傷痕

筆入優

 カッターナイフの伸びる音は、静謐な部屋では少々気味悪く感じた。


 程よい長さまで伸ばす。刃先を、手首の上にあてがう。目を瞑って、滑らかに、弱い力でカッターナイフを引いた。結果、腕には傷のひとつもつかなかった。まだ、勇気が足りないんだ。僕はその臆病さを嫌悪する。

 

 カッターナイフを握っていた手の力が抜け、それは床に落ちた。鋭い金属音が耳を刺す。結局こうだ。かれこれ、二年以上、同じことを繰り返している。僕は行動する勇気もなければ、自己犠牲をする勇気もないのだ。

 何がしたいのかは明白なのに、何もできないからその場で足踏みを続けている。


 現実が苦しいのなら死ねばいいのに、わざわざ自傷行為に留めるのも足踏みだ。僕は生きるか死ぬかの二者択一もできない、臆病な人間だ。


                      *


 桜が舞っていた。花弁が頭上をかすめる。そのまま、風に任せて僕の見えないところに飛んでいく。自由に、好きなだけ、好きなところに行ける花弁を見ると死にたくなる。

 

 高校の校門前に来ると視線を感じた。気になって周囲を見回すが、どこにも人影はない。あるのは日差しと青空だけだ。


 人がいなくとも視線を感じるので、僕は俯いて校門から先を駆け抜けた。玄関で靴を履き替えたときも、そのままだった。


 三階に続く階段を上がる。すれ違う生徒や先生の全員が、僕を見ているように思えて吐き気がした。今すぐ帰ってしまいたい。帰り道も見られている感覚を拭えないのは地獄だが、これから夕方まで何千人の生徒と共に過ごすより、はるかにマシだ。


 教室に入っても、誰かに見られているような感覚は消えなかった。加えて、クラスメイトの喧騒が全て自分の悪口に聞こえる。あいつ性格悪いよー、とか、イタすぎだろ、とか。僕の耳に入ってくるものに限って、主語がない。だからこそ怖い。


 僕は玄関から一貫して顔を上げることはなく、そのまま、窓際の席に座る。

 

 鞄を床に置く。 


 準備がひと段落した僕は、机に伏せて寝たふりを始めた。


 寝たふりは、暗い人間にとっての武器かのように一部からは賞賛されている。僕はむしろ反対なのだが。


 人の声がより耳に入ってきやすいのだ。それを逆手にとって、自分の悪口とそうでないものを判別するときもある。あるいは、さっきみたいに、会話の断片でしかない主語の無い悪口を聞いて気持ち悪くなることもある。聞こえすぎるのも考え物なのだ。


たちばなくん? 大丈夫?」


 明らかに僕の隣から聞こえた声は無視できないし、さすがの僕もそれを悪口とは思わない。僕は頭をゆっくりと上げる。顔は上げなかった。


「なんか具合悪そうだけど、保健室行く?」


ばちさん、毎日言ってくれてごめんね。本当に大丈夫だから」


 僕は相手の顔を見ようともせずに再び顔を伏せた。こういう気遣いがいちばん辛いのだ。火鉢さんは悪い人ではないけれど、気を遣われると殺したくなる。僕みたいな奴を心配してくる人間は総じて、僕を見下して哀れに思っているんだ。彼女は良い人であると同時にクソみたいな奴なんだ。


 どうせ僕なんて、教室にいてもいなくても変わらないのだ。だから、みんな僕のことを心配する。保健室に連れて行って、平気で帰らせる。僕が帰ったところで、教室は僕以外の人間で十分成り立つから。


「毎日それだと、いつか死んじゃうんじゃないかって不安だよ」


 火鉢さんは哀愁の漂う声色で言う。


「どうせ僕のことなんて、ほんとは何とも思ってないんだろ。僕なんか死んだってどうせ変わんない」


 それは、本当に死にそうな声だった。


 木の葉が落ちるように、ゆったりとした沈黙が教室を侵食し始める。僕の周りで喋っていた奴らの会話が、小声に変わった。それも無音になると、その周りにいた奴らも、空気を察し始めて押し黙った。小学生の時も中学生の時にも、幾度となく同じ体験をしたが、やはり慣れない。

