第5話 鏡の国のアリス


「今日も真一君は小夜子さんにダダをこねているんだね? 解離性障害の診断が下りてからもう二年近くたつのになかなか病状はよくならいないね。薬もまだ増えるかもしれない。本当は何錠も飲むと赤ちゃんを産む将来の準備のためにも良くないんだけれども……、小夜子さん、聞いていますか? 先生の声はあなたに聞こえていますか。おっ、今は真一君がいるね。小夜子さんのお母さんからも一日で人格がコロコロ変わっていたときからするとだいぶ良くなったって話されていたけれども、なかなか、真一君という人格は統合できないね」


 僕は君を守るために細心の注意を払って対応した。


 その男をきつく睨んだ。



「まだあなたには真一君が宿っている」


 僕と小夜子はふたりで一つだ。 


 小夜子のことは小さい頃から知っているんだから、せいぜい二、三年しか診察していない、ヤブ医者に何がわかるか。



「小夜子さん、あなたは解離性障害という病気の深刻さを冷静に知らなければいけないよ。解離性障害、普通じゃ、多重人格っていうか、これもまた誤解が多い病気なんだよ。いいかい、俗本なんかは絶対に参考にしてはいけないよ。多重人格性障害が解離性障害の診断名に変更してから、もうだいぶ経つのに世間は大きな勘違いをしているからね。患者さんは心の底から苦しいと思っているのに映画だけの話だとか、ウソつきだとか、世間の人は簡単に悪く言うからね」


 鏡の国のアリスのように僕も虚ろだった。



「小夜子さん、いいですか。そういうたぐいの本は読んではいけないよ。あれは真っ赤な嘘だ。本当の病気からはかけ離れすぎているんだ。治療はまず間違った情報を排除するのから始まるんだ。あなたは読書好きだから図書館にこもって調べてしまうのだろうけれども、そういう多重人格の本のほとんどは間違い。そのせいで多くの患者さんが、情報に振り回されて治療が遅れてしまうんだ」


 やぶ医者の話はとても長い。


「解離性障害は幼児のトラウマが原因でなる病気なんだ。だから、ストーカーとか、無差別殺人者とか、そういった異常者の病気では決してないんだ。むしろ、心に傷を持った人がなる病気なんだ。親との愛着が持てなかったり、虐待を受けたり、周りの子どもと打ち解けなかったりすると、あなたのような患者さんは自分の心を遠くに飛ばして、その場を乗り越えようとしてしまう」


 鏡の底に罅が割れ込む。



「これは非常に危険なことなんだ。心を飛ばす、ということは自分の中に自分とは違うキャラクターを作ってしまうことなんだ。自分とはまったく違うキャラクターに心の傷を背負わせてしまうとこの病気になってしまう。もっとも自分の中に人格を作ってしまうくらい、感受性が強い子どもがこの病気になるんだ。虐待を受けた子どもでもめったにこの病気にはならないし、虐待を受けていなくても感受性が強すぎることは弱いストレスでもなってしまう。正しい知識をここで得るんだよ」


 鏡の中にいる少女。


 それが小夜子。



「これからの治療方針は薬物療法を交えながら交代人格を尊重し、空想の世界に浸らず、自分自身を冷静に見つめ、過去と区切りをつけることだよ。真一君がまだあなたの心を覆っている間は治ることもできないんだ。もう多重人格の本を読むのをやめるんだよ」


「お前に言われる筋合いはない!」


 僕はもちろん即座に反抗した。


 君の丸みを帯びた身体のまま。


 女の身体はやはり居心地が悪い。


 何と言うか、男の身体よりも芯から丸太棒が軸に突き刺さっているようで全体的に重いのだ。


 僕がシカトをするとその男は深いため息をついた。


「小夜子さん、余計な情報を入れてはいけないんだよ。まず、あなたの治療の最初の一歩はそれだから」



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