先生は何事も無かったみたいに授業を始めた。僕を気にかけないでいてくれるのなら、最初からそうして欲しいものだ。


 時は進んで、気づけば昼休みだった。僕は火鉢さんが購買に行った隙に、彼女の筆箱を物色した。周りの奴らも購買に行っているので見られることはない。


「あった……」


 彼女の筆箱にも、カッターナイフがあったのだ。思わぬ奇跡に口元を歪める。


 彼女が戻ってこないうちに、僕はポケットにカッターナイフを仕舞う。


 彼女が帰ってきた後も、何事もなかったかのように平然と昼ご飯を食べた。筆箱を閉め忘れたせいで、危うく犯行がばれるところだった。彼女は自分の筆箱の中身に無頓着なのか、開いていたそれを訝しみながらも中身の確認はせず、普通に閉めた。自分が閉め忘れたと結論付けたのだろう。


 放課後になった。その頃には、みんな、僕のことなんか忘れたみたいに、へらへらと笑っていた。ほら、やっぱり僕は必要ないじゃないか。少なくとも、このクラスに僕はいらない。


「立花くん、ちょっといい?」


 帰り支度を進めていた僕に火鉢さんが話しかけてきた。今朝の一件のせいでまともに返事をする気にはなれなかった。僕は目を逸らして頷く。


「さっき筆箱見たら、カッターナイフ無くなっててさ」


 僕の肩が、ビクッと跳ねる。大丈夫だ、落ち着け。絶対にばれない。根拠はないけどそう断言できる。それは、窮地に追い詰められた人間の謎の自信でしかないのだが。テスト前はそいつのせいで散々な目に遭ったことを思い出す。


「それでさ~。まあ、いっかって思って、とりあえず職員室に宿題出しに行ったんだ。そしたら、先生の机に立花くんのと同じカッターナイフがあった。私のカッターナイフもそれと同じだからさ、もしかしたら君が盗んだんじゃないかと思ったんだ」


 火鉢さんは更に距離を詰めてきた。彼女は僕の顔を覗き込んだ。彼女の瞳に映る僕は虚ろに見えた。


「で、どうなの。私のやつ、立花くんのポケットに入ってたりしない?」


 震えと動悸が加速していく。僕の意思で止められるほどヤワじゃないそれは、彼女に確信を与えるには十分だった。僕のポケットに彼女の手が入り込む。まさぐりは二秒にも満たなかったと思う。カッターナイフはすぐに見つかった。


「やっぱり、立花くんだった」


 幸い、教室には僕しかいなかった。誰かに見とがめられることはないだろう。


「そんなに欲しいなら、あげてもいいけど」


 彼女は刃先を数ミリ出すと、僕の眼前に突きつけた。

「い、いや……いらない、かな」


 僕の言葉に「盗んだくせに、いくじないな」と火鉢さんは唇を尖らせた。


「まあ、いいや。今朝よりはいくらか調子もマシになってるみたいだし、窃盗罪で訴えるのはやめておくよ」


 それが免罪符になるのかはさておき、僕はホッと胸を撫でおろす。全身から吹き出ていた冷や汗が、瞬時に冷えていく。


 火鉢さんは「その代わり」とカッターナイフを筆箱に仕舞って、こんな条件を提示してきた。


「なんで死にたいのか、教えてくれる? 私、別にいじめとかするタイプじゃないけど、こういう話は好きなんだ」


 別に話せない内容でもない。僕は頷いた。


「死にたいけど、僕はいじめられてきたわけじゃないんだ。そこそこ友達もいた。でも、どの友達も、僕の優先順位がいつも低いからさ。それで、もう何もかも嫌になって、最終的には死にたくなるレベルにまでなってしまった。それだけだよ」


 火鉢さんは「なるほど」と頷いただけだった。僕の境遇に共感しているようにも見えないし、同情しているようにも見えなかった。


 事実を知って満足している、本当にそれだけなんだろう。彼女の言った通り「こういう話が好き」なだけなんだ。


「私はさ、逆に……いや、逆と言うには若干ずれてる気がするんだけど、友達みんなを平等に扱うのが苦手なんだ。苦手ながらも続けてるけどさ。立花くんみたいな、クラスになじんでない人に平等に接するのは大変だった」