 

 よりによって、青春のたまり場である高校でも同じことになるとは、本当に僕はツイていない。


「何勝手なこと言って——」


 火鉢さんが言う。


「勝手なことってなんだよ!」


 僕は机を拳で叩いた。いや、殴ったと言ったほうが適切だろう。机が鈍い音を立てて揺れた。


 横で、勢いよく椅子のひかれる音がした。


「そ、そんな怒んなくても」


 僕の中で、ひもが引き抜かれた気がした。まるでチェンソーみたいに心が動いて、激情が湧き上がる。

 僕は制服のポケットからカッターナイフを取り出す。顔を上げた。横を向けば火鉢さんの怒った顔がそこにあった。


「普段から持ち歩いてるんだ」


 僕はカッターナイフを見せびらかすように胸の前で掲げる。あいつイタすぎだろ、とどこかで声がした。


「だから何? それ、今関係ないでしょ」


 火鉢さんはさっきまでの優しそうな表情から一転。眉を顰め、呆れたように言う。

「いつでも死ねるように、持ってるんだ」


 嘘だ。僕は死ねない。だって怖いから。


「へー」


 火鉢さんは無感情に反応を示した。僕はてっきり、次の言葉まで間が空くと思っていた。しかしその予想は外れた。彼女は言葉を紡がなかった。代わりに右手で僕の手をはたいたのだ。カッターナイフが手から滑り落ちた。


 僕はそれを拾い、火鉢さんを睨んだ。彼女の眼差しは僕よりも鋭利だった。カッターナイフよりも切れ味が良さそうだった。


 火鉢さんの視線が更に険しくなる。


 正直、彼女はいついかなる時でも温厚な性格だと思っていた。だから、気の強い彼女を見るのはこれが初めてだ。


「今、ここで死んでやるよ。お前のせいで死ぬんだ!」


「先生、立花くんの具合が悪いみたいです。会話もろくにできないみたいです……」


 火鉢さんは後ろを振り返る。

 僕の視覚は、聴覚は、火鉢さんに集中しすぎていた。

 火鉢さんが振り向いた方向、教室の入り口を見る。先生が呆然と立ち尽くしていた。

 彼女はドアの開く音で先生の入室に気づいたのだろう。


「あ、ああ……」


 先生は少し遅れて反応し、僕のもとに来た。


 先生をカッターナイフで脅すのは、さすがの僕でも気が引けた。僕は素直に先生に従った。生徒指導室に連行された。


                       *


「それ、カッターナイフだよね? なんで持ってんの?」


 先生は生徒指導室に来てようやく、状況を飲み込み始めたらしい。冷静な物腰で問いかけてくる。


 僕は手元のカッターナイフを一瞥する。先生の頭上を睨んだ。しかし、先生の顔が微量ながらも視覚の情報として流れてくる。うざったい。


「目を合わせないってことは、何かやましいことでもあるんだね」


 先生は先生で、僕のほうなんかちらちら見るぐらいで、視線は、ほとんどカッターナイフに固定しているじゃないか。やっていることは僕と大差ない。


 僕はそんな奴に怒られるのが嫌になって、つい言い返してしまった。


「先生こそ、僕のこれに興味ありげじゃないですか。僕の目なんて見ようともしてない」


「そ、そんなわけないだろ」


 先生は露骨に狼狽えた。嘘が下手だな、と僕は内心嘲笑した。その直後、僕も人を見下していることに気づいた。死にたくなった。

「目が泳いでますが」


「こんな時だけ目を見るな!」


 先生は咳払いをして立ち上がる。


「まあ、いったん教室に戻れ。カッターナイフは俺が預かっておく」


 先生は僕に近寄る。僕の手からカッターナイフを乱暴に引き抜いた。ここで刃が出ていれば、彼はケガしたかもしれないのに。惜しいことをしたと僕は思う。


「心の傷は他人には見えない。俺にはお前の苦しみがわからんが……まあ、あんま無理すんなよ」


 先生は去り際にそう言った。その言葉を吐かれたほうが辛いことを、彼は知らない。


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