わたしは他の人たちと同様に、太く激しい火の束が街をばらばらにしていく光景を指を咥えてみていることしか出来なかった。

 開戦を聞いた日の夜更け、イリヤを産んだ。

 ストレッチャーに乗せられて分娩室を出たときに、ひとりの助産師が言ってくれた。

「すごく、いい子を産んだね。おめでとう」

「……おめでとう、なの」

 わたし以外、誰も頼ることができない子どもが「いい子」なのだろうか。

 孤独でいっぱいの、わたしのところに来てくれた男の子が。

 しかも、こんな日に生まれ落ちた子が「いい子」なのだろうか。

 うつむいていたわたしを笑い飛ばすように、助産師は言った。

「当然じゃないの! わたしが取り上げた子なのよ! あなたの希望になる男の子なの、もっと胸を張っていいのよ!」

 涙ぐんだわたしの肩を、助産師がぎゅっと抱きしめた。

「これから、これから。いっぱい、いいことがあるよ」

 ……そうなったら、いいな。

 励ましてくれた助産師さんの言葉が、現実になったらいいな。

 ずっと、そう思って生きてきた。


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キセキ 優美香 @yumika75

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