 遠回しに軽蔑された。やっぱり僕のことを見下していたんだ。まあ、『平等に接する」というモットーを掲げている時点で、彼女は自分よりも下の人間がいることを前提にしているのだ。そして、それを受け入れようとしているのだ。


「もっとはっきり言えよ。僕のこと見下してたって言えよ。回りくどい言い方せずにさ。

 何が苦手だっただよ。苦手なら関わらなければいい。僕は友人関係が苦手になってからは人と関わらないようにしてた。でもお前は関わってきた。それは、やっぱり、僕のことを見下してたからだろ。クラスメイトの優先順位の中で、僕は下のほうだろ。まあ、友達じゃないから当然っちゃ当然だけど」


 火鉢さんは顔を歪めた。涙は流さず、静かに、表情のみを使って、僕の心に強く訴えかけてくるみたいだった。


「その顔は、肯定と受け取っていいんだな」


 僕は声を落とす。否定であってほしかったのだ。でも、彼女が首を振ることはなかった。


「私のカッターさ、赤いシミついてたでしょ」


「急になんだよ」


「私も、死のうと思って持ち歩いてたんだ。私がわざわざ気を遣わなきゃいけなくなる、ダサい人間の前で死のうと思って」


 彼女は長袖を捲って、手首を差し出してきた。いくつもの横線が刻まれていた。


「『お前らのせいで、私は死ぬんだ!』ってさ、言ってやりたくて」


 その言葉を聞いたとき、彼女はどこまでもクズ、いや、ごみなんだと思った。前提条件を受け入れたはいいものの、それをいい方向に持っていく方針は彼女の中にまるで無く、なおざりにして、挙句の果てには僕みたいな奴の存在を否定した。


 僕たちのせいで死ぬんだって。


 僕たちが邪魔なんだと言外に訴えている。曲解かもしれないけど。


 ——もし、これがまっすぐな真実だとしたら。僕は、火鉢さんとは一生分かりあえないだろう。


「君は、僕みたいなのを気遣ってくれる優しい奴だけど、良い人ではないね。僕みたいなのがいるがために、死にたくなるなんてさ」


「世の中は私みたいな奴ばっかだよ。みんな、平等平等って唱えて、遠回しに誰かを馬鹿にして、見下してる。人間はそういう生き物なんだって思わなきゃ、世界は生きづらい」


 世の中は彼女みたいな奴と僕みたいな奴が、程よい数で(例えば、五分五分ぐらいで)共存しているのかもしれない。僕みたいなのがいるから、気を遣う奴が現れる。僕みたいなのがいるから、他人を見下す奴が現れる。僕みたいな奴がいるから……。


 僕みたいな奴がいるから——。


 火鉢さんと話をすると、自己嫌悪が加速する。


「火鉢さんみたいな人、嫌いだな」


「私も、立花くんみたいな、他人の物を盗ったりする人は嫌い。まあ、私は根暗のほうが、嫌いだけど」


 僕たちはお互いに苦しんでいる。お互いを嫌悪するが故に傷つき、苦しんでいる。傍から見れば、大変醜いことだろう。


「でもさ、よく考えたら、別にいじめられてるわけでもないのに苦しんでリスカしてんのがバカみたいに思えてきたんだ。だから、私は今日っきりでリスカをやめる」


「じゃあ、僕も火鉢さんみたいなクソ野郎のためにカッターナイフ持ち歩くのがバカみたいに思えてきた。あれは先生に譲るよ」


「好きにすれば? 根暗ごときが私の真似事をするのはちょっと腹立つけど」


 互いが互いを嫌悪して。罵詈雑言を浴びせて。それが良い方向に向かうなんて、一体だれが予想できただろうか。


 火鉢さんは筆箱からカッターナイフを取り出す。中庭の見渡せる廊下に出る。僕も後に続いた。


「見てて」


 そして——。


 投げた。僕の見間違いでなければ、それは綺麗に中庭の中心に落下した。


「どう? 綺麗に飛んだでしょ」


 僕のことを見下しているくせに。

 笑顔を向けてきた?

 最高にムカついた。


「ああ、物を粗末にする一面を見て、もっと嫌いになった」


 だから、僕も笑い返してやった。


 僕の悪口が春風に乗って、彼女に吹き付けた。


 僕の臆病さも、何もかもをこいつのせいにしてやろう。

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傷痕 筆入優 @i_sunnyman

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