乗り換える

三鹿ショート

乗り換える

 私は、何のために生きてきたのだろうか。

 暴力を振るう両親の下で育ち、治安の悪い学校で他の生徒に虐げられながらも勉学に励み、理不尽な上司に耐えながらも交際相手のために働き続けたが、その恋人は私の友人に奪われてしまい、失意の中で集合住宅に戻ると、火事で焼失していた。

 苦境に負けることなく、何時の日か報われるだろうと努力を続けてきたが、何をしたところで無駄であるということがよく分かった。

 手元に残っていたわずかな金銭を使用し、人気の無い山奥まで移動すると、人間がぶら下がったとしても折れそうにない枝に縄を引っ掛ける。

 そして、縄の先端に作った輪に首を通し、足場を崩そうとしたとき、

「早まってはなりません」

 何時の間にか、見知らぬ女性が姿を現していた。

 私は輪に首を通したまま、

「あなたが誰かは知りませんが、邪魔をしないでください。私は、自分の人生が馬鹿馬鹿しくなったのです」

 私がそう告げると、彼女は口元を緩めた。

「では、別の人生を生きれば良いのではないでしょうか」


***


 いわく、彼女は人間の意識を他者に移動させることができるらしい。

 奇妙な言葉を口にする彼女を否定しないのは、私が既に人生を諦め、何もかもがどうでもよくなっていることが影響しているのだろう。

 彼女は一冊の本を取り出すと、私に手渡した。

 中身を確認したところ、見知らぬ人間たちの顔写真と共に、その名前や年齢などの個人情報が記載されていた。

「その方々は、あなたのように人生を諦めているのです。ですが、自分にとってその人生が最悪なものだったとしても、他者からすれば、恵まれているということも考えられます。立場を変えることで、見える景色は異なるのです。だからこそ、私は他者の意識を他者に移動させるという活動をしているのです。良ければ、好きな人間を選んでください。その人間として新たに生きることが出来るようにしましょう」

 彼女の言葉通り、本の中には私の個人情報も記載されていた。

 これまで生きてきた中で、このような奇妙な事態に遭遇したことはないが、まさか死の直前になって経験することになるとは、想像もしていなかった。

 彼女の言葉が真実であるのかどうかは不明だが、既に人生を諦めているために、何が起きたところで動ずることもないだろう。

 私は本に記載されていた人間の中から無作為に一人を選び、指差した。

「では、目を閉じてください」

 彼女の言葉に従って瞑目したと同時に、周囲が騒がしくなった。

 目を開けると、見慣れない景色が飛び込んできた。

 性質の悪そうな人間たちが闊歩し、すぐ近くでは殴り合いが発生しているが止める人間は存在せず、遠くから悲鳴のようなものが聞こえてきた。

 立ち尽くしている私にぶっつかってきた相手が鋭い眼差しを向けてきたために、私は頭を下げた。

 頭を上げようとしたところで、私は飲食店の硝子に映った人間を目にした。

 それは、私ではなかった。

 だが、見覚えがあった。

 数秒ほど考えたところで、私が選んだ男性だということに気が付いた。


***


 本に記載されていた情報を思い出しながら男性の自宅へと移動すると、父親らしき人間が怒鳴ってきた。

 記憶が正しければ、この男性は父親からの長年の暴力に耐えることができなくなり、この世を去ることを決めたということだったはずだ。

 私にしてみれば、怒鳴ることしかできない眼前の老人は、何の脅威でもなかった。

 私は老人の細い腕を掴むと、壁に向かって放り投げた。

 痛みに顔を歪めながらも罵倒することを止めない相手に、私は追撃を加えていく。

 やがて、老人は動かなくなった。

 罪悪感をまるで覚えていないのは、私にとってこの老人が赤の他人であるからなのだろう。

 それでも、露見すれば大事と化すだろうと考え、私は老人の死体を処理した。

 処理を終了させてから、私はこの男性に未来を与えたのだとということに気が付いた。

 しかし、かつての男性が喜ぶことは出来ず、私にとって新たな人生が与えられたということになるのだ。

 この男性としての人生が成功とするとは限らないが、気分転換にはなるだろうと考え、私は新たな人生を歩むことにした。


***


 この男性は、父親の一件を除けば、恵まれていたらしい。

 私よりも給料が高く、他者からの評判も良い。

 中には、明らかな好意を示している女性も存在していた。

 これほどまでの人生を諦めるなど、勿体ないではないか。

 ゆえに、私はこの男性として生きることを決めた。

 周囲が違和感を覚えることがないようにかつての男性を演ずることに尽力したことが幸いしたのか、何の問題も無く過ごすことができている。

 とある女性と交際を開始することもでき、子どもの数まで相談するようになった。

 以前の私ならば、想像することすらできなかった幸福である。

 私は、山奥で出会った彼女に対する感謝の気持ちを毎日のように吐き続けた。


***


「浮かない顔をして、どうかしたのか」

「どうしたも何も、彼らを騙しているような気がしてならないのです」

「騙しているわけではない。夢を見ているようなものだ。苦痛の多かった人生の終わりにまで苦しむ必要は無い。ゆえに、我々はこのように幸福な夢を見せ、生命活動が終了する苦しみから解放しているのだ。いわば、これは人助けである」

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