第65話 恋の泉
水面がユラユラと揺れている。小夜子が動揺しているんだ。
僕を捨てなければ、合わさるという名の捨て去る、殺すという行為を恐れているのだ、人一倍。
「怖くない、怖くない。怖くないよ。小夜子、永遠に会えなくなるわけじゃないよ。また会いに来たければ会えるよ……」
小夜子はまたぽろぽろと涙をこぼして、僕に近づいた。
手を強く握りしめて僕の顔を見つめ返した。
「私は真一さんを失いたくない……」
「大丈夫だから、小夜子……」
僕も、小夜子。小夜子を僕は失いたくない。
失ったら世界が終るまで悲しまなくちゃいけない。
僕は小夜子の頬にそっとキスをしてあげた。
ほんの一瞬の甘いキスを。もう昔みたいにいつまでもくっつきあうようなキスはしたくなかった。
「真一さん、ダメよ。私が汚れてしまう。私が私じゃなくなってしまう……」
僕は耳元で囁いた。ほっと和むように。
「――君がこの世界で一番傷ついているんだ。穢れは僕がすべて引き受ける」
小夜子はビックと背中を縮こまらせて僕の腕の中にひっそりと入った。
腕の中で小さく息を吐きながら僕の目をずっと見ている。
そんな悲しい目で見ないでおくれよ。
僕も悲しくなるから……。僕はさらに腕の中をギュッとした。
小夜子を思い切り抱き抱え、母親が小さな子どもを抱くように愛おしげに胸の中で暖めた。
小夜子は凍えながらも温もりを得ようと手を強く握っている。
その手はまだ冷たかった。
こんなに傷ついているのに。
こんなに傷つけたのに。
僕は合わさることくらいでしか、小夜子を救えないんだ。
「真一さん、ごめんなさい……」
「何度も謝らなくていいんだよ? 小夜子が一番傷ついている」
小夜子が僕の顔に手を伸ばした。
自分から唇を合わせた。
僕も拒みはしなかった。
小夜子が自分から意思を持ってキスをするのは最初で最後だからだ。
僕らは長い間、口づけをし合った。
たがいに傷を、悲しみを舐め合うように、これで世界中の悲しみが融解し合うように。
何度も相手の温もりを求めた。
唇の先が痛々しかった。
それはかつてのチクリと刺さった傷のようにも思えた。
足先が水に濡れると小夜子が息を吹き返したようにここも濡れたようにも思えた。
ここは切ない恋の泉だ。
月影に恋した少女が生れついた地。
これで僕は安心して眠れるだろう。
